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■530 / inTopicNo.37)  Re[9]: 主体としての〈私〉からの景色
  
□投稿者/ Danza Espanola -(2018/07/07(Sat) 11:54:16)
    こんにちは!

    返信は順不同になります。


    > ここ是非聞きたいのですが、以前にダンザさんと会話した時にはギャップを感じたんですが、今回は(今ところ)さほどギャップを感じません。

    〈私〉についての考察動機は、自分のサイトで進めているテーマでアイデンティティを扱い〈私〉の問題に近いなと閃いたからです。「〈私〉が在るかないか」ではなく、「〈私〉がなぜ在るか」でもなく、「〈私〉は在る」と断定するところから入ってます。それは、パニチェさんが「在る」と言い切っているからで、彼がそう言い切るならば在るんだろうと。長い付き合いなので「〈私〉は在る」の断定的な完全肯定を前提として仮設しているのでギャップを感じないのかもしれません。


    > で、〈私〉は他者に伝えようがないし、教えたくても教える術がない。ダンザさんは、どういう手法あるいはアプローチ、または何をもって〈私〉に接近したのでしょうか?

    そうして「〈私〉は在る」を強行的に前提にしてみると世界の景色が変わってきた。以前には見えなかった景色が見えてきた。Panietzsche Room の「探究」の読みかたが変わってきた。すると不思議なことに、前のレスの時点では〈私〉の感覚も体験も無いと書きましたが、この一週間で、感覚の体験で思い当たる処が出てきました。もしかしたら自分の誕生日ごとに経験する、他人には理解できそうもない純粋認識の体験かなと。禅の“すがた”が独我論的で、多少その心得が身についていたことも〈私〉に接近しやすい下地になっているのかもしれません。

    以上ですが、問いへの答えになっていますか?


    大森荘蔵が次のように述べています。

    【哲学の根本性は「なぜ」を連発するところにあるのではなく、人間の経験全体の根本的事実が「いかに」あるかを見定めようとするところにある。】(『物と心』)

    これに習い、〈私〉は「いかに在るのか」についてブレイクスルーを待ちたいと思っています。その点で禅の公案はカニッツァの三角形的に〈私〉を体験できる一つの手段になるかもしれないというのが私の見立てです。

    パニチェさんは公案に取り組んだことはありますか?


    > 世界と同じように〈私〉を客体として俯瞰できるとは思えないのですが、逆にダンザさんが俯瞰できると考えてるところをもう少し詳しく教えてもらいたいです。

    ここは私の書き方が悪かったので齟齬をきたしています。私は自分自身が俯瞰できるとは書いていないつもりだったのですが。(俯瞰できないということでもありませんけれども)

    >今回のダンのレスで思い付いたんだけど、〈私〉のいる位置ってのは円錐の先端のような尖ったイメージではなく球面(底)のようなものではないかと閃いた。

    「(世界が)円錐で〈私〉が先端」「(球が世界で)球面(底)が〈私〉」という記述を読んで、世界と〈私〉を同じ絵へと対象化(客体化)していることをもって、私は(自我からの)俯瞰と解釈したのですが違っていたようですね?


    ところで、「比類なき先言の〈私〉」についてですが、これを書いた人(パニチェ氏)にとってですが、(読んだ人にとってもそうだと思いますが)、〈私〉を対象化している、〈私〉を客体化している、〈私〉はobjectになっている、と解釈するのが自然だと思いますし、私はそれで全く問題ないとも思っています。「比類なき先言の〈私〉」というテーマ自体もobjectとして提起されている、で良いのではないでしょうか。

    確かに〈私〉は独我論によって成立している個人固有の問題であるに違いありません。でも独我論によって成立している〈私〉を独我論で考察しなければならないということではないと思うのです。むしろ独我論であれば、一人部屋に鍵をかけてその中で自己満足のために考える。一切外部へ向かって主張しない。他人との対話は成立しない。拒否する。ということになるのではないでしょうか。

    なので、いろいろな思想を(独我論とは正反対の思想も)手段として自由に活用したり、脳科学や生物学、物理的なこととして捉えてみたり、他我や禅の手法を用いたりしてどこかでマッチングするのを待ってみたりと、そういうふうに私は考えているのですが、パニチェさんとは違っていますか?


