| pipitさまに教えてもらったカントの、
**************** 『人間の認識には二つの幹、つまり悟性と感性があり、これらの幹はおそらくは、一つの共通な、しかし我々には未知の根から発している。(A15=B29、また『人間学』第三十一節参照)』『カント『純粋理性批判』入門』p155より引用 『この二つの〈幹〉とは感性と知性[=悟性]であり、これらはおそらくまだわたしたちには知られていない一つの共通の〈根〉から生まれてきたものである。感性によって、わたしたちに対象が与えられ、知性によってこの対象が思考されるのである。』B29あたり 中山元先生訳『純粋理性批判1』p63より引用 **************** のところと、現象学の、 No24328を絡めて、ん〜ん、「と」のなかの共通と相異を見ていくことにしま〜す。
まず、カントの見方を簡単にしちゃって、 (1)人間の認識には二つの幹、感性と知性[=悟性]がある。 (2)これらはおそらくまだわたしたちには知られていない一つの共通の〈根〉から生まれてきたものである。 (3)感性によって、わたしたちに対象が与えられ、知性によってこの対象が思考されるのである。 って言うことだと思う。
(1)〔人間の認識〕っていう〔認識〕っていうの、問題ね。
わたし、カントの言う〔認識〕は〈真正な知識〉を意味してるんだと思う。 わたしが読んでる「カント」っていう本の中に、 〔そこで、まずわれわれは、自然科学での知識の正当性・真理性(正しいゆえん、真理であるゆえん)を批判・検討することにしよう。『純粋理性批判』は、こうして、自然科学的な真理の性格の検討からはじまる。〕 これが『純理』の始まりだと見てる。そして自然科学の正統性・真理性は普遍・必然性って書いてあった。 ようするにカントの思考の目標は、〈神のに対しての、人間の自然科学のような真正(普遍・必然性)な知識〔認識〕がいかにして可能になるのか〉を見えるようにすることだったんじゃないかって。 現象学の場合、このような〔認識〕じゃなくて、人間の「意識」、もっと正確にいうと、「生(なま)の意識」を問題にしてるんだとわたし見てる。だから、現象学のわたしので(1)を見ると、 〈1〉人間の「意識」には二つの幹、感性と知性[=悟性]がある。 ってなる。こう見たときカントのと共通性がある気がする。ただ、現象学の場合、人間の「生の意識」は〈真正な知識〉を生み出す働き(科学的思考)もあるけど、間違いもする、っていうころも含めて見てるんだと思う。 あと、中島義道さんによると、カントは意識の現れを「真なる現れ」を「現象」、「誤った現れ」を「仮象」として区別したみたい。カントの場合、このような意味での「現象」がいかにして可能になるのか、の方を探究してたのかも。 カントは、科学的に思考されたものにおいては真正であるはずだ、から出発して感性を見ようとしてたんじゃないかしら? 『純理』は人間の意識における〈真正(普遍・必然)な知識〉=〔認識〕のアプリオリな領域のみに限られたコギト、っていう前提がある気がしてる。だから〔これ〕を意識全体についてのものと見ると分け分かんなくなるかも?
カントが〔認識〕を〔感性〕と〔知性[=悟性]〕という〔二つの幹〕に分節しているのに対応して、現象学では、「生の意識」を「受動的総合」と「能動的総合」とに分節してるようにわたしには見える。ここらへんも似てる。
カントの「純粋理性批判」について、 フッサールの『デカルト的省察』訳注に、 〔カントは、空間と時間を「直観の形式」または「感性の形式」と呼び、それらは「こころのうちにアプリオリに備わっている」とか、「主観の性状として、主観のうちのその座を有する」とか述べていた。しかし、他方で、それらは「現象に関しては客観的である」とも言う。つまり、「経験的実在論」と「超越論的観念論」を同時に主張しているわけである。その辺りの事情を、ここでフッサールは、「極めて制限された仕方」ではあれ、「ノエマ的なアプリオリ」を目指していた、と述べているのである。〕 ってある。 「ノエマ」=思われたもの、「ノエシス」=思うこと、ね。現象学ではこの区別をしてる。
(2)〔一つの共通の〈根〉〕から、〔感性〕と〔知性[=悟性]〕が生まれてる< カントはこういうふうに感知(感じとること、気づくこと)してる(言い換えると「直観」かな?)んだと思うけど、ところで、結局〔一つの共通の〈根〉〕、再発見できたのかしら?それとも〔まだわたしたちには知られていない〕ままなのかしら?わたしこれ見つけちゃったけどね。
(3)〔対象〕っていうのが問題ね。 現象学のわたしのは、感性〈受動的総合〉の働きによって感性の領域に現れてくるのが〈対象〉って見てる。 『感性によって、わたしたちに対象が与えられ』は、こう見ることもできるんじゃないかしら。ここらへんも似てるかも。 〈対象〉っていうのは私の外にあるものじゃなくて、私のうちに現れてるものってしてる。だって〈象〉でしょ。そして、〈対象〉っていうのは地の上の図って見てる。この図として現れた〈対象〉は、わたしの志向性が前提となってる。カントの言う「触発」がこれに当たるのかも?ってすると、ここんところも似てる気がする。
そしてこのような〈対象〉を〔知性[=悟性]〕の領域が見て、思考する。こう見ることもできるんじゃないかしら?
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