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■561 / inTopicNo.25)  Re[18]: またいずれ。
  
□投稿者/ パニチェ -(2018/07/31(Tue) 21:58:11)
    なんか、こちらこそ申し訳ないです。
    ダンザさんのカキコへの飲み込みの悪さや無関係なレスは私の問題です。
    でも無駄で無益な労力をかけたなんて、とんでもないです。
    久しぶりに知的好奇心をそそるような刺激的なレス交換でした、例え互いに噛み合っていなくとも、私にとっては。

    〈私〉に関しては原理的に誰よりも私が知っています。
    だからダンザさんが〈私〉としているものとは違うことだけは分かるのです。
    その一方で先にも述べましたがゴウさんや、「〈仏教3.0〉を哲学する」の共著者である藤田一照氏や山下良道氏らが語るところの〈私〉が消滅するような地点(これがダンザさんが語ろうとしているものと同一かどうかは分かりませんが)が〈私〉を突き抜けたところにある可能性もゼロではないと思っています。
    ただ現段階では、それはありえないし、〈私〉の存在が無いなんてことが在りえないし、想像もできないってのが正直なところです。

    私はダンザさんが語ろうとしている対象が理解できていません。
    〈私〉についての論考でなくとも、それはいいのですが(テーマが違っても気付きはありえると思うので)、互いに異なる対象について語っていては議論が成立しないというのは分かります。

    > 7月6日に頂いたレスもそうでしたし、「対象化」のロジックについてパニチェさんにご理解いただけるまでに約3週間を要しました。拙小論については、全体のロジックを先にご理解いただかないと一行たりとも理解不能だと思います。そのロジックを私が説明するとなるとおそらく2万文字以上と20枚以上のチャートによる説明を要します。なおかつ今回の「対象化」のように粘り強く説明するとなると、パニチェさんにご理解いただけるまでに数か月か数年を要することに成りかねません。そこで初めて議論がスタートとなるので、今の私の状況では難しいということをご理解ください。
    > もっと上手にロジックを説明できる能力が私にあれば良いのですが、それが無いために、深いところのロジックの全体的な流れに気づかれずに、浅いところの言語の表面だけを、しかも部分的に切り取られ引用されてレスを受けてしまう。「対象化」のときも7月6日のレスの時も同じで、今思えば、最初に、「部分引用レスをなさらないで全体的なレスを付けてください」という要請をすれば少しは違ったのかもしれません。

    対話者が私であったためにダンザさんが語ろうとしている対象にかすってなかったということですね。
    申し訳ない。何が浅くて、全体的な流れがなんなのかさえ私には分かりませんでした。
    でも、私的には収穫はありました。ありがとうございました。

引用返信/返信 削除キー/
■560 / inTopicNo.26)  またいずれ。
□投稿者/ Danza Espanola -(2018/07/31(Tue) 18:55:15)
    いろいろとありがとうございました。

    対話議論の方向性とは全く異なりましたが、個人的な議論の中でに一つの大きな閃きを得る機会に恵まれましたので有意義な時間でした。パニチェさんも一歩進んだとのことでそれは私にとって嬉しいことでした。

    拙小論内容については、”以上が私の〈私〉ロジックに対する概観であり、「それは〈私〉ではない」と拒否されているのですから今後は上述の小論について当掲示板で触れることはありません。同意、反論、共感、理解、不理解の別、などは必要としません。”

    以上のとおりで触れません。


    なぜ私の論考は誤解を招くのか、全く無関係のレスが付いてしまうのかについては今後の課題です。

    7月6日に頂いたレスもそうでしたし、「対象化」のロジックについてパニチェさんにご理解いただけるまでに約3週間を要しました。拙小論については、全体のロジックを先にご理解いただかないと一行たりとも理解不能だと思います。そのロジックを私が説明するとなるとおそらく2万文字以上と20枚以上のチャートによる説明を要します。なおかつ今回の「対象化」のように粘り強く説明するとなると、パニチェさんにご理解いただけるまでに数か月か数年を要することに成りかねません。そこで初めて議論がスタートとなるので、今の私の状況では難しいということをご理解ください。

    もっと上手にロジックを説明できる能力が私にあれば良いのですが、それが無いために、深いところのロジックの全体的な流れに気づかれずに、浅いところの言語の表面だけを、しかも部分的に切り取られ引用されてレスを受けてしまう。「対象化」のときも7月6日のレスの時も同じで、今思えば、最初に、「部分引用レスをなさらないで全体的なレスを付けてください」という要請をすれば少しは違ったのかもしれません。

    いずれにせよ、私に、全面的に責があることですので無駄で無益な労力をパニチェさんにさかせてしまい、大変申し訳ございませんでした。


    また、私の〈私〉観念が「私」であろうとパニチェさんの〈私〉とは違っていようとも、“私にとっては”何の問題もなく無関係です。「真の〈私〉」なるものやその議論には関心がありません。〈私〉についての考察というのは私にとって断片であり、本来の目的のために利用する一つのファクターという位置づけです。なので、パニチェさんにとっては、パニチェさんの信念に基づく感覚的な〈私〉について探求・研究のお話をされたいということなのでしょうが、これも、ごめんなさい、私にはできませんでした。


    拙小論を書き置いたのは、このニーチェクラブの掲示板という場での議論の中で、方向性は違えども個人的な閃きの要素の中の一つを得ることが出来たことへの、私なりに筋道のけじめです。自分のサイトで論考を書く前にここにその概観でも書き留めねば筋がとおらないだろうという勝手な思いです。試論の全体としても主張未満であり、もともとあらゆる持論には固い信念や執着がないので、これを主張として誰かに通そうなどとは全く思いません。既に前の投稿記事から価値論を含めた構造へヴァージョンアップしているので、つまり、一週間経てば別の説明をしていかなければならない、というのも私の今後の課題です。


    くりかえしになりますが、前の投稿記事で触れましたように、

    “もし参考にできるところがあって、今後のパニチェさん固有の「〈私〉論」に生かしていただけるのなら望外の幸せです。

    この“心”に嘘偽りはありません。


    長くなりました。最後までお読みくださりありがとうございました。


    激暑のなか、パニチェさん、ニーチェクラブにご参加の方々にとりましても厳しい今年の夏ですが、暑さに負けず油断せず、8月を乗り切ってまいりましょう。



引用返信/返信 削除キー/
■559 / inTopicNo.27)  論考
□投稿者/ パニチェ -(2018/07/29(Sun) 10:48:42)
    2018/07/29(Sun) 10:49:07 編集(管理者)

    五・六三三
    世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。ここでの事情は眼と視野との場合と全く同じである、と君は語るであろう。しかし現実には君は眼を見ないのである。そして視野における何者からも、それが眼によって見られていることは推論されえない

    五・六三三一
    というのも視野は決してこのような形をしていないからである
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■558 / inTopicNo.28)  「私」は〈私〉に非ず
□投稿者/ パニチェ -(2018/07/29(Sun) 10:38:12)
    2018/07/29(Sun) 10:59:39 編集(管理者)

    おはようございます。昨日は野暮用で返信できませんでした。
    すんまそん。^^

    No554に返信(Danza Espanolaさんの記事)
    > 上記での「そもそもの〈私〉は在ります」という文言で、何かが「在る」の前には必ず「その何か」の対象化がなければならない。〈私〉を記述する以前に、パニチェさんの頭の中で対象化が行われているのです。
    > ですから、
    > 「対象化し変質した〈私〉の存在など無い」に合意であるのならば、既に対象化し変質した、〈私〉という表記以前の何かの存在は既に変質しており、「〈私〉の存在など無い」に合意できるのではありませんか?
    > もしくは、「対象化で変質」を撤回し、「言語化で変質」にしますか?
    > (こちらの方はロジックとして間違っていないのは自明です)