    > すみません、ここは私が理解できていません。
    > 次の段階で消えるところが分からないのと、「「先言の〈私〉」が確信的に存在している」というのが「はじめに“我”ありき」という意味なら分かります。

    以前の私からのレスは下記でした。

    >> すべてが自己意識の中に内在しているとすれば、「世界」という枠の概念も無くなる。
    >> 世界という概念は「一部と全体」の枠組みの全体であったので、一部も無くなる。
    >> <私>という「一部の点」 もなく、開闢も何もなく、初めから表象のみがある。
    >> そうすると初めも無い。終わりも無い。「死」という観念も消失することになる。
    >> 「生」もない。
    >> 「<私>とは何者か」と質問する存在は消滅する。

    私は帰納的にロジックを掘り下げていて、「はじめに“我”ありき」の演繹には触れていません。別の角度から演繹として考察することも可能だと思います。たぶん私は無意識のうちに禅的に帰納ロジックの全体を一気に直観してしまっているので、理屈が追いついていません。

    少し時間をください。
    今考えているのは、純粋認識の段階で先言の〈私〉が在ることを確信しているのと、更に深層へ降りると純粋意識の段階で世界=〈私〉として同化してしまうことによって、〈私〉が消える。こんな感じのイメージなのですが。



    その他に頂いたレスですが、まずは、考えてくださり本当にありがとうございました。一つ一つについては理解し了解するところであります。

    しかしどうも私の質問の仕方に問題があったり文章に言葉が足りなかったり飛躍があったりで、対話に齟齬をきたしているようなので、せっかく時間と労力を使って考察していただいたところ申し訳ないのですが、機会と質問を改めさせてください。

    特に「主体としての〈私〉からの景色」は今の段階では不適切でした。



引用返信/返信 削除キー/
■528 / inTopicNo.38)  Re[8]: 主体としての〈私〉からの景色
□投稿者/ パニチェ -(2018/07/06(Fri) 13:46:03)
    No524に返信(Danza Espanolaさんの記事)
    > 1.物理的な他人は物と一緒。
    > 2.“我をもった他者”は人間としての存在。
    > 3.他者の“我”自体は地平の彼方、存在も存在様相も厳密な意味では不可知だが自分の“自我”と同様に他者の“自我”(他我)は、(独我論的には)想像表象によって存在している。

    > という感じでしょうか。初期段階として。
    > 認識の変更や撤回はどんどんやっていきましょう。

    了解。

    > 私的には宙ぶらりんの留保状態ですが、2または3を主体とし、別の2または3を客体としたときに何が言えるのか、1.2.3.ともに「個」と「集合体(ある集団)」とでは何が変わるのかに関心があります。何か気づいたことがあれば教えてください。

    万人に当てはまる2と3は〈私〉ではないでしょうね。そういう意味で〈私〉は対称性を持たないし、逆の言い方をすると非対称的なことが〈私〉の本質だと思います。
    あと個の1、2、3は分かりますが、集団の1、2、3ってのはイメージできません。

    > 「他者」を西洋哲学の根本問題として初めて取り上げたのがフッサールで、以降、レヴィナスやメルロ・ポンティらによって現代哲学のテーマにもなっているらしい。私はフッサールしか読み始めていませんが。根っこにあるのは「われ思う故にわれあり」のデカルトの独我論です。
    > <私>というテーマはフッサール現象学と相性がよいと感じています。
    > 少しずつやっていきたいと思います。

    フサール現象学の直接経験=志向体験の主体はマッハ的光景で描かれていないことで示されています。
    この構図はウィトゲンシュタインが語りうる範囲を示すことで語り得ないものを指示した構図に似ています。
    カニッツァの三角形がこの構図に類似しています。

    > ところで、まず先にパニチェルームの「探究」>「<私>の哲学」から引用させてもらいますね。
    > >正直なところ「比類なき先言の〈私〉」は上記を間接的に示していると直観的に感じるのである。但し、これは思惟によるものでもなく論理的な思考の結果ではない。

    ここで述べている(パニチェルーム > 〈私〉の哲学 > 3.拮抗運動)上記というのは「魂の存在と電脳の不可能性」です。

    > まず一点目として、<私>は感覚的体験的に直感(ここでは直観でなく)として「確信的に在ると感じている」ということだと思います。間違っていますか?

    「確信的に在ると感じている」のは、これに先んじて〈私〉が在るからです。
    デカルトの「我思う故に我あり」の“我”を対称性のある“我”とした場合は「確信的に在ると感じている“我”」かもしれませんが、非対称的な“我”と解釈するなら「我在り故に我思う」になります。
    思うに先んじて存在するのが〈私〉であり、〈私〉が先んじて在るから我を思うことが可能となるということでしょうね。

    私には<私>への感覚も体験もないのですが、逆に、ようやく関心をもつことができ、論理的に理解が進んでいます(進んでいると思い込んでいるだけかもしれませんが)。

    ここ是非聞きたいのですが、以前にダンザさんと会話した時にはギャップを感じたんですが、今回は(今ところ)さほどギャップを感じません。
    で、〈私〉は他者に伝えようがないし、教えたくても教える術がない。ダンザさんは、どういう手法あるいはアプローチ、または何をもって〈私〉に接近したのでしょうか?

