| つづきです
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7 「文化の総合形態」と文化研究の定式化
1927年のピマ社会での調査の途中で、ベネディクトはズニに代表されるプエブロ諸社会の文化と、ピマをはじめとする周囲の諸社会の文化とのあいだに「もっとも峻厳な文化的断絶」(Benedict 1930(1959):260)が存在することに気がついた。後者の諸社会では幻覚剤やその効果をもつ飲料の使用が盛んであり、われを忘れた興奮と熱狂の儀礼をとりおこない、恍惚状態のなかで将来のヴィジョンを得ることに主たる関心が置かれている。ところが、それに隣接し、自然の障壁によって隔てられているわけではないプエブロの諸社会では、幻想も熱狂も幻覚剤の使用も存在しない。隣接したふたつの文化のあいだのこうした「峻厳たる断絶」をどう考えたらよいのか。それが、ベネディクトが自問したことであった。
前々節で見たように、ボアズの関心は諸民族の文化的接触と相互影響を歴史的に再構成することにあったため、この前提にしたがうかぎり、隣接する諸社会のあいだにこれほどの文化的断絶が存在することを説明できなかった。そこでベネディクトが考えたのは、個々の文化は独自の総合形態(configuration)ないし固有のパターン(pattern)をもっており、それを基準として、外部からやってくる諸々の要素を取捨選択しているのではないかということであった。
他の地域からの影響を描こうとする私たちの努力のすべては、ディテールの断片性を強調した。私たちは文化の縦糸や横糸の断片を発見しただけで、そのパターンにいたる有意な鍵を見つけていない。この鍵は、この論文の観点からするなら、文化が疑いなく何世紀もかけてつくりあげてきた基本的な心理セットのうちに見つけられるべきである。(ibid.:261)
ベネディクトは学生時代に親しんでいたニーチェに倣ってプエブロの文化の「基本的な心理セット」(これはつぎの論文では「文化の総合形態」と呼ばれるようになる(Benedict 1932)を「アポロ型」、周囲の諸社会のそれを「デュオニソス型」と名づけることで、個々の文化の基本形式の差異を強調したのである。
1920年代の後半に書かれた論文ではおずおずと提起された「文化の総合形態」、「パターン」、「心理セット」などの用語は、1934年に出版され、ベネディクトの名を一躍高めた『文化の型』においては中心的な位置を占めるにいたっている。彼女はいまや、文化が「思想と行動のともかくも一貫したパターン」であること(ベネディクト1934(1973):83)、「文化的行為の個別的分析」に終始していた従来の文化研究を、「個人の思考や情緒を条件づけている文化総合の問題」へと転換すべきこと(ibid.:85,94)、を主張するのに躊躇しない。というのも「文化はその特徴の寄せ集め以上のもの」(ibid.:84,原文を参照して訳を若干変えてある)であり、「部分の組みあわせとその相互関係が、あたらしい全体をその結果としてつく」っているのだから(ibid.:83)、文化研究をおこなうころは全体のパターンの研究、総合形態の研究でなくてはならないというのである。
ベネディクトが打ち出したこうした文化の総合論的な見方は、なにに由来していたのだろうか。ベネディクトはみずからの視点を補強するべく、以下のものを上げている。20世紀初頭以来急速な進展を見ていたゲシュタルト心理学、歴史哲学者のウィルヘルム・ディルタイ、美学のウィルヘルム・ヴォリンガー、『西洋の没落』を書いたオスヴァルト・シュペングラー、そしてマリノフスキーなど、彼女が親しんでいたドイツ系の、とくにロマン主義的な学風をもつ学者の文献である。これらの引用について、ベネディクトの学生であったヴィクター・バーノウは、「ボアズはかなり以前からドイツの人文科学や哲学の「深遠な」直観的洞察をしりぞけていた。しかし、このおなじ怪しげな源泉の中に、いまルース・ベネディクトは霊感をみいだした」と書いて(ミード1974(1977):78に引用)、ベネディクトのオリジナルであったとする。一方ミードは、これらの参照はボアズの指示のもとにおこなわれていたとして、バーノウのことばを批判している(ibid.:78)。しかし、すべてを自分の思い通りにしなくては気がすまないミードのことであるから、割り引いて考えたほうがよいであろう。おそらくバーノウのことばが正確なのである。