    もの凄く的確な指摘です。
    言葉にした時点で〈私〉は変質する、これは間違いないのですが、自己のうちで変質するのかどうか内観したり確かめたりしてみました。
    これまで考えてもいなかったことで、これを試みることで一歩前進しました。

    例えは的確ではないですが〈私〉は自然(無意識的な)呼吸に似たところがあります。
    呼吸って意識した途端に意識的な呼吸になり、自然呼吸とは違うものとなってしまう。
    〈私〉もこれを分析しようとしたり、客体化してしまうと自己の内でも変質する。そういういうところは呼吸に似ている。
    ところが呼吸も〈私〉も意識したり客体化する以前から存在はしている。それは間違いないが、この理由や根拠を言葉にできない、もしくはもう少し深化する必要があるとは思います。

    > パニチェさんの感覚上の〈私〉ではないと断言されているので、この掲示板に記述するのは無意味と判断し小論を書くのはやめることにします。
    > とりあえずチャートは20枚ほど準備しておりましたが、約2万文字程度を予定していた試論は取り掛かっていませんでしたので、そう仰っていただき助かりました。

    ははは。^^

    > 私がイメージしていた〈私〉は哲学者が色々なところで「私」と書いていますが、下記に好例がありますので引用し、その下に小論の概観だけ記述しておきますね。

    ありがとう、手間かけました。

    ********************

    > デカルトもパスカルも「私」の視点から世界を見ることを一度は発見した。ところが、神的(視点忘却的)視点から世界を見る存在観が残っていると、この存在観に舞い戻ってしまう。これを防ぐのが、世界の存在に対する「判断中止」(エポケー)である。世界があらかじめ存在している、「私」もその一部として存在している、という信念にコミットせず、宙吊りにしておくのである。
    > この存在論的問題を踏まえたうえで、フッサールは続けて言う。「哲学者にとって・・・・・・「客観としての世界の中の主観性」であると同時に、「世界に対する意識主観」であるということの相互関係のうちにこそ、それがいかにして可能かということを理解すべき必然的な理論的問題が存しているのである。」
    > (中公クラシックス版 『フッサール デカルト的省察』前書きより)
    > ***** 以上引用終わり *****

    神的視点からせかいを見ているかのようなイメージは錯覚であって、それは存在感でもなんでもないように私には思えます。
    『世界があらかじめ存在している、「私」もその一部として存在している』というのは幻想や想像でしかない。
    上記は独我論が超リアルでああるのに対して、むしろSF的な世界観となります。つまり世界『世界があらかじめ存在している、「私」もその一部として存在している』という常識的とも言える感覚は厳密に言うと感覚ではなく幻像や妄想の類です。何故なら、私たちの感覚は決して超越論的感覚ではありえないからです。

    > 同書の翻訳は船橋弘氏ですが、前書きについては、哲学者の谷徹氏が39ページに渡っての長文で「フッサールの問いは終わらない」というタイトルで述べています。(※翻訳は岩波文庫版 浜渦辰二訳『デカルト的省察』の方が断然読みやすいので、これから読んでみようという方には岩波版のほうをお勧めします。)

    > そしてフッサールはその「私」の視座世界に現象学のすべてを還元しようとした。しかしその視座では「私」は存在しないし一切の言及ができない。(ウィトゲンシュタインが「『私の見た世界』という本があるなら「私」には言及できない」と述べていたとおりです。

    デカルトやフッサールは訳本を読んだことがないので分かりませんが。。。ウィトゲンシュタインは違うと思います。
    論考の五・六三三『世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。ここでの事情は眼と視野との場合と全く同じである、と君は語るであろう。しかし現実には君は眼を見ないのである。そして視野における何者からも、それが眼によって見られていることは推論されえない。』に続く、五・六三三一(次のレスで図入りで引用しておきます)で『というのも視野は決してこのような形をしていないからである』は自分の眼や存在を含む世界を俯瞰する図は想像上のものであしかなく、ありえないことを示しているからです。

    > 彼らが、その視座では「私」が使えない、しかし存在論上では「私」は在る、という矛盾状態の「私」のことを、私は〈私〉としています。

    それは多分、〈私〉ではなく「私」だと思います。仏教で教えるところの無我の対象となる「私」で、超リアルな〈私〉ではありません。

    > 上記のとおりフッサール現象学では存在論上の「私」の視点をエポケーするのですが、私はエポケーせず、上記視座の私は存在しない、存在論視座の実在の私は確かに存在する、またもう一つの観念論的視座(パニチェさんが〈私〉と世界を俯瞰した視座です)の「私」は変質した言語になっているが私の存在を許容する、という立場をとり、三視座の矛盾をそのままにどこまでも純化します。

    ここちょっと理解できていません。〈私〉は観念論や存在論や認識論を止揚するとことの〈私〉です。また〈私〉と世界を俯瞰した視座は誤りであると気付いた視座(球面の底)ですが、それはよろしいでしょうか。
    その上で『フッサール現象学では存在論上の「私」の視点をエポケーする』ということの意味は原点の〈私〉に戻るということであれば理解できますが、判断を中止する対象を〈私〉としているのであれば、それは〈私〉ではなく「私」ということになります。その「私」は誰にでも当てはまるとのころの「私」であるからです。

    以下への返信は上記への返信をもらってからにしたいと思います。

    > この三関係性においては、通常、三視座の統合を目指す同一性がはたらいており、その同一性は、実在視座と観念視座の認識による価値に根源をなし、上記の私が存在しない視座に還元され価値に対する欲求となり意志となる。
    > この同一性は無意識下にはたらいているため、人は「自分は一つの視座返信で世界を見ている」と感覚しています。三視座に気づきません。哲学者でさえ、この三視座のダイナミズムの自覚なく、存在論や認識論を著述している部分があると私は考えています。
    > 「自分の中の三視座におけるロジックの整合性をとりたい」と無意識の中で同一性をはたらかせるのは人間に於いて当然であり、私のように、それぞれを純化して、「自己内矛盾大いにけっこう、第四の主観視座でまとめる方が良い」と考える変人は少ないのかもしれませんね。
    > 今の私は〈私〉については上記と認識していますので、次の段階として、この同一性を力動的観点、発生的観点から捉え直すことの考察が中盤に差し掛かっているという段階にあります。
    > 作成したチャートに関してはニーチェクラブでは掲載しないことに決めましたが、いずれ私の個人サイトで使うことが出来ますし、ビジネスとしてもコンサルティングにに活用できるので、作成についてはお気遣いなさらないようお願いいたします。要請されたわけでもなく、祝意として今週末を目指し勝手に作成していただけですので。

    以下は〈私〉ではなく「私」に関する考察としては同意できます。
    つまり言語によって形成されるところの「私」であり、万人にも共有可能な対象です。
    個別レスに対する返信は今回はペンディングさせてもらいます。

    > >>「愛してる」と「愛している」の語感の違いを説明できますか?
    >>感覚的には「愛してる」は無自性で、「愛している」は自性を伴うような感じはします。
    >>「痛い」と「痛みがある」との違いに近いかな。。。
    > こうして「愛してる」と「愛している」の違いを感覚でき説明を試みることが出来るのは何故でしょうか。英語訳では I love you フランス語訳では Je t'aime としか書けない。それは「愛している」のほうです。
    > 「愛してる」という語感表現は、インド・ヨーロッパ言語圏では表現できません。