    > 二点目です。(三点目もあると思いますが今回は触れません)
    > >純粋経験の主体者を想定するかどうか?
    > >また想定するとすれば、その主体者とは、誰にでもあてはまるような「私」ではなく、特化された世界を観察する特異点としての〈私〉とするか?
    > ウィトゲンシュタインの引用も読んでいます。共通して言えるのは、世界(実在現象的表象全部)と<私>(特異点や限界点)を《自我「私」》が対置させているところで、その表象全部の中に<私>を含めないが、《自我》を主体とする視座は「世界」と〈私〉を客体として俯瞰している、ということになると思いますが間違っていますか。(俯瞰という言語に抵抗があれば別の言葉でもかまいません。意味は解ってもらえると思います)

    世界と同じように〈私〉を客体として俯瞰できるとは思えないのですが、逆にダンザさんが俯瞰できると考えてるところをもう少し詳しく教えてもらいたいです。

    > 本論のほうの引用についてですが、私の独我論についての議論において、どこまでも透徹した独我論であれば、その中間課程では、言語は消えることになります。クオリアだけと言いますか、イメージだけと言いますか、自然をそのまま、意味も価値も付与せずにありのままに受容する「主体」だけがいるのです(次の段階では「主体」も消えますが)。
    > つまり、その時点では、言語化される前の「先言の〈私〉」が確信的に存在していると考えています。

    すみません、ここは私が理解できていません。
    次の段階で消えるところが分からないのと、「「先言の〈私〉」が確信的に存在している」というのが「はじめに“我”ありき」という意味なら分かります。

    > そこで質問なのですが(私も考えるのですが)、《自我「私」》を主体とし、〈私〉を客体として考える、その思考パラダイムを転倒させて、〈私〉を主体とし《自我》を客体とした場合に、《自我》は〈私〉からどう観られていると思いますか?
     
    〈私〉は客体として考えようがありません。客体とした瞬間に〈私〉は変質しますし、非対称なものが対称性を持つようになります。
    客体とは対称性のあるものとも言えるかもしれません。

    > 次は直観知性的想像力を爆発させなくてはなりませんが、主体とした〈私〉からは、《自我》や「実在表象の景色」はどう観えていますか?

    観えるというのは目で見るという意味ではないんですよね?自我は見ることはできませんが〈私〉から観ずる自我は所謂性格や喜怒哀楽などの感情や暑い寒い等々感覚的なものだと思います。

    > ここでは、〈私〉が主体となっているため、客体としての私の自我は、冒頭の3での他我自体へ変容するのではないかと考えています。(この景色のために冒頭の質問をさせていただいた面もあります)

    変容するうでしょうか?
    客体として観ずる自我は地平の内ですが、他我は地平の彼方です。
    お腹が痛いフリを私が私にはできませんが、他我は私にそのフリをすることができます。
    そう考えると自我も非対称ってことになるのかなぁ〜。ここは考えどころですね。

    > 見証というのは道元の言葉なのですね。goo国語辞典では見証(けんぞ)となっていて全然別の意味が書かれています。見性とは違うのでしょうね。

    道元禅師の見証という言葉を使っている理由は言葉と論理で悟りに至れれば言語的に証明できるかもしれないと思い「見証」と表記しているだけで、意味は見性も見証も同じです。

    > 禅の思想はインドの「座禅」を抜きにすれば、つまり中国禅的に禅を言えば、独我論に限りなく近いと思います。公案も独我論的公案が多いですよね。ご存知かもしれませんが禅の基本的な取り組みかたとして「直指人心見性成仏」という禅語があって、この「直指人心(じきしにんしん)」とはまさしく、直観によってストレートに〈私〉を見つめることと同じことではないかと考えています。
    > ただ、私としましては直指人心は不得意なので、間接的に論理とイメージによっての手法をとります。
    > 禅思想からの〈私〉へのアプローチも並行して考えてみたいと思います。

    それは興味深い。是非お願いします。

引用返信/返信 削除キー/
■524 / inTopicNo.39)  主体としての〈私〉からの景色
□投稿者/ Danza Espanola -(2018/07/01(Sun) 22:14:27)
    約2年ぶりのニーチェクラブへの投稿記事になります。
    ご参加の方々にはご無沙汰してしまっています。

    パニチェ氏との建設的議論の場としてでこちらのトピックを使わせていただきますが、本論にかんしましては、個人的には、新規の方でもどちらさまでも異論反論同論の横やりは歓迎しますのでよろしくお願いします。


