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■37140 / inTopicNo.1)  持戒
  
□投稿者/ 時 -(2024/04/19(Fri) 12:00:26)
    今から約2500年前、仏陀存命中の僧伽は出家者の集団でしたが、そこでは戒が守られる事がまずはの目標だったのでしょう。所謂、持戒ですね。今お話する戒には、大きく分類して、小戒、中戒、大戒と3つほどあったようです。

    小戒は、殺生を断じて一切の生物生類を哀愍して住し、偸盗を断じ、非梵行を断じて淫欲から離れ、妄語を断じて、真実を語り世間を欺かず、両舌を断じ、悪口を断じ、綺語を断じ、夜食を慎み、立派な寝床から離れ、山羊や羊を受け取ることから離れ、何某かの売買から離れ、欺瞞や詐欺、何某かの破壊、殺害、拘束等から離れると言ったものです。

    中戒は、食物の飲料の衣服の財の貯蔵から離れて住し、闘牛、闘鶏等の見物から離れ、賭博や囲碁等の遊び事から離れ、立派な寝床から離れ、装身具を装飾することから離れ、無益な話から離れ、各論争から離れ、虚談から離れると言うものです。

    大戒は、手相占いや夢判断、火による護摩や血液占い、土地、宅地の占い事や呪文、火を噴く事、願掛け、地鎮祭や外科手術等の無益な呪術によるよこしまな生活から離れていると言うものです。

    よこしまな生活というのは、八支聖道の中の正命に対する八支邪道の中の邪命(欺瞞、虚談、占相業、詐欺等によって利得を貪求する事)ですが、その他にも多くの事が記載されているようです。しかし、これらを全てを記憶する必要はありません。記憶してもその意味がないからです。

    上記の持戒の共通項は、出家者の目標とされた戒です。そして仏陀を始めとした、サーリプッタやモッガラーナ等の阿羅漢果の者達は、当然守れたであろう戒です。なぜならば、当時の阿羅漢果は無所有の実践者だったからです。

    あるときアーナンダが村人と雑談をしていたのを知ったその地域の神が、雑談することに何の意味があるのですか?禅定を成しなさい。と注意を促したという経典があります。これはおそらく、アーナンダの心の中に一瞬湧き起こった自らの気づきだったのだろうと思います。そしてこれらに気づけるのも気づけないのも、本人の機根が導く運命次第という事になるでしょうか。
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■36966 / inTopicNo.2)  Re[11]: 先達
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/29(Fri) 15:25:08)
    こんにちは、時さん。レスありがとうございます。

    No36964に返信(時さんの記事)

    > asahi803803氏の投稿を拝見しました。感想としましては、謙虚でひたむきな人格者であり、何かに包み込まれるような感覚になりました。無意識の内に無分別や分別のフェーズに落ち込んでいることに気づかれさるような雰囲気です。もしも当時、リアルタイムで投稿を見ていたのであれば、恐らくはファンの一人になっていただろうと想像します。

    私が尊敬していた方でしたので、時さんにそう言っていただけるのは私も嬉しいです。

    > 自己を島とし自己を依り処とし、他を依り所とせずに、法を島とし法を依り処とし、他を依り処とせずに、住しなさい。
    > 仏教とは何か?仏陀は、何を教えていたのか?現在の私ならば、心の平安の獲得と答えるでしょうか。
    > しかし、思考内で一時でも原始だ大乗だと無意識にでも分別し、少なからず固執していた事は、恥ずかしい限りです。
    > 今後、何時まで書き込むことができるのかは分かりませんが、成すべきことを成すだけです。

    時さんにも教えていただくことが多く、感謝しています。
    末永くよろしくお願いいたします。

    > 遅ればせながら、先達のご冥福をお祈り申し上げます。

    ありがとうございます。
    asahi803803さんは遷化という言葉が相応しい方でした。
    感謝、合掌
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■36964 / inTopicNo.3)  先達
□投稿者/ 時 -(2024/03/29(Fri) 10:03:54)
    おはようございます。

    asahi803803氏の投稿を拝見しました。感想としましては、謙虚でひたむきな人格者であり、何かに包み込まれるような感覚になりました。無意識の内に無分別や分別のフェーズに落ち込んでいることに気づかれさるような雰囲気です。もしも当時、リアルタイムで投稿を見ていたのであれば、恐らくはファンの一人になっていただろうと想像します。