    > ウィトゲンシュタインが限界としたところがなぜ私には限界ではなかったかというのは簡単な理由で、ウラル・アルタイ語圏の日本文化に育った日本人だったからというだけです。

    > ********************
    > ウラル・アルタイ言語圏(そこでは主語概念がいちじるしく未発達である)の哲学者たちがインド・ゲルマン族や回教徒たちとは異なった風に「世界を」眺め、異なった道を歩きつつあるというのは、大いにありうることであろう。
    > (ニーチェ『線悪の彼岸』20番)
    > ***** 以上引用終わり *****

    > 主語概念が未発達な地域はともかく、日本の場合は武士の「拙者」や「われ」「わ」という主語は発達しており、この間接主観的一人称を省略するのではなく、禁じて表現する場面があり、一方で一人称を使用する場面(こちらは省略有)と使い分けてきたということです。
    > 『善悪の彼岸』では他にも、30番や54番など(他にもあったかと)でニーチェが自分の言語圏では捉えられない「視座」について触れている箇所があります。今更ながらその慧眼ぶりには脱帽です。
    > ※「 I 」を無くすことのできない文化のなかで、ミードは I(主我)について、「新生児は自己の周囲の社会的対象すなわち他者とのコミュニケーションを通して、次第に未組織な主我を組織化していき、ここに主体性としての主我が成り立つ。共同体の態度・期待・役割を内在化させた自我の部分を客我(me)とよぶ。主我は絶えずみずからを対象化(客我化)していく。」と述べています。

引用返信/返信 削除キー/
■556 / inTopicNo.29)  Re[17]: 〈私〉はなぜ存在しないのか
□投稿者/ Danza Espanola -(2018/07/25(Wed) 02:41:04)
    手荒な祝意でしたが好意的に受け止めて頂けたようで良かったです。

    先の私の記述では、補記しないと理解不能な箇所が幾つかあるなと今見て思いますが、そのままにします。

    今回は返信というよりも、パニチェさんご自身の論考を望んでいます。
    そういう「時」だとも思いますし。

    長期にわたり馴染んできた『〈私〉の哲学』の認識をわずかにでも変えることは多大なエネルギーを要すでしょうし、それよりも、パニチェさんの手による新たな“解釈の”地平が開かれることを期待しております。

    土曜日曜を楽しみに待ちます。(日曜朝〜月曜夜は不在の可能性有りです)


引用返信/返信 削除キー/
■555 / inTopicNo.30)  Re[16]: 〈私〉はなぜ存在しないのか
□投稿者/ パニチェ -(2018/07/24(Tue) 22:40:48)
    もの凄く興味深くて面白い返信です。
    なんかワクワクするようなレスです。
    特に頭に浮かべた時点で対象化しているのか、していないのかは、今まで考えもしなかった、もの凄い宿題です。
    答えが出せるかどうか分かりませんが、久々に強烈な知的刺激を受けました。
    じっくり考えて返信したいので、今度の土曜か日曜になります。
    ありがとう!^^
引用返信/返信 削除キー/
■554 / inTopicNo.31)  Re[15]: 〈私〉はなぜ存在しないのか
□投稿者/ Danza Espanola -(2018/07/24(Tue) 20:50:18)
    こんばんは!


    >>>>「先言の〈私〉」の〈私〉はこの文章に於いては対象化されていることに間違いはなく、〈私〉を「A」や「これ」に替えたり、言葉を使わなくても自分を指さすことや頭の中で指し示すことでも、いずれも対象化されます。

    > >>上記はその通りです。

    「〈私〉を「A」や「これ」に替えたり、言葉を使わなくても自分を指すことや頭の中で指し示すことでも、いずれも対象化されます」

    ということに同意されているのですから、


    > 「対象化し変質した〈私〉の存在など無い」は合意ですが、そもそもの〈私〉は在ります。

    上記での「そもそもの〈私〉は在ります」という文言で、何かが「在る」の前には必ず「その何か」の対象化がなければならない。〈私〉を記述する以前に、パニチェさんの頭の中で対象化が行われているのです。

    ですから、

    「対象化し変質した〈私〉の存在など無い」に合意であるのならば、既に対象化し変質した、〈私〉という表記以前の何かの存在は既に変質しており、「〈私〉の存在など無い」に合意できるのではありませんか?

    もしくは、「対象化で変質」を撤回し、「言語化で変質」にしますか?

    (こちらの方はロジックとして間違っていないのは自明です)



    > 了解しましたが、ここ平行線になりそうな予感もあります。^^

    > ここ聞いておいて申し訳ないのですが、(正直に言います)今回の返信からすると、やはり〈私〉については同じ対象(厳密には同じではありえないのですが)について話してないと思います。
    > ダンザさんがパニチェが言うから仮に「在るとしよう」としたところの仮の〈私〉のような気がしています。この段階で明確に言えることは、それは〈私〉ではないということです。

    パニチェさんの感覚上の〈私〉ではないと断言されているので、この掲示板に記述するのは無意味と判断し小論を書くのはやめることにします。

    とりあえずチャートは20枚ほど準備しておりましたが、約2万文字程度を予定していた試論は取り掛かっていませんでしたので、そう仰っていただき助かりました。

    私がイメージしていた〈私〉は哲学者が色々なところで「私」と書いていますが、下記に好例がありますので引用し、その下に小論の概観だけ記述しておきますね。


    ********************

    デカルトもパスカルも「私」の視点から世界を見ることを一度は発見した。ところが、神的(視点忘却的)視点から世界を見る存在観が残っていると、この存在観に舞い戻ってしまう。これを防ぐのが、世界の存在に対する「判断中止」(エポケー)である。世界があらかじめ存在している、「私」もその一部として存在している、という信念にコミットせず、宙吊りにしておくのである。

    この存在論的問題を踏まえたうえで、フッサールは続けて言う。「哲学者にとって・・・・・・「客観としての世界の中の主観性」であると同時に、「世界に対する意識主観」であるということの相互関係のうちにこそ、それがいかにして可能かということを理解すべき必然的な理論的問題が存しているのである。」

    (中公クラシックス版 『フッサール デカルト的省察』前書きより)

    ***** 以上引用終わり *****

    同書の翻訳は船橋弘氏ですが、前書きについては、哲学者の谷徹氏が39ページに渡っての長文で「フッサールの問いは終わらない」というタイトルで述べています。(※翻訳は岩波文庫版 浜渦辰二訳『デカルト的省察』の方が断然読みやすいので、これから読んでみようという方には岩波版のほうをお勧めします。)

    以上の、デカルト、パスカル、フッサール、(おそらくウィトゲンシュタインも)によって発見された「私」の視点ですが、裏を返せば、上記の哲学者以外は気づかなかった可能性があります。なぜ頭脳明晰な西洋哲学者たちが気づけなかったのかについては後述します。

    そしてフッサールはその「私」の視座世界に現象学のすべてを還元しようとした。しかしその視座では「私」は存在しないし一切の言及ができない。(ウィトゲンシュタインが「『私の見た世界』という本があるなら「私」には言及できない」と述べていたとおりです。

    上記の4名が語るに語れない「私」というのが、私の〈私〉観念です。

    彼らが、その視座では「私」が使えない、しかし存在論上では「私」は在る、という矛盾状態の「私」のことを、私は〈私〉としています。


    上記のとおりフッサール現象学では存在論上の「私」の視点をエポケーするのですが、私はエポケーせず、上記視座の私は存在しない、存在論視座の実在の私は確かに存在する、またもう一つの観念論的視座(パニチェさんが〈私〉と世界を俯瞰した視座です)の「私」は変質した言語になっているが私の存在を許容する、という立場をとり、三視座の矛盾をそのままにどこまでも純化します。