    No523に返信(パニチェさんの記事)
    > のっけからハードプロブレムやね。一緒に考えるためのテーマやと思うけど。まずは訂正や撤回ありきで答えてみます。
    > 物理的な他人は物と一緒、“我をもった他者”は人間としての存在、他者の“我”自体は地平の彼方、その存在も存在様相も厳密な意味では不可知だけど、自分の“我”自体の存在様相と同じようなものとしての想像は容易やし、日常生活はその存在様相を前提としてコミュニケーションをはかっている。

    1.物理的な他人は物と一緒。
    2.“我をもった他者”は人間としての存在。
    3.他者の“我”自体は地平の彼方、存在も存在様相も厳密な意味では不可知だが自分の“自我”と同様に他者の“自我”(他我)は、(独我論的には)想像表象によって存在している。

    という感じでしょうか。初期段階として。
    認識の変更や撤回はどんどんやっていきましょう。

    私的には宙ぶらりんの留保状態ですが、2または3を主体とし、別の2または3を客体としたときに何が言えるのか、1.2.3.ともに「個」と「集合体(ある集団)」とでは何が変わるのかに関心があります。何か気づいたことがあれば教えてください。

    「他者」を西洋哲学の根本問題として初めて取り上げたのがフッサールで、以降、レヴィナスやメルロ・ポンティらによって現代哲学のテーマにもなっているらしい。私はフッサールしか読み始めていませんが。根っこにあるのは「われ思う故にわれあり」のデカルトの独我論です。

    <私>というテーマはフッサール現象学と相性がよいと感じています。
    少しずつやっていきたいと思います。


    > それはそうでしょうね。自我の形成には他我は必要ですが、それは万人に共通する自我であって〈私〉ではない。
    > 多分、独房に一人閉じ込め飯だけを与えられていた少女や少年にも〈私〉は成立している。
    > この違いは前者は言葉の後に成立する自我であり、後者は言葉に先立って(先言)成立している〈私〉


    ところで、まず先にパニチェルームの「探究」>「<私>の哲学」から引用させてもらいますね。

    >正直なところ「比類なき先言の〈私〉」は上記を間接的に示していると直観的に感じるのである。但し、これは思惟によるものでもなく論理的な思考の結果ではない。

    まず一点目として、<私>は感覚的体験的に直感(ここでは直観でなく)として「確信的に」在ると感じているということだと思います。間違っていますか?私には<私>への感覚も体験もないのですが、逆に、ようやく関心をもつことができ、論理的に理解が進んでいます(進んでいると思い込んでいるだけかもしれませんが)。


    二点目です。(三点目もあると思いますが今回は触れません)

    >純粋経験の主体者を想定するかどうか?
    >また想定するとすれば、その主体者とは、誰にでもあてはまるような「私」ではなく、特化された世界を観察する特異点としての〈私〉とするか?

    ウィトゲンシュタインの引用も読んでいます。共通して言えるのは、世界(実在現象的表象全部)と<私>(特異点や限界点)を《自我「私」》が対置させているところで、その表象全部の中に<私>を含めないが、《自我》を主体とする視座は「世界」と〈私〉を客体として俯瞰している、ということになると思いますが間違っていますか。(俯瞰という言語に抵抗があれば別の言葉でもかまいません。意味は解ってもらえると思います)


    本論のほうの引用についてですが、私の独我論についての議論において、どこまでも透徹した独我論であれば、その中間課程では、言語は消えることになります。クオリアだけと言いますか、イメージだけと言いますか、自然をそのまま、意味も価値も付与せずにありのままに受容する「主体」だけがいるのです(次の段階では「主体」も消えますが)。

    つまり、その時点では、言語化される前の「先言の〈私〉」が確信的に存在していると考えています。


    そこで質問なのですが(私も考えるのですが)、《自我「私」》を主体とし、〈私〉を客体として考える、その思考パラダイムを転倒させて、〈私〉を主体とし《自我》を客体とした場合に、《自我》は〈私〉からどう観られていると思いますか?

    次は直観知性的想像力を爆発させなくてはなりませんが、主体とした〈私〉からは、《自我》や「実在表象の景色」はどう観えていますか?