人間はだれも、世界を生まれたままの目で見てはいない。人間は習慣や制度や信じ方の、あるきめられた一組によって編集された世界を見ているのである。‥‥個人の生活史は、かれのコミュニティが伝統的に継承してきた形式と規準の、最も明白な適応である。生まれたときから、その生まれおちた場所の習慣が人間の経験や行動を形成してゆく。話ができるようになったとき、‥‥習慣のくせがかれのくせとなり、習慣の信条がかれの信条となり、習慣にとって不可能なことはかれにとっても不可能なことになる。・・・このような習慣の役割ほど、理解の必要な大切な社会的な問題にはほかに存在しない。(ベネディクト1934(1973):5−7)
文化とはなんであり、文化によって諸個人の思考や行動がどのように規制されているかを要約して示した『文化の型』の冒頭の見事な文章である。ベネディクトの文章には、ここでの「編集された世界」や「世界を生まれたままの目で見」るという表現、さらにはニーチェからとった「アポロ型」や「デュオニソス型」(のちの「菊」と「刀」の語りもそうである)などの語に見られるように、メタファーの使用に類を見ない冴えがある。よいフィールドワーカーではなく、すぐれた理論家でもなかった彼女を人類学史において卓越させているのは、このようなレトリックの力であり、多様で混乱したデータを整序する技量であった。
『文化の型』で彼女がとりあげたのは、彼女の調査地でもあるプエブロと、レオ・フォーチュンによるメラネシアのドブ島、ボアズによるクワキウトゥルの三つの社会であり、この三つを彼女は、プエブロは中庸を重んじるので「アポロ型」、妖術と妬みと敵対に溢れるドブをいわば「悪魔型」、恍惚となっておどりつつ食人をおこなうクワキウトゥルを「デュオニソス型」に分類している。これら三つの文化が、彼女のいうようにそれほど異なっているとすれば、読者は文化がそれぞれ異なった仕方で組織されていることを、それゆえ文化の相対性に対する理解と文化の総合論的な見方が必要なことを承認するであろう。それがベネディクトが狙っていたところであり、この本が人類学の内外で大好評をもって迎えられたことを見ても、その目論見は成功したのである。
もっとも、この本が多くの問題を含んでいることも事実である。文化に対する異なるアプローチを採用していたボアズは、序文でこの本が「文化の全体性」に焦点を合わせていることを歓迎する一方で、「著者が主張するよううには、個々の文化が支配的性格によって特徴づけられているわけではない」と一定の留保をつけている(Benedict 1934:x)。ベネディクトのように整理したなら、多様性でときに矛盾するデータがこぼれおちていくことを危惧していたのである。その他、ベネディクトが自分の立論に合わせてデータの一部を排除していることや、文化間の差異にアクセントを置くあまり他の側面が軽視されていること、彼女の解釈があまりに主観的で実証性を欠いていること、などがあいついで批判されたのである(カフリー1989(1993):314sq)。
なかでもおそらく一番の問題は、彼女が「パターン」といい「総合形態」といっているものが明確にされていないことであった。それは、どのようにしてかたちづけられているのか。どのようにして変化しうるのか。また、どのようにして諸個々人に作用しているのか。これらの問いは少しも明らかにされなかったのである。ベネディクトの著書は、簡潔な文体を用いて、個々の文化の差異を印象主義的に描いており、その点にこそこの本が人類学の本としては「例外的に売れた」理由があった(Modell 1983:208-218)。しかしそれは、いまの時点でいえば「文化資本主義」との批判を免れることはできない。それは、諸文化を対照させることで文化的差異を強調するあまり、それぞれの文化を均質的なものとし、内部に差異や多様性があったとしても結局は文化統合が優先し、人びとの思考と行動を超越的な仕方で律するある種の本質をもったものとして描いているからである。
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なんか、ニーチェ出てきてる。
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