    その上で三視座の上から見下ろす第四の主観視座によって、その三視座構造が作りだす三つの関係性を吟味、省察し、その上で上記の一つの視座へ還元します。

    この三関係性においては、通常、三視座の統合を目指す同一性がはたらいており、その同一性は、実在視座と観念視座の認識による価値に根源をなし、上記の私が存在しない視座に還元され価値に対する欲求となり意志となる。

    この同一性は無意識下にはたらいているため、人は「自分は一つの視座で世界を見ている」と感覚しています。三視座に気づきません。哲学者でさえ、この三視座のダイナミズムの自覚なく、存在論や認識論を著述している部分があると私は考えています。

    「自分の中の三視座におけるロジックの整合性をとりたい」と無意識の中で同一性をはたらかせるのは人間に於いて当然であり、私のように、それぞれを純化して、「自己内矛盾大いにけっこう、第四の主観視座でまとめる方が良い」と考える変人は少ないのかもしれませんね。


    今の私は〈私〉については上記と認識していますので、次の段階として、この同一性を力動的観点、発生的観点から捉え直すことの考察が中盤に差し掛かっているという段階にあります。

    作成したチャートに関してはニーチェクラブでは掲載しないことに決めましたが、いずれ私の個人サイトで使うことが出来ますし、ビジネスとしてもコンサルティングにに活用できるので、作成についてはお気遣いなさらないようお願いいたします。要請されたわけでもなく、祝意として今週末を目指し勝手に作成していただけですので。


    >>「愛してる」と「愛している」の語感の違いを説明できますか?
    >
    > 感覚的には「愛してる」は無自性で、「愛している」は自性を伴うような感じはします。
    > 「痛い」と「痛みがある」との違いに近いかな。。。

    こうして「愛してる」と「愛している」の違いを感覚でき説明を試みることが出来るのは何故でしょうか。英語訳では I love you フランス語訳では Je t'aime としか書けない。それは「愛している」のほうです。

    「愛してる」という語感表現は、インド・ヨーロッパ言語圏では表現できません。

    ウィトゲンシュタインが限界としたところがなぜ私には限界ではなかったかというのは簡単な理由で、ウラル・アルタイ語圏の日本文化に育った日本人だったからというだけです。


    ********************

    ウラル・アルタイ言語圏(そこでは主語概念がいちじるしく未発達である)の哲学者たちがインド・ゲルマン族や回教徒たちとは異なった風に「世界を」眺め、異なった道を歩きつつあるというのは、大いにありうることであろう。

    (ニーチェ『線悪の彼岸』20番)

    ***** 以上引用終わり *****

    主語概念が未発達な地域はともかく、日本の場合は武士の「拙者」や「われ」「わ」という主語は発達しており、この間接主観的一人称を省略するのではなく、禁じて表現する場面があり、一方で一人称を使用する場面(こちらは省略有)と使い分けてきたということです。

    『善悪の彼岸』では他にも、30番や54番など(他にもあったかと)でニーチェが自分の言語圏では捉えられない「視座」について触れている箇所があります。今更ながらその慧眼ぶりには脱帽です。

    ※「 I 」を無くすことのできない文化のなかで、ミードは I(主我)について、「新生児は自己の周囲の社会的対象すなわち他者とのコミュニケーションを通して、次第に未組織な主我を組織化していき、ここに主体性としての主我が成り立つ。共同体の態度・期待・役割を内在化させた自我の部分を客我(me)とよぶ。主我は絶えずみずからを対象化(客我化)していく。」と述べています。


    以上が私の〈私〉ロジックに対する概観であり、「それは〈私〉ではない」と拒否されているのですから今後は上述の小論について当掲示板で触れることはありません。同意、反論、共感、理解、不理解の別、などは必要としません。パニチェさんとは異なったことは残念ですが、もし参考にできるところがあって、今後のパニチェさん固有の「〈私〉論」に生かしていただけるのなら望外の幸せです。

    詳細について省くため、存在論と認識論の手段化についても省きます。



引用返信/返信 削除キー/
■548 / inTopicNo.32)  Re[14]: 〈私〉はなぜ存在しないのか
□投稿者/ パニチェ -(2018/07/22(Sun) 13:12:14)
    こんにちは

    No539に返信(Danza Espanolaさんの記事)
    > 今や感覚だけでなくロジックとしても〈私〉は在りません。もちろん「私」もありません。世界の知覚は鮮明に在り、純粋認識ではなく、意味も価値も色づけられた世界が一面に広がっています。はっきり断言します。〈私〉は存在しない。

    〈私〉が存在しないのに世界の知覚は鮮明に在り、純粋認識ではなく、意味も価値も色づけられた世界が一面に在るということでしょうか?
    もしそうであるとすれば、ここは共有できないですね。
    私的には〈私〉が存在しないのであれば、世界の知覚や純粋認識ではなく、意味も価値も色づけられた世界が一面に在るなんてことはあり得ないというのが私の確信だからです。

    > マルクス・ガブリエルは『世界はなぜ存在しないのか』という著書で一躍有名になりましたが(今年の初めに読みました)、私は、『私はなぜ存在しないのか』というロジックを一冊分くらいの量で説明できます。有名になりたくないので書きませんが(苦笑)

    全く合意はできませんが、買って読んでみたい本ではありますね。^^

    > そもそも、「〈私〉を対象化すれば〈私〉は変質する」と頑強なまでに主張し私に教えてくれたのはパニチェさんではありませんか。「〈私〉は在る」というのは特に強い〈私〉の対象化(実在化)に他なりません。パニチェさんも以下のように同意してくださっております。
    > >>「先言の〈私〉」の〈私〉はこの文章に於いては対象化されていることに間違いはなく、〈私〉を「A」や「これ」に替えたり、言葉を使わなくても自分を指さすことや頭の中で指し示すことでも、いずれも対象化されます。
    >>上記はその通りです。
    > いまや立場は逆転し、私の方がパニチェさんに「〈私〉を対象化してはならない」「対象化し変質した〈私〉の存在など無い」と言わなければならなくなっているのも面白い現象です。

    「対象化し変質した〈私〉の存在など無い」は合意ですが、そもそもの〈私〉は在ります。
    存在は何よりも確実なものとして在るが言葉にすると変質してしまい、もともとの〈私〉ではなくなるという話です。

    > 徹底しているのでカニッツアの三角形でさえ対象化になります。
    > この方向へ私を意識付けしてくれたのはパニチェさんであり、本当に大感謝しているところです。

    カニッツァの三角形は図形としては無いでしょう。でもその存在は図形ではないものが在るということです。
    〈私〉に話を戻すと、言葉できないという理由で無いとは言えないのが〈私〉です。

    > 言語をもたない猫や犬も知恵を使うことができ、言語が理解できず表現もできない知的障碍者の方々も(言語を使える人々に比べたら少ないですが)知恵を使うことができると私は認識しています。また言語習得以前の生後0歳児も、言語に寄らずに世界の意味付けと価値付けを始め、思考し少しの知恵を使って活動を始めていると、これも私の認識ですが、パニチェさんとは異なるようです。他者と認識が異なっても私的には全く問題ないのですが、パニチェさんの論拠が普遍性をもたないことの主張だけはしておきたいと思います。デカルトの「われ」については異論というか異解釈が私にあります(これは試論で触れます)。