    ここでは、〈私〉が主体となっているため、客体としての私の自我は、冒頭の3での他我自体へ変容するのではないかと考えています。(この景色のために冒頭の質問をさせていただいた面もあります)



    > 確かに。でも風車に挑むドンキホーテになっても結果的には構わないとも思っています。
    > 言語と論理による見証悟道ってのは、虫取り網で空気を捕まえようとする試みかも(笑)

    見証というのは道元の言葉なのですね。goo国語辞典では見証(けんぞ)となっていて全然別の意味が書かれています。見性とは違うのでしょうね。

    禅の思想はインドの「座禅」を抜きにすれば、つまり中国禅的に禅を言えば、独我論に限りなく近いと思います。公案も独我論的公案が多いですよね。ご存知かもしれませんが禅の基本的な取り組みかたとして「直指人心見性成仏」という禅語があって、この「直指人心(じきしにんしん)」とはまさしく、直観によってストレートに〈私〉を見つめることと同じことではないかと考えています。
    ただ、私としましては直指人心は不得意なので、間接的に論理とイメージによっての手法をとります。

    禅思想からの〈私〉へのアプローチも並行して考えてみたいと思います。



引用返信/返信 削除キー/
■523 / inTopicNo.40)  風車に挑むドンキホーテ
□投稿者/ パニチェ -(2018/06/30(Sat) 09:32:29)
    No512に返信(パニチェさんの記事)
    > 以下はdanza_espanolaさんからの返信(2018/6/24, Sun 06:24)

    > 言いたいことは分かっているつもり。
    > そのうえで質問します。(私も一緒に考えたい)
    > 「物理的な他人」と「”我”をもった他者」と「他者の”我”自体」、それぞれを相対比較した、パニのいう存在様相的な相違性についての見解を聞きたい。

    のっけからハードプロブレムやね。一緒に考えるためのテーマやと思うけど。まずは訂正や撤回ありきで答えてみます。
    物理的な他人は物と一緒、“我をもった他者”は人間としての存在、他者の“我”自体は地平の彼方、その存在も存在様相も厳密な意味では不可知だけど、自分の“我”自体の存在様相と同じようなものとしての想像は容易やし、日常生活はその存在様相を前提としてコミュニケーションをはかっている。

    > 私の拙いロジックがヒントになったのなら嬉しい。
    > ここは、「表象」の立体構造を可能とするところだと思う。

    同意。

    > >> ただ、独我論の他我を認めないということについて言えば、意味や価値のすべてを自分自身で創造したという点で無理があると思うんだけどど うだろう。
    >>ごめん、ここもうちょっと詳しくお願いします。多分、読み取れてないわ。
    > 独我論モードにおける表象について、現在にかんする感覚的な実在表象ではなく、
    > ここでは、記憶を基にする内側から湧き上がってくる表象のほうを対象にします。
    > 独我論においても、「自我の成り立ち」「過去の自己と現在の自己との同一性」といった過去との関係は「無かった」とは言えないし。
    > 「自分のルーツや自分が自分であるというアイデンティティ」、「社会が”我”に与えた様々な意味」、「価値への欲求」「他者への感情」など、
    > 避 けては通れない哲学的な問題の数々が横たわっていると思うわけです。

    同意。

    > そのひとつひとつにたいして、他者の「自我」のかかわりなしに、自身の自我の形成が為された、自我が他者に反応する、とは言えないのではないか。
    > 独我論を強引に、今だけである、表面上の現象だけである、とするのならば、あまりに浅く軽くなってしまうしそうではないのではないか。
    > ということで、他我を認めない独我論は無理があるんじゃないかと考えているということです。

    それはそうでしょうね。自我の形成には他我は必要ですが、それは万人に共通する自我であって〈私〉ではない。
    多分、独房に一人閉じ込め飯だけを与えられていた少女や少年にも〈私〉は成立している。
    この違いは前者は言葉の後に成立する自我であり、後者は言葉に先立って(先言)成立している〈私〉

    > 日常的なテーマとはフィールドが違う、という感覚はわかるし同意できる。
    > ただそのなかで、日常リアルを連想しつつ考察しているという事実もあるのではないだろうか。

    同意。

    > 確かに言語的には限界があるのは同感だけれども、それでも、その限界まで本当にやり切っているかと言えばそうではないと私は考えています。
    > 徹底的に、ここが限界だと一時的にはそう思っても、なんとかして突破口を開いてやろうと。
    > 自己探求の道というベクトルはわかるけれども、私のベクトルはどうしても抽象論化へ向かい、内省的には厳しいところが正直あります。
    > でもそれ は、同床異夢ではなく、異床同夢のようなものかと思っていて、だからパニとのレス交換が有意義なのだとも思う。

    ありがとう!同意です。私にとってもめっちゃ有意義です。

    > 岩波哲学思想事典の「自我」の項目によれば(長文で2000文字以上あるので引用はできないけれど)、西洋哲学の「自我」とインド哲学の「自我」には乖離があって、そのことを今、簡単に知ることが出来る我々は、先学の恩に報いるためにもステップアップした論理を建設していかねばならないのではないだろうか。少なくともその気概だけは持たないと先学に対して礼を失するように思っています。

