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偉大な神々は雨を降らせてくれるし社会的機関は正義や医療を提供してくれるし、 幸福な偶然で大金持ちになる人もいるが、そのどれにも、 私たちの基本的な精神パターンを変えることはできない。 そのため、どれほど偉い王であっても不安を抱え、絶えず悲しみや苦悩から逃げ回り、 より大きな喜びを永遠に追い求めて生きる定めにある。
ゴーダマはこの悪循環から脱する方法があることを発見した。 心が何か快いもの、あるいは不快なものを経験したときに、 ものごとをただあるがままに理解すれば、もはや苦しみはなくなる。 人は悲しみを経験しても、悲しみが去ることを渇愛しなければ、 悲しさは感じ続けるものの、それによって苦しむことはない。 じつは、悲しさの中には豊かさもありうる。 喜びを経験しても、その喜びが長続きして強まることを渇愛しなければ、 心の平穏を失うことなく喜びを感じ続ける。
だが心に、渇愛することなく物事をあるがままに受け容れさせるにはどうしたらいいのか? どうすれば悲しみを悲しみとして、喜びを喜びとして受け容れられるのか? ゴーダマは、渇愛することなく現実をあるがままに受け容れられるように 心を鍛錬する、一連の瞑想術を開発した。 この修行で心を鍛え、「私は何を経験していたいか?」ではなく 「私は今何を経験しているか?」にもっぱら注意を向けさせる。 このような心の状態を達成するのは難しいが、不可能ではない。
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「じつは、悲しさの中には豊かさもありうる。」
悲しさの中にある豊かさとはどのようなものだろう。 色々思うけれど、 例えば何かを諦めるということは、もう心が動くことが無いから とても静かなことなのかもしれない。 その静かさは心地よいものだろう。 悲しみは小さな泉のようにただ湧き出しては 心の中にしみ透り戻ってゆくだけ。
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