    〈私〉自体が普遍性を持ちません。もちろん〈私〉を説明したどのような表現や言葉や言語も普遍性を持ちません。
    普遍性を持たないのが〈私〉の比類なさです。言葉自体が対象を一般化してしまう、それは普遍化と同じことであり、だから変質してしまうということです。

    > 上記等の枝葉の議論が終わり次第、明快に説明しようと思います。

    了解しましたが、ここ平行線になりそうな予感もあります。^^

    > ニーチェの「自分の認識を伝えるやいなや、人はもはやそれを十分に愛さなくなる」との訓戒に従い、未だ一語のメモもアウトプットしていない状況です。もう少し愛する時間をください。一つの小さな試論を書きますので。

    了解です。

    >>比類がないのは先言だから、先言だから比類がないってことになると、後者を主たるテーマにしていることになるんでしょうか。自分でもよく分かりませんが、感覚的には「比類なき」と「先言」は私の場合は同等です。
    > この点も枝なのですが、「比類がないから先言だ」にはならないと思うのです。ゆえにパニチェさんは「先言」を土台にしていると私は解釈しました。価値の同等については了解しました。

    先言を土台にしているというところがピンときません。
    土台はあくまでも〈私〉の存在です。

    > 腑に落ちたプロセスとしては、まず、睡眠中かもしくは起きたその場での閃きです。その閃きによって、この三週間ほど学んできた、デカルトの言説、カントの言説、フッサールの言説、大森荘蔵の言説、竹田青嗣の言説、岩波哲学思想事典の数々の知見、その他さまざまな無意識内においた情報がパラパラと組み合わさり一挙に構造化されたイメージです。閃き自体は、閃きとしか言いようがありません。

    ここ聞いておいて申し訳ないのですが、(正直に言います)今回の返信からすると、やはり〈私〉については同じ対象(厳密には同じではありえないのですが)について話してないと思います。
    ダンザさんがパニチェが言うから仮に「在るとしよう」としたところの仮の〈私〉のような気がしています。この段階で明確に言えることは、それは〈私〉ではないということです。

    > その構造化されたものに手直しを加えながら、ある大哲学者がどう言っているのか確認をとったところ(たぶん彼はどこかに書いているだろうと思い)、案の定言及しており、私の認識の前を歩いていました。圧倒的に敵いませんね。
    > パニチェルームにあるウィトゲンシュタインの言説についても、ウィトゲンシュタインが言語の限界は世界の限界だとした箇所で、なぜウィトゲンシュタインが限界としたことを、私は限界とはしなかったのかについても明快に説明できると思います。(論拠の資料はとれますが、それは大量の労力と時間がかかりそうなので今は現実的ではありません)。しかし概略で、おそらくパニチェさんもロジックに納得してくれるのではないかと推測しています。

    ロジックには興味ありますが、納得できるかどうかは現段階では何とも言えません。^^

    > 「愛してる」と「愛している」の語感の違いを説明できますか?

    感覚的には「愛してる」は無自性で、「愛している」は自性を伴うような感じはします。
    「痛い」と「痛みがある」との違いに近いかな。。。

    > いいですね!
    > 手順を踏んで、できるだけテーマを分散化しないように気をつけて挑みたいと考えております。個人的にはまず、哲学の双璧である存在論と認識論を手段化します。

    楽しみです。
    存在論と認識論は〈私〉でもって合体し、ともに終焉してるんですけどね、今のところの私の中では。。。

    > 「意識」関連のテーマについては別の論議としてやりましょう!

    了解しました。

    > この程度の変換は朝飯前でなんの障害にもなりません!
    > 参考記事:『間違いを消さない教育で身に付くものとは?』
    > ttps://toyokeizai.net/articles/-/178596

    おおきに♪

引用返信/返信 削除キー/
■539 / inTopicNo.33)  〈私〉はなぜ存在しないのか
□投稿者/ Danza Espanola -(2018/07/16(Mon) 21:37:14)
    こんばんは!


    > ここ聞きたいんですが、〈私〉は在るがゼロ並ぶあ、何か在りますか?それとも何にもないですか?
    > 何にもなければ世界を知覚あるいは認識している主体もなくなり、世界もなくなりませんか?

    今や感覚だけでなくロジックとしても〈私〉は在りません。もちろん「私」もありません。世界の知覚は鮮明に在り、純粋認識ではなく、意味も価値も色づけられた世界が一面に広がっています。はっきり断言します。〈私〉は存在しない。

    マルクス・ガブリエルは『世界はなぜ存在しないのか』という著書で一躍有名になりましたが(今年の初めに読みました)、私は、『私はなぜ存在しないのか』というロジックを一冊分くらいの量で説明できます。有名になりたくないので書きませんが(苦笑)

    そもそも、「〈私〉を対象化すれば〈私〉は変質する」と頑強なまでに主張し私に教えてくれたのはパニチェさんではありませんか。「〈私〉は在る」というのは特に強い〈私〉の対象化(実在化)に他なりません。パニチェさんも以下のように同意してくださっております。

    >>「先言の〈私〉」の〈私〉はこの文章に於いては対象化されていることに間違いはなく、〈私〉を「A」や「これ」に替えたり、言葉を使わなくても自分を指さすことや頭の中で指し示すことでも、いずれも対象化されます。
    >
    > 上記はその通りです。


    いまや立場は逆転し、私の方がパニチェさんに「〈私〉を対象化してはならない」「対象化し変質した〈私〉の存在など無い」と言わなければならなくなっているのも面白い現象です。

    徹底しているのでカニッツアの三角形でさえ対象化になります。
    この方向へ私を意識付けしてくれたのはパニチェさんであり、本当に大感謝しているところです。


    > 「われ思う故にわれあり」の“われ”は言語によって成立する“われ”だと思うのです。所謂“物心”がついた以降。
    > でも言語学習を可能とする主体は言語に先んじて在るわけで、不特定多数の“われ”が言語によって〈私〉になることはありえない。何故、ありえないかは言語では説明できそうにありません。

    言語をもたない猫や犬も知恵を使うことができ、言語が理解できず表現もできない知的障碍者の方々も(言語を使える人々に比べたら少ないですが)知恵を使うことができると私は認識しています。また言語習得以前の生後0歳児も、言語に寄らずに世界の意味付けと価値付けを始め、思考し少しの知恵を使って活動を始めていると、これも私の認識ですが、パニチェさんとは異なるようです。他者と認識が異なっても私的には全く問題ないのですが、パニチェさんの論拠が普遍性をもたないことの主張だけはしておきたいと思います。デカルトの「われ」については異論というか異解釈が私にあります(これは試論で触れます)。


    > 「〈私〉が在る」が得心できているなら、私が言わんとしていることとズレていることが理解できるというのであれば分かるのですが、ダンザさんの場合は亘時〈私〉が在るはゼロにもかかわらず理解できると言えるのか、ここのところも不思議です。言葉で説明できそうなら、ここのところをもう少し詳しくお願いします。

    上記等の枝葉の議論が終わり次第、明快に説明しようと思います。
    ニーチェの「自分の認識を伝えるやいなや、人はもはやそれを十分に愛さなくなる」との訓戒に従い、未だ一語のメモもアウトプットしていない状況です。もう少し愛する時間をください。一つの小さな試論を書きますので。


    > 比類がないのは先言だから、先言だから比類がないってことになると、後者を主たるテーマにしていることになるんでしょうか。自分でもよく分かりませんが、感覚的には「比類なき」と「先言」は私の場合は同等です。

    この点も枝なのですが、「比類がないから先言だ」にはならないと思うのです。ゆえにパニチェさんは「先言」を土台にしていると私は解釈しました。価値の同等については了解しました。