    確かに。でも風車に挑むドンキホーテになっても結果的には構わないとも思っています。
    言語と論理による見証悟道ってのは、虫取り網で空気を捕まえようとする試みかも(笑)

引用返信/返信 削除キー/
■512 / inTopicNo.41)  Re[5]: 〈私〉について
□投稿者/ パニチェ -(2018/06/24(Sun) 20:38:32)
    2018/06/25(Mon) 21:13:40 編集(管理者)

    以下はdanza_espanolaさんからの返信(2018/6/24, Sun 06:24)

    > 私が考えているのは存在において自他、この場合は〈私〉と他ってことね、存在自体や存在様相が根本的に異なることからして、日常的に認めている他我とは存在様相的には物と同じになる。真の存在と呼べるものは〈私〉しかないから、仮象として認めるみたいなことになるかな。

    言いたいことは分かっているつもり。
    そのうえで質問します。(私も一緒に考えたい)
    「物理的な他人」と「”我”をもった他者」と「他者の”我”自体」、それぞれを相対比較した、パニのいう存在様相的な相違性についての見解を聞きたい。

    >> 他我問題はおくとして、独我論的モードで言えば、すべては表象(カント的表象)になる。
    > 全てというのは〈私〉以外ってことかな?

    ここは深めたい部分でもあるので(深めたい理由もあるので)、メール交換でなく他でやるということであればそちらで応えたい。
    もちろん、メール交換でも全然OKです。

    > これね、ゴウさんのロジックもそうやった。
    > あの人は底が抜けてる(見証)。で、〈私〉は真我であり、真我は上記のようなものらしい。
    > 今回のダンのレスで思い付いたんだけど、〈私〉のいる位置ってのは円錐の先端のような尖ったイメージではなく球面(底)のようなものではないかと閃いた。
    > これってビッグバン宇宙論の特異点を避けるためのモデルと同じになる。球の底ならダンが言うように最終的には球体そのものとなるかもしれん。

    私の拙いロジックがヒントになったのなら嬉しい。
    ここは、「表象」の立体構造を可能とするところだと思う。

    >> ただ、独我論の他我を認めないということについて言えば、意味や価値のすべてを自分自身で創造したという点で無理があると思うんだけどど うだろう。
    > ごめん、ここもうちょっと詳しくお願いします。多分、読み取れてないわ。

    独我論モードにおける表象について、現在にかんする感覚的な実在表象ではなく、
    ここでは、記憶を基にする内側から湧き上がってくる表象のほうを対象にします。
    独我論においても、「自我の成り立ち」「過去の自己と現在の自己との同一性」といった過去との関係は「無かった」とは言えないし。
    「自分のルーツや自分が自分であるというアイデンティティ」、「社会が”我”に与えた様々な意味」、「価値への欲求」「他者への感情」など、
    避 けては通れない哲学的な問題の数々が横たわっていると思うわけです。
    そのひとつひとつにたいして、他者の「自我」のかかわりなしに、自身の自我の形成が為された、自我が他者に反応する、とは言えないのではないか。
    独我論を強引に、今だけである、表面上の現象だけである、とするのならば、あまりに浅く軽くなってしまうしそうではないのではないか。
    ということで、他我を認めない独我論は無理があるんじゃないかと考えているということです。

    > これも同意。独我論は哲学的テーマであって、日常的なテーマとはフィールドが違うんやろね。
    > で、もってさらに純粋な独我論(永井的には“独在論”と呼んでる)は哲学ではなく見証悟道やと思ってるねん。
    > 言語的な追究には限界があり、直観と自己探究の道。

    日常的なテーマとはフィールドが違う、という感覚はわかるし同意できる。
    ただそのなかで、日常リアルを連想しつつ考察しているという事実もあるのではないだろうか。
    確かに言語的には限界があるのは同感だけれども、それでも、その限界まで本当にやり切っているかと言えばそうではないと私は考えています。
    徹底的に、ここが限界だと一時的にはそう思っても、なんとかして突破口を開いてやろうと。
    自己探求の道というベクトルはわかるけれども、私のベクトルはどうしても抽象論化へ向かい、内省的には厳しいところが正直あります。
    でもそれ は、同床異夢ではなく、異床同夢のようなものかと思っていて、だからパニとのレス交換が有意義なのだとも思う。

    >> 他我問題を熟考するためには自我についてもっと深く探究しなくてはならないなと思って、「自我とは何か」を新たに考え始めています。
    > 哲学と仏教と脳科学が合体するテーマやろね、面白いよ、最も身近で、かつ最も不思議なもの。