    自己を島とし自己を依り処とし、他を依り所とせずに、法を島とし法を依り処とし、他を依り処とせずに、住しなさい。

    仏教とは何か?仏陀は、何を教えていたのか?現在の私ならば、心の平安の獲得と答えるでしょうか。

    しかし、思考内で一時でも原始だ大乗だと無意識にでも分別し、少なからず固執していた事は、恥ずかしい限りです。

    今後、何時まで書き込むことができるのかは分かりませんが、成すべきことを成すだけです。

    遅ればせながら、先達のご冥福をお祈り申し上げます。
引用返信/返信 削除キー/
■36949 / inTopicNo.4)  現代日本の葬式仏教
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/28(Thu) 08:20:28)
    外道から原始仏教を見れば外道と判断されるいうことですかねぇ〜。
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■36896 / inTopicNo.5)  在家者
□投稿者/ 時 -(2024/03/24(Sun) 12:55:45)
    2024/03/24(Sun) 16:35:58 編集(投稿者)

    今回は、居士(在家者)に対して仏陀たちが説いていた法を、順不同で少し書いてみたいと思います。

    ある経典では、広大なる心解脱(心の解放)、無量の心解脱(心の解放)という四無量心が説かれます。これは、最終的に梵天界(天界=善趣)への転生の為の道です。

    他の経典では、死を間近にした者に対して説かれています。

    六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)に執着しないと学べば、それらに対する識が生じないでしょう。続いて、六境(色・音・香・味・触・法)に、

    六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)に、六触(眼触・耳触・鼻触・舌触・身触・意触)に、六触所生の受に、六界(地界・水界・火界・風界・空界・識界)に、五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)に、無色界(空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処)に、この世に、あの世に執着しないと学べば、それらに対する識が生じないでしょう。

    この法を聞いた居士は泣き出しますが、その理由が、今までに聞いたことのない法話だったからという事です。それに対してこれを説いた比丘は、これは出家者のみに説かれる法であり、在家者には説かれないのですよと説明しますが、居士は、在家者の中にもこの法を理解できるものがいますので、これからは是非、在家者にも説いてくださいと懇願します。

    他には、四禅定の説明から、それらは、無常にして滅尽の性質あるものだという説明。続いて、四無量心(慈無量心・悲無量心・喜無量心・捨無量心)で心の解放が説かれますが、しかしこれらも思惟されたものだという理解。

    あらゆる色想を超えることで、有対想の滅により無色界に到達しますが、これらも思惟されたものだという理解と同時に、これらも無常であり滅尽の性質あるものだという理解。

    他経典では、俗家の欲を絶ったと言い張る居士(比丘?)に、八つの善法がその説明とともに説かれます。殺生が、偸盗が、妄語が、両舌が、貪求と貪欲が、非難と論争が、忿怒と悩が、過慢が捨断されるべきです。という内容です。

    他にも多くあるようですが、、ここまで書いて気が付きましたが、当時のインドと現代日本でのそれらに対する基礎的な事柄、文化的基盤が全く違うのではないでしょうか。理由は、当時のインドで仏陀たちが村々を托鉢の為に周り、また、食事に招かれた時等に簡略な法を説く場合、それらの言葉の意味を在家者たちは、ある程度以上は知っていたようだからです。例えば、六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)とは、こういう事を意味しているのだという事をです。原始に残っているものの説明を書いてみますと、識は、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の事で識別作用の事であり、六つの識は、六根と六境により生起します。そして、六根と六境と六識の3つで六触と定義されています。完ぺきではないにしても、基本的にこのような事を知っていなければ、いくら当時の在家者たちが仏陀たちに法を説かれたとしても、理解には至らなかったと思います。そして当時は、多くの在家者が天界への転生を達成しているようです。

    文化的背景の違いは、布施という行為に対しても現代日本とは大きくその意味合いが違っているようですね。当時、隠れて行っている者がいたのであれば分かりませんが、当時の仏陀の周りでは、少なくとも金銭のやり取りとしての布施は、存在しなかったようです。布施の定義的なものの記載がありますが、それを現代日本で行った場合、仏陀の説いた最高の供養の内容とともに、非常識だと周りからは判断されるように思います。つまりは、現代日本の仏教から見れば、原始の内容は外道だと判断されるでしょうか。
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■36895 / inTopicNo.6)  永井均著「〈子ども〉のための哲学」
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/24(Sun) 12:13:18)
    No36148に返信(パニチェさんの記事)

    > ただ一つだけ確実には断言できるのは、今ここに在る「比類なき先言の<私>」は他者にはありえないということ。
    > 何故なら、今まさにここから視野が開け世界を見ている地点はここしかなく、自分の痛みや感覚を体験しているのは〈私〉であることから、他者に〈私〉は当てはまらない。
    > 仮に世界に数多くの自我や私秘性があったとしても、〈私〉が体験する自我や私秘性は広大な時空間において、「今、ここ」の特異点しかないということ。
    > これをもって「比類なき先言の<私>」は唯一無二の存在であるということからパニチェ独自の独在論を「独〈私〉論」と名付ける。