    > 腑に落ちたきっかけというか、どういうプロセスを経て腑に落ちたかよかったら、教えて下さい。

    腑に落ちたプロセスとしては、まず、睡眠中かもしくは起きたその場での閃きです。その閃きによって、この三週間ほど学んできた、デカルトの言説、カントの言説、フッサールの言説、大森荘蔵の言説、竹田青嗣の言説、岩波哲学思想事典の数々の知見、その他さまざまな無意識内においた情報がパラパラと組み合わさり一挙に構造化されたイメージです。閃き自体は、閃きとしか言いようがありません。

    その構造化されたものに手直しを加えながら、ある大哲学者がどう言っているのか確認をとったところ(たぶん彼はどこかに書いているだろうと思い)、案の定言及しており、私の認識の前を歩いていました。圧倒的に敵いませんね。

    パニチェルームにあるウィトゲンシュタインの言説についても、ウィトゲンシュタインが言語の限界は世界の限界だとした箇所で、なぜウィトゲンシュタインが限界としたことを、私は限界とはしなかったのかについても明快に説明できると思います。(論拠の資料はとれますが、それは大量の労力と時間がかかりそうなので今は現実的ではありません)。しかし概略で、おそらくパニチェさんもロジックに納得してくれるのではないかと推測しています。

    「愛してる」と「愛している」の語感の違いを説明できますか?


    > はい、何か大上段に構えた物言いになるので普段は控えてはいるのですが、正直に言うと。。。
    > 「あらゆる論」「思想哲学」「脳科学も含めた科学的知見」「宗教」は大事の前の小事だと思います。

    いいですね!
    手順を踏んで、できるだけテーマを分散化しないように気をつけて挑みたいと考えております。個人的にはまず、哲学の双璧である存在論と認識論を手段化します。


    > ほぉ〜。やっぱそうなんですかねえ〜。私は懐疑的です。^^

    「意識」関連のテーマについては別の論議としてやりましょう!


    > 空中をすっ飛んで遥か先にワープするのはダンザさんの魅力です。同じならむしろ先に進みにくいでしょう。
    > 美学に関して除くことは私も同じですし、よろしくお願いします。

    私の変な思考のしかたと変な性格をご理解くださり恐縮です。
    こちらこそよろしくお願いします。


    > PS.誤字が多くてすんまそん♪^^

    気にせずこのままいきましょう!

    >〈私〉は在るがゼロ並ぶあ、→ 〈私〉は在るがゼロならば、

    この程度の変換は朝飯前でなんの障害にもなりません!

    参考記事:『間違いを消さない教育で身に付くものとは?』
    ttps://toyokeizai.net/articles/-/178596



引用返信/返信 削除キー/
■534 / inTopicNo.34)  Re[12]: 対象化してはならない〈私〉
□投稿者/ パニチェ -(2018/07/15(Sun) 09:54:04)
    おはようございます。

    No533に返信(Danza Espanolaさんの記事)

    > 更にこの一週間、〈私〉について自己内議論が佳境に入ってきた感ありです。

    それは頼もしい。

    > 感覚的に「〈私〉は在る」は未だにゼロです。

    ここ聞きたいんですが、〈私〉は在るがゼロ並ぶあ、何か在りますか?それとも何にもないですか?
    何にもなければ世界を知覚あるいは認識している主体もなくなり、世界もなくなりませんか?

    > しかし論理からすれば、デカルトの「われ思う故にわれあり」よりも「われ在るが故にわれ思う」の方が存在論として自然ですね。後者の方はわかりやすく誰もが当然に感じるのではないかと思うのです。しかしパニチェさんの言わんとしていることとはズレている、ということも理解しているつもりです。

    「われ思う故にわれあり」の“われ”は言語によって成立する“われ”だと思うのです。所謂“物心”がついた以降。
    でも言語学習を可能とする主体は言語に先んじて在るわけで、不特定多数の“われ”が言語によって〈私〉になることはありえない。何故、ありえないかは言語では説明できそうにありません。
    「〈私〉が在る」が得心できているなら、私が言わんとしていることとズレていることが理解できるというのであれば分かるのですが、ダンザさんの場合は亘時〈私〉が在るはゼロにもかかわらず理解できると言えるのか、ここのところも不思議です。言葉で説明できそうなら、ここのところをもう少し詳しくお願いします。

    > 「比類なき先言の〈私〉」は、「比類なき〈私〉」と「先言の〈私〉」に分けることができ、永井均さんは前者を主たるテーマ「〈私〉の比類なさ」として考察しているようにうかがえ、パニチェさんは後者を主たるテーマとして考察しているように感じているのですが、間違っていますか。

    比類がないのは先言だから、先言だから比類がないってことになると、後者を主たるテーマにしていることになるんでしょうか。自分でもよく分かりませんが、感覚的には「比類なき」と「先言」は私の場合は同等です。

    >当初私はアイデンティティに関連する同一性の問題が関与しているのかなと考えていました。パニチェルームの一部にも若干同一性について触れられている部分がありましたが、これらはいずれも「比類なき〈私〉」のほうだと考えています。こちらの方は一緒くたに考えるよりも一旦横に措かせてもらえませんか。

    確かにアイデンティティとか自己同一性というのは記憶も深くかかわることからして、言葉によって認識(自覚)する「比類なき〈私〉」がメインになると思いますが、一旦、横に置くことは了解しました。

    > 「先言の〈私〉」について見えてきたところがあるのです。
    > こちらについては、心理学的な同一性の問題は一切なく、純粋な哲学として捉えるべきだと、そういう思いに到りました。
    > 但し、この文章は間違っているのではないか、もっと良い別の言い方があるのではないかと思うのです。(命名されたキダマサさんには申し訳ないのですが)、というのは、パニチェさん曰く「対象化した時点で〈私〉は変質する」ということを繰り返し強く述べています。
    > この一週間十分に悩みました。「先言の〈私〉」の〈私〉はこの文章に於いては対象化されていることに間違いはなく、〈私〉を「A」や「これ」に替えたり、言葉を使わなくても自分を指さすことや頭の中で指し示すことでも、いずれも対象化されます。

    上記はその通りです。

    > しかしパニチェさんは対象化できないと言う。
    > なので私は、パニチェさんの対象化できないという感覚の方を信頼し、「先言の〈私〉」は無視することにしました。つまり対象化しない。〈私〉についても、そうして考えています。こちらは対象化してはならないというレベルです。但しこの場では〈私〉を使用します。

    表記について了解しました。

    > 先レスにあった「object」については改めまして次のレスまたは次の次のレスで明らかにします。

    これも了解です。

    > ところで確認なのですが、岩波哲学思想事典の「自己」の項目に書かれている次のウィトゲンシュタインの言説にパニチェさんは同意または同感しますか?
    > 【ウィトゲンシュタインは、『私が見出した世界』という本が書かれていたとすれば、まさに知覚し表象している「私」はここには言及されえない、と述べている。】

    同感できます。

    > 私は、おそらく二週間前ではまったく理解不能で同意できなかったのですが、ここにきて論理的に腑に落ちました。同意します。完全に。

    腑に落ちたきっかけというか、どういうプロセスを経て腑に落ちたかよかったら、教えて下さい。

    > >質問ばかりで申し訳ないのですが「誕生日ごとに経験する、他人には理解できそうもない純粋認識の体験」はどのようなものか、よかったら教えて下さい。
    > これについては固有体験的なものと認識していて、例えば「私は左脳と右脳を分断し右脳だけで世界を感じとるようなことが意図的にできる」といった、たぶんパニチェさん的には有り得ないことでしょうし、つまり私にとって〈私〉を感覚することができないことと同じなので、論理的に私自身が説明できるようになってからにしようと思いますが、どうでしょうか?