    岩波哲学思想事典の「自我」の項目によれば(長文で2000文字以上あるので引用はできないけれど)、西洋哲学の「自我」とインド哲学の「自我」には乖離があって、そのことを今、簡単に知ることが出来る我々は、先学の恩に報いるためにもステップアップした論理を建設していかねばならないのではないだろうか。少なくともその気概だけは持たないと先学に対して礼を失するように思っています。

引用返信/返信 削除キー/
■511 / inTopicNo.42)  Re[4]: 〈私〉について
□投稿者/ パニチェ -(2018/06/24(Sun) 20:09:46)
    2018/06/25(Mon) 21:10:58 編集(管理者)

    以下はパニチェの返信(2018/6/23, Sat 08:03)

    > そうやったね。
    > パニの考えるところによれば質問者は<私>と同じで「世界の特異点」ということで変わってないね。
    > 独我論は、岩波哲学思想事典によれば、「実在するのは自己とその意識内容だけで、他我や事物は自己の意識内容に過ぎない」となっていて、弱い意味の独我論では外界の事物の存在は認めるということらしいけど、 パニの認識と合っているかな。

    純粋な独我論というのは万人に当てはまること自体が矛盾になる。言葉の特性からして、そこは万人に当てはまる独我論になってしまうので仕方ないところは横に置くとして、私が考えているのは存在において自他、この場合は〈私〉と他ってことね、存在自体や存在様相が根本的に異なることからして、日常的に認めている他我とは存在様相的には物と同じになる。真の存在と呼べるものは〈私〉しかないから、仮象として認めるみたいなことになるかな。

    > いずれにせよ他我の存在を認めないのが独我論の王道なのだけれど、フッサール現象学では(彼は独我論者なのだけれど)、他我について扱っているんだよね。パニはフッサールの『デカルト的省察』の第五省察は読んだかな?

    読んでないわ。^^

    > 他我問題はおくとして、独我論的モードで言えば、すべては表象(カント的表象)になる。

    全てというのは〈私〉以外ってことかな?

    > すべてが自己意識の中に内在しているとすれば、「世界」という枠の概念も無くなる。
    > 世界という概念は「一部と全体」の枠組みの全体であったので、一部も無くなる。
    > <私>という「一部の点」 もなく、開闢も何もなく、初めから表象のみがある。
    > そうすると初めも無い。終わりも無い。「死」という観念も消失することになる。
    > 「生」もない。
    > 「<私>とは何者か」と質問する存在は消滅する。
    > 私のロジックでゆくと、独我論モードでは上記のようになるんだよね。
    > どこかに論理破綻があれば指摘してほしい。
    > なにやら十牛図のようになってしまったけれど。

    これね、ゴウさんのロジックもそうやった。
    あの人は底が抜けてる(見証)。で、〈私〉は真我であり、真我は上記のようなものらしい。
    今回のダンのレスで思い付いたんだけど、〈私〉のいる位置ってのは円錐の先端のような尖ったイメージではなく球面(底)のようなものではないかと閃いた。
    これってビッグバン宇宙論の特異点を避けるためのモデルと同じになる。球の底ならダンが言うように最終的には球体そのものとなるかもしれん。

    > ただ、独我論の他我を認めないということについて言えば、意味や価値のすべてを自分自身で創造したという点で無理があると思うんだけどど うだろう。

    ごめん、ここもうちょっと詳しくお願いします。多分、読み取れてないわ。

    > 自分にとってのみの自分の<私>と、自分だけではなく誰にとってもあるはずという推論を基にした普遍的な自分の<私>では違うよね。

    その通り。

    > 独我論は前者にしかなれないのかなあと。後者が「哲学」なわけだけど、「哲学」の定義を変えなければ純粋な独我論は哲学とは言えないのかも。
    > なんてことを考えてます。この際、「哲学」と呼ぶかどうかはどうでもいいとは思うけど。

    これも同意。独我論は哲学的テーマであって、日常的なテーマとはフィールドが違うんやろね。

    で、もってさらに純粋な独我論(永井的には“独在論”と呼んでる)は哲学ではなく見証悟道やと思ってるねん。
    言語的な追究には限界があり、直観と自己探究の道。

    > フッサール自身は自分を「独我論者」だと言われることを嫌ってい たんだね。『間主観性の現象学 その方法』
    > 他我問題を熟考するためには自我についてもっと深く探究しなくてはならないなと思って、「自我とは何か」を新たに考え始めています。

    哲学と仏教と脳科学が合体するテーマやろね、面白いよ、最も身近で、かつ最も不思議なもの。

    > まあこういうのは結論にならず常に過程上の問題だからディベートには相応しくなく「議論」の方が向いているテーマだよね。
    > 自己内議論が主戦だけれど、こうしたテーマでの見解を「生」で聞けて話せるのでパニの存在はとてもありがたいです。