    『そしてこれは、認識論的懐疑論から由来する独我論とはぜんぜん違うものだ。他人には心や意識が存在しないかもしれない、なんて考える必要はぜんぜんない。他の人間はもちろん心あるふつうの人間だ。そこには何の問題もない。問題は、心あるふつうの人間ではない(それには尽きない)このぼくという特別なものが存在し、しかも、それがなければ何もなかったのと同じ、という点にあるのだ。こうして、問題はふたたび独我論とつながる。(永井均著「〈子ども〉のための哲学」P66)』

    「〈子ども〉のための哲学」の初版が「ウィトゲンシュタイン入門」が刊行された翌年1996年5月だから、少なくとも1998年刊行「〈私〉の存在の比類なさ」の時点で永井均氏の独我論(独在論)は認識論的懐疑論をベースとした独我論ではなく、存在論に根付いたものであることが分かる。

    よってあえて「独〈私〉論」などと新たなラベリングなど不要で、永井均氏の「独在論」はそもそも私がNo36148で投稿したことと同じであった。

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■36839 / inTopicNo.7)  日常の行動に向ける意図
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/17(Sun) 17:23:32)
    自由意志はあるのかという哲学の議論は置くとして、
    瞑想をやればやるほど、瞑想以外の日常での意図、意志が要をなすことがわかってくる。

    仏教なら瞑想以外での貪瞋痴に向けた意図が強ければ、瞑想で貪瞋痴の想念が消えることはありえない。

    意志、意図、意欲、認容。貪瞋痴への微かなOKを出してもまずい。
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■36773 / inTopicNo.8)  Re[11]: 長年の瞑想経験による意識の変容
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/11(Mon) 16:32:08)
    パニチェさん レスありがとうございます

    >J・クリシュナムルテイによれば「洞察は物質的な過程から独立しているのですが、その過程に働きかけることができるのです。(P.192)」

    呼吸は心と物質に跨っている働きですね。どちらの過程にも同時に関わっています。
    もちろん、脳は物質です。

    瞑想で呼吸がものすごく重要なのはそういうことからも来ているのでしょう。
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■36758 / inTopicNo.9)  Re[10]: 長年の瞑想経験による意識の変容
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/10(Sun) 09:23:34)
    おはようございます、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No36753に返信(knowingitselfさんの記事)

    > 引用いただいた文の脳科学的な説明は基本的に妥当だと思います。

    > ちょっと観点は違うかもしれませんが、私の知っているのでは、イェール大学医学大学院で行われた脳スキャン研究では、非常に熟達した瞑想家や高名な瞑想家が多数参加して、深い瞑想時にはデフォルト・モード・ネットワークが静かになることが発見されたそうです。すごい人は瞑想をしなくてもデフォルト・モード・ネットワークが沈静化していて、長年の瞑想で意識の基本が変容し、脳の測定でもそれが裏付けられたと。

    Yahoo!掲示板で投稿されていた愚さんこと渡辺充さんが翻訳された本でJ・クリシュナムルテイとD・ボームの対談集『時間の終焉』の第6章が「洞察は脳細胞に変容をもたらすことができるか?」という見出しになっています。この書籍の結論から言えば“yes”です。

    J・クリシュナムルテイによれば「洞察は物質的な過程から独立しているのですが、その過程に働きかけることができるのです。(P.192)」「洞察には原因がないので、原因を持っているものに対してははっきりとした影響を与えるのです」と述べています。

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■36753 / inTopicNo.10)  長年の瞑想経験による意識の変容
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/09(Sat) 16:19:27)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    引用いただいた文の脳科学的な説明は基本的に妥当だと思います。

    ちょっと観点は違うかもしれませんが、私の知っているのでは、イェール大学医学大学院で行われた脳スキャン研究では、非常に熟達した瞑想家や高名な瞑想家が多数参加して、深い瞑想時にはデフォルト・モード・ネットワークが静かになることが発見されたそうです。すごい人は瞑想をしなくてもデフォルト・モード・ネットワークが沈静化していて、長年の瞑想で意識の基本が変容し、脳の測定でもそれが裏付けられたと。
引用返信/返信 削除キー/
■36748 / inTopicNo.11)  Re[6]: lito_simpleさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/08(Fri) 20:55:13)
    こんばんは、lito_simpleさん。レスありがとうございます。

    No36744に返信(lito_simpleさんの記事)
    > ご返信ありがとうございます。こちらは他にはなかなかない貴重な場だと感じます。

    ありがとうございます。

    > また哲学が楽しめる時期が来ましたらぜひ訪問させてください!