    了解しました。

    >>いえ、同じです。で、私が一人で考える時も気付かぬうちに先にあったような変質した対象になっている場合がありませ。
    >>そして原点に戻したりしています。必ず論理や言語にすれば、それは他者との会話に限らず行ったり戻ったりします。
    > 同意していただき、ありがとうございます。
    > 「〈私〉という哲学」の大きな目的の前では、あらゆる論、思想哲学は方法論(大事の前の小事)として手段化して良いというふうに捉えて良いでしょうか。

    はい、何か大上段に構えた物言いになるので普段は控えてはいるのですが、正直に言うと。。。
    「あらゆる論」「思想哲学」「脳科学も含めた科学的知見」「宗教」は大事の前の小事だと思います。

    > ここについては、意識の開闢からの演繹仮説のほうは何となく出来てるんですよ。しかし掘り下げる帰納がうまくできません。〈私〉が消えて、何段階かを経て純粋意識にまで実感として到達できるとすれば、ものすごい修行だと思います。藤田さんと山下さんはそこまで見性したのかもしれないですね。

    ほぉ〜。やっぱそうなんですかねえ〜。私は懐疑的です。^^

    > ありがとうございます。
    > パニチェさんも率直に真摯に認めてくださって、さすがだなと思いました。

    いえいえ、とんでもない。
    議論の目的が深化なら、間違いを認めるのは当たり前ですし、むしろ気付かせてもらったことに感謝です。

    > 私も空中をすっ飛んで暴走することが多々ありますので、ぜひ直截にご指摘ください。もともと持論にはまったくこだわりなく簡単に撤回しますので。(※己れの美学にかんすることは除きますが)

    空中をすっ飛んで遥か先にワープするのはダンザさんの魅力です。同じならむしろ先に進みにくいでしょう。
    美学に関して除くことは私も同じですし、よろしくお願いします。


    PS.誤字が多くてすんまそん♪^^


引用返信/返信 削除キー/
■533 / inTopicNo.35)  対象化してはならない〈私〉
□投稿者/ Danza Espanola -(2018/07/13(Fri) 00:24:01)
    こんばんは!

    更にこの一週間、〈私〉について自己内議論が佳境に入ってきた感ありです。

    感覚的に「〈私〉は在る」は未だにゼロです。しかし論理からすれば、デカルトの「われ思う故にわれあり」よりも「われ在るが故にわれ思う」の方が存在論として自然ですね。後者の方はわかりやすく誰もが当然に感じるのではないかと思うのです。しかしパニチェさんの言わんとしていることとはズレている、ということも理解しているつもりです。

    「比類なき先言の〈私〉」は、「比類なき〈私〉」と「先言の〈私〉」に分けることができ、永井均さんは前者を主たるテーマ「〈私〉の比類なさ」として考察しているようにうかがえ、パニチェさんは後者を主たるテーマとして考察しているように感じているのですが、間違っていますか。

    当初私はアイデンティティに関連する同一性の問題が関与しているのかなと考えていました。パニチェルームの一部にも若干同一性について触れられている部分がありましたが、これらはいずれも「比類なき〈私〉」のほうだと考えています。こちらの方は一緒くたに考えるよりも一旦横に措かせてもらえませんか。

    「先言の〈私〉」について見えてきたところがあるのです。
    こちらについては、心理学的な同一性の問題は一切なく、純粋な哲学として捉えるべきだと、そういう思いに到りました。

    但し、この文章は間違っているのではないか、もっと良い別の言い方があるのではないかと思うのです。(命名されたキダマサさんには申し訳ないのですが)、というのは、パニチェさん曰く「対象化した時点で〈私〉は変質する」ということを繰り返し強く述べています。

    この一週間十分に悩みました。「先言の〈私〉」の〈私〉はこの文章に於いては対象化されていることに間違いはなく、〈私〉を「A」や「これ」に替えたり、言葉を使わなくても自分を指さすことや頭の中で指し示すことでも、いずれも対象化されます。

    しかしパニチェさんは対象化できないと言う。
    なので私は、パニチェさんの対象化できないという感覚の方を信頼し、「先言の〈私〉」は無視することにしました。つまり対象化しない。〈私〉についても、そうして考えています。こちらは対象化してはならないというレベルです。但しこの場では〈私〉を使用します。

    先レスにあった「object」については改めまして次のレスまたは次の次のレスで明らかにします。


    ところで確認なのですが、岩波哲学思想事典の「自己」の項目に書かれている次のウィトゲンシュタインの言説にパニチェさんは同意または同感しますか?

    【ウィトゲンシュタインは、『私が見出した世界』という本が書かれていたとすれば、まさに知覚し表象している「私」はここには言及されえない、と述べている。】

    私は、おそらく二週間前ではまったく理解不能で同意できなかったのですが、ここにきて論理的に腑に落ちました。同意します。完全に。


    >質問ばかりで申し訳ないのですが「誕生日ごとに経験する、他人には理解できそうもない純粋認識の体験」はどのようなものか、よかったら教えて下さい。

    これについては固有体験的なものと認識していて、例えば「私は左脳と右脳を分断し右脳だけで世界を感じとるようなことが意図的にできる」といった、たぶんパニチェさん的には有り得ないことでしょうし、つまり私にとって〈私〉を感覚することができないことと同じなので、論理的に私自身が説明できるようになってからにしようと思いますが、どうでしょうか?


    > 議論しようとすればその部屋か出す必要があります。一人部屋にいつだけでは議論にあなりません。
    > 但し、その部屋から出れば対象は変質します。対象は誰も立ち入れないその部屋空間そのものと言ってもいいかもしれなせん。それを暗黙の了解とすれば議論は可能です。

    趣旨については了解しました。


    > いえ、同じです。で、私が一人で考える時も気付かぬうちに先にあったような変質した対象になっている場合がありませ。
    > そして原点に戻したりしています。必ず論理や言語にすれば、それは他者との会話に限らず行ったり戻ったりします。

    同意していただき、ありがとうございます。
    「〈私〉という哲学」の大きな目的の前では、あらゆる論、思想哲学は方法論(大事の前の小事)として手段化して良いというふうに捉えて良いでしょうか。



    > 後回しにすること了解しました。〈私〉が消えるということろがまだ私には理解できていません。
    > 但し、藤田一照、 永井均、山下良道の共著「〈仏教3.0〉を哲学する」はこのテーマ(無我と〈私〉)に挑んでます。
    > 永井氏が合意したのか、それとも社交辞令も兼ねてペンディングとしたのかさえも私にはよく分かりませんが、藤田氏と山下氏は得心しているようdす。

    ここについては、意識の開闢からの演繹仮説のほうは何となく出来てるんですよ。しかし掘り下げる帰納がうまくできません。〈私〉が消えて、何段階かを経て純粋意識にまで実感として到達できるとすれば、ものすごい修行だと思います。藤田さんと山下さんはそこまで見性したのかもしれないですね。


    > 全然、問題ありませんし、むしろそれらも含めて議論を深めていきたいとおもいます。
    > 実際、私の誤りにも気付けたわけですし。^^

    ありがとうございます。
    パニチェさんも率直に真摯に認めてくださって、さすがだなと思いました。

    私も空中をすっ飛んで暴走することが多々ありますので、ぜひ直截にご指摘ください。もともと持論にはまったくこだわりなく簡単に撤回しますので。(※己れの美学にかんすることは除きますが)


引用返信/返信 削除キー/
■531 / inTopicNo.36)  行きつ戻りつ
□投稿者/ パニチェ -(2018/07/08(Sun) 21:51:54)
    こんにちは!