    このテーマも一人で考えているより、レス交換をすることっで気付きや閃きがある。こちらこそ、ありがとう!
引用返信/返信 削除キー/
■510 / inTopicNo.43)  Re[3]: 〈私〉について
□投稿者/ パニチェ -(2018/06/24(Sun) 19:57:41)
    No509に返信(パニチェさんの記事)

    以下は、danza_espanolaさんからの返信(2018/6/18, Mon 07:17)

    > 世界の特異点やと思う。もともとビッグバン宇宙論の用語やけど、そこから世界が開闢している何者も並び立つことのない自分だけの世界にどこにもないような地点かな。(2018/6/14, Thu 07:02)

    そうやったね。

    パニの考えるところによれば質問者は<私>と同じで「世界の特異点」ということで変わってないね。

    独我論は、岩波哲学思想事典によれば、「実在するのは自己とその意識内容だけで、他我や事物は自己の意識内容に過ぎない」となっていて、弱い意味の独我論では外界の事物の存在は認めるということらしいけど、 パニの認識と合っているかな。

    いずれにせよ他我の存在を認めないのが独我論の王道なのだけれど、フッサール現象学では(彼は独我論者なのだけれど)、他我について扱っているんだよね。パニはフッサールの『デカルト的省察』の第五省察は読んだかな?

    他我問題はおくとして、独我論的モードで言えば、すべては表象(カント的表象)になる。
    すべてが自己意識の中に内在しているとすれば、「世界」という枠の概念も無くなる。
    世界という概念は「一部と全体」の枠組みの全体であったので、一部も無くなる。
    <私>という「一部の点」 もなく、開闢も何もなく、初めから表象のみがある。

    そうすると初めも無い。終わりも無い。「死」という観念も消失することになる。
    「生」もない。
    「<私>とは何者か」と質問する存在は消滅する。
    私のロジックでゆくと、独我論モードでは上記のようになるんだよね。
    どこかに論理破綻があれば指摘してほしい。

    なにやら十牛図のようになってしまったけれど。

    ただ、独我論の他我を認めないということについて言えば、意味や価値のすべてを自分自身で創造したという点で無理があると思うんだけどど うだろう。







引用返信/返信 削除キー/
■509 / inTopicNo.44)  Re[2]: 〈私〉について
□投稿者/ パニチェ -(2018/06/24(Sun) 19:51:35)
    No508に返信(パニチェさんの記事)
    > 以下は、danza_espanolaさん(2018/6/13, Wed 22:52)

    > アイデンティティの問題はとても奥が深いと思う。
    > 「私とは何者か」をどのモードから光を当てるかによって全部答えが変わってくる。

    > 独我論的モ ードであれば「<私>とは何者か」になるけれど、そのとき、質問者はどこにいるんだろうか。

    世界の特異点やと思う。もともとビッグバン宇宙論の用語やけど、そこから世界が開闢している何者も並び立つことのない自分だけの世界にどこにもないような地点かな。(2018/6/14, Thu 07:02)
引用返信/返信 削除キー/
■508 / inTopicNo.45)  Re[1]: 〈私〉について
□投稿者/ パニチェ -(2018/06/24(Sun) 19:46:47)
    以下は、danza_espanolaさん(2018/6/13, Wed 22:52)

    アイデンティティの問題はとても奥が深いと思う。
    「私とは何者か」をどのモードから光を当てるかによって全部答えが変わってくる。

    独我論的モ ードであれば「<私>とは何者か」になるけれど、そのとき、質問者はどこにいるんだろうか。
引用返信/返信 削除キー/
■507 / inTopicNo.46)  〈私〉について
□投稿者/ パニチェ -(2018/06/24(Sun) 19:41:17)
    danza_espanolaさんとのメール交換で始まった〈私〉に関する議論を取り置きたいということもあり、ここに移動して続けます。

    〈私〉に関して興味がある人は。。。
    Panietzsche Room > 探究 >〈私〉の哲学をロムして下さい。

    言うまでもなく横レスは自由ですが、テーマ対象となる〈私〉については言語化不可能なこともあり、横レスや質問に返信するかどうかも参加者の自由とさせてもらいます。

    私は〈私〉に対する説明に時間と労力をかけたくないのと、〈私〉に関する議論をレス交換の主としたいこともあり(私からは)スルーさせてもらうこともあります。

    まずはこれまでのレス交換を次の投稿から引用しておきます。

    以上、よろしくお願いします。

引用返信/返信 削除キー/

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