    はい、いつでもお越し下さい。大歓迎です♪

引用返信/返信 削除キー/
■36747 / inTopicNo.12)  Re[8]: 瞑想とはルサンチマンに気づくこと
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/08(Fri) 20:53:59)
    こんばんは、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No36737に返信(knowingitselfさんの記事)

    > そうはいっても、同じ人間ですから、時代や環境によって違う呼吸をするわけではありません。脳の構造も同じです。根底では同じ課題にぶち当たり、それを克服しなければならない点において、変わりはないと思います。

    参考までに以下が禅定中の脳をスキャンした結果とのことです。

    以下、「脳と意識の地形図」より引用
    ******************************************
    集中力が高まり、澄みきった心境が伺える特徴もあって、たとえば不安を作りだす扁桃体はいつもりずっとおとなしい。視床下部も自律神経系──「戦うか逃げるか」の反応の源である──の働きを阻止し、代謝を低くするという独特の働きをしていた。そのいっぽう、超越意識ならではの特徴もいくつか見られた。指向(ひとつの対象に注意を向けること)が固定され、前頭前野の活動が最高二割も盛んになり、頭頂葉の活動めっきり減っていたのである。

    瞑想時に脳のどの領域で、どんな活動に変化が起きるかがわかれば、超越体験がもたらす主観的な特徴を、脳がいかにつくりだしているのか仮説を立てることもできる──あくまで憶測の色彩が強いが。まず指向が固定される現象を考えよう。指向とは、「あれは何だ?」とばかりに対象に注意を向ける反射作用である。これは、ある刺激(感覚刺激でも、内部で生成された刺激でもよい)が突出していて、競合するほかの刺激に打ち勝ったときに自動的に起こる。その刺激に関連する神経活動が、興奮性の神経伝達物質によって増幅され、脳の底にある青班というところから皮質へと脈打つように伝わっていく。ふつうの意識では、指向は数秒ごとに切りかわっている。脳はもともと探求好きだからだ。実際に首を動かしてまわりを見ていなくても、脳はいつも周囲を探っている。たとえばマントラを唱えつづけるといった、単一でしかもあまり刺激のないことに指向を固定させるのは不自然なことであり、それを実践するにはかなりの努力が必要となる。

    刺激に対して指向が働き、注意が向けられると、脳のほかの領域はそれを維持しようとする。たとえば前頭前野は、ほかから入ってくる情報を積極的に阻害しはじめるので、競合する刺激は意識まで上がってくることができない。眠っているときに感覚が遮断されるのとまったく同じことが起こっているのだ。睡眠中は、視床が刺激をせきとめて皮質に行くのを防いでいるのに対し、注意を集中させているときは、感覚情報はちゃんと脳に入り、高いレベルで構築され、表現までできている。

    高いレベルの表現は記憶に「しまいこまれる」こともあるので、「いまの瞬間」の意識と異なり、促されれば感覚情報について本人が語ることもできる。場合によっては、こうした「うわの空」の状態のほうが、感覚に注意を向けているときより完全かつ正確に表現できる。身近な例を挙げよう。何かの作業に熱中している人に話しかけるとする。しかし相手は聞えてないらしい。そこで「いま言ったことわかった?」と念を押すと、そこで初めて相手は「スイッチ」が入り、しばし考えて言われたことを復唱する。ということは最初からはっきり聞いたことを意識していたのか。それとも気持ちはよそに向いているあいだに入ってきた情報に、機械的にアクセスしていただけなのか。それは当人もふくめて誰にもわからない。
    瞑想中の前頭葉に起こる変化を見ると、ひとつの対象に注意をしっかり固定しているので、感覚情報は意識できなさそうだ。しかし、それは瞑想中も感覚(外から聞こえる音など)は鋭く意識していて、ただ影響を受けないだけという証言と矛盾する、しかしこうした証言は、瞑想状態に起こっていることを正確に反映しているのか。それとも、瞑想中に経験したと思っているだけで、そのとき脳に入ってきた知識にあとからアクセスしているのか?これもまた判断の下しようがない。

    注意を狭い範囲に集中させるあまり、「我を見失う」ようなことはあまり起こらない。何かに熱中していて相手の話を聞きもらすようなときでも、物理的な境界を監視する身体地図は機能しているので、かすかではあるが身体的な自己の概念は保たれている。しかし、瞑想の場合、指向が長いあいだ固定されることで前頭前野の活動が極端に高まり、身体地図を担当する領域が静まって身体概念が失われる。その結果、身体の境界に関する無意識の認識さえも消失するのである。

    通常存在する概念上の境界がなくなると、その枠におさまっていた自己の感覚は蒸気のように外に流れ出し、周囲のあらゆるものを組み込んでいく。世界を「内側」からではなく、あらゆる側から見ているような気がするのはそのためだ。自分はどこにもいないようで、すべての場所にいる──他のものから切りはなされているのではなく、一体となった感覚が生まれる。

    ************ 引用終わり ************

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