    No530に返信(Danza Espanolaさんの記事)

    > 〈私〉についての考察動機は、自分のサイトで進めているテーマでアイデンティティを扱い〈私〉の問題に近いなと閃いたからです。「〈私〉が在るかないか」ではなく、「〈私〉がなぜ在るか」でもなく、「〈私〉は在る」と断定するところから入ってます。それは、パニチェさんが「在る」と言い切っているからで、彼がそう言い切るならば在るんだろうと。長い付き合いなので「〈私〉は在る」の断定的な完全肯定を前提として仮設しているのでギャップを感じないのかもしれません。
    > そうして「〈私〉は在る」を強行的に前提にしてみると世界の景色が変わってきた。以前には見えなかった景色が見えてきた。Panietzsche Room の「探究」の読みかたが変わってきた。すると不思議なことに、前のレスの時点では〈私〉の感覚も体験も無いと書きましたが、この一週間で、感覚の体験で思い当たる処が出てきました。もしかしたら自分の誕生日ごとに経験する、他人には理解できそうもない純粋認識の体験かなと。禅の“すがた”が独我論的で、多少その心得が身についていたことも〈私〉に接近しやすい下地になっているのかもしれません。
    > 以上ですが、問いへの答えになっていますか?

    はい、ありがとうございます。もちろん、答えになっていまあす。
    なるほど、まずは「〈私〉は在る」という思考実験がら仮に入ってみたということでしょうか。
    で、現時点での「〈私〉は在る」はダンザさんにとってやはり仮ですか、それとも確信的な存在となっていますか。
    質問ばかりで申し訳ないのですが「誕生日ごとに経験する、他人には理解できそうもない純粋認識の体験」はどのようなものか、よかったら教えて下さい。

    > 大森荘蔵が次のように述べています。
    > 【哲学の根本性は「なぜ」を連発するところにあるのではなく、人間の経験全体の根本的事実が「いかに」あるかを見定めようとするところにある。】(『物と心』)

    これはよく分かりますし、私もそのように思います。存在論や認識論そのものでしょうから。

    > これに習い、〈私〉は「いかに在るのか」についてブレイクスルーを待ちたいと思っています。その点で禅の公案はカニッツァの三角形的に〈私〉を体験できる一つの手段になるかもしれないというのが私の見立てです。

    なるほど。

    > パニチェさんは公案に取り組んだことはありますか?

    いえ、ありません。

    > ここは私の書き方が悪かったので齟齬をきたしています。私は自分自身が俯瞰できるとは書いていないつもりだったのですが。(俯瞰できないということでもありませんけれども)

    了解しました。

    > >今回のダンのレスで思い付いたんだけど、〈私〉のいる位置ってのは円錐の先端のような尖ったイメージではなく球面(底)のようなものではないかと閃いた。
    > 「(世界が)円錐で〈私〉が先端」「(球が世界で)球面(底)が〈私〉」という記述を読んで、世界と〈私〉を同じ絵へと対象化(客体化)していることをもって、私は(自我からの)俯瞰と解釈したのですが違っていたようですね?

    ほんとですね。相手が書くことは「言葉による変質」とか「俯瞰できない対象であること」が気になるくせに、自分で書いて気付いていませんでした。確かに私が俯瞰的に捉えていました。

    > ところで、「比類なき先言の〈私〉」についてですが、これを書いた人(パニチェ氏)にとってですが、(読んだ人にとってもそうだと思いますが)、〈私〉を対象化している、〈私〉を客体化している、〈私〉はobjectになっている、と解釈するのが自然だと思いますし、私はそれで全く問題ないとも思っています。「比類なき先言の〈私〉」というテーマ自体もobjectとして提起されている、で良いのではないでしょうか。

    objectとはどういう意味でしょうか。

    > 確かに〈私〉は独我論によって成立している個人固有の問題であるに違いありません。でも独我論によって成立している〈私〉を独我論で考察しなければならないということではないと思うのです。むしろ独我論であれば、一人部屋に鍵をかけてその中で自己満足のために考える。一切外部へ向かって主張しない。他人との対話は成立しない。拒否する。ということになるのではないでしょうか。

    議論しようとすればその部屋か出す必要があります。一人部屋にいつだけでは議論にあなりません。
    但し、その部屋から出れば対象は変質します。対象は誰も立ち入れないその部屋空間そのものと言ってもいいかもしれなせん。それを暗黙の了解とすれば議論は可能です。

    > なので、いろいろな思想を(独我論とは正反対の思想も)手段として自由に活用したり、脳科学や生物学、物理的なこととして捉えてみたり、他我や禅の手法を用いたりしてどこかでマッチングするのを待ってみたりと、そういうふうに私は考えているのですが、パニチェさんとは違っていますか?

    いえ、同じです。で、私が一人で考える時も気付かぬうちに先にあったような変質した対象になっている場合がありませ。
    そして原点に戻したりしています。必ず論理や言語にすれば、それは他者との会話に限らず行ったり戻ったりします。

    >>すみません、ここは私が理解できていません。
    >>次の段階で消えるところが分からないのと、「「先言の〈私〉」が確信的に存在している」というのが「はじめに“我”ありき」という意味なら分かります。
    > 以前の私からのレスは下記でした。

    > >> すべてが自己意識の中に内在しているとすれば、「世界」という枠の概念も無くなる。
    > >> 世界という概念は「一部と全体」の枠組みの全体であったので、一部も無くなる。
    > >> <私>という「一部の点」 もなく、開闢も何もなく、初めから表象のみがある。
    > >> そうすると初めも無い。終わりも無い。「死」という観念も消失することになる。
    > >> 「生」もない。
    > >> 「<私>とは何者か」と質問する存在は消滅する。

    > 私は帰納的にロジックを掘り下げていて、「はじめに“我”ありき」の演繹には触れていません。別の角度から演繹として考察することも可能だと思います。たぶん私は無意識のうちに禅的に帰納ロジックの全体を一気に直観してしまっているので、理屈が追いついていません。
    > 少し時間をください。
    > 今考えているのは、純粋認識の段階で先言の〈私〉が在ることを確信しているのと、更に深層へ降りると純粋意識の段階で世界=〈私〉として同化してしまうことによって、〈私〉が消える。こんな感じのイメージなのですが。

    後回しにすること了解しました。〈私〉が消えるということろがまだ私には理解できていません。
    但し、藤田一照、 永井均、山下良道の共著「〈仏教3.0〉を哲学する」はこのテーマ(無我と〈私〉)に挑んでます。
    永井氏が合意したのか、それとも社交辞令も兼ねてペンディングとしたのかさえも私にはよく分かりませんが、藤田氏と山下氏は得心しているようdす。

    > その他に頂いたレスですが、まずは、考えてくださり本当にありがとうございました。一つ一つについては理解し了解するところであります。

    こちらこそ、ありがとうございます。

    > しかしどうも私の質問の仕方に問題があったり文章に言葉が足りなかったり飛躍があったりで、対話に齟齬をきたしているようなので、せっかく時間と労力を使って考察していただいたところ申し訳ないのですが、機会と質問を改めさせてください。

    全然、問題ありませんし、むしろそれらも含めて議論を深めていきたいとおもいます。
    実際、私の誤りにも気付けたわけですし。^^

    > 特に「主体としての〈私〉からの景色」は今の段階では不適切でした。

    不適切かどうかなど問題にせず、どんどんカキコしてみて下さい。
    大いに行ったり戻ったりしましょう。

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