| 2021/12/09(Thu) 07:46:41 編集(投稿者)
pipitさん、こんばんはー
パニチェさん、私の不味い感想文を評価していただいてありがとうございました。
私も、No.19691でパニチェさんが引用してくださった『「個人的経験」および「感覚与件」について』(全集6に所収)をみていますが、目にとまった文章を引用してみます。(カント沼で疲れた頭の再起動には好い?刺激 (゚Д゚;))
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>「彼が自分が何を見ているのか、我々に教えてくれるだろう」、と我々が言うのは、彼は、我々が彼に教えたことのない言語を使う[ことができる]だろうというように聞こえる。
また、[彼がそれを教えてくれれば、]我々がこれまで外側からだけしか見ることができなかった何かの内観(インサイト)が得られる、というように聞こえる。
内側と外側 ! <
→『「個人的経験」および「感覚与件」について』、大森荘蔵訳、全集6、p.314
>何を自分が見ているのかを人に告げるのは、自分の内側を外にひっくり返すようなことであるのか。そして、何を自分が見ているのかを言う言い方を習うのは、他人に自分の内側を見させることを習うことであるのか。
「我々は彼に、彼が見ているものを我々に見させることを教える。」[こう言うのは、]彼は、自分の見ている対象=A自分の心眼の前にある対象を間接的な仕方で我々に見せているように思っている[からなのだ]。「我々はそれを[直接]見ることはできない。それは彼の内部にあるのだから。」
視覚の私的対象の観念。見え、感覚与件。
感覚与件の私的性格(プライバシー)の観念はどこから[生じたのか]。<
→同書、p.315
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「独我論」Solipsismusと、「個人的経験」あるいは「感覚与件」とはどう関係しているのだろう(;´・ω・)。
ウィトゲンシュタインは上の引用で内側と外側という対になる概念をもちいていますが、これはさしあたり「(個人的)経験」を語る自分の内側と、その外側という意味で使用しているようにもおもえます。
経験とはすぐれて自分の(個人的)経験である、とするならば、それを自分の外側に、まさに「自分の内側を外にひっくり返す」ことで、自分の内面世界が全てを包み込むことになる、、、とはあまりにも独我論者風でしょうか。
こんな言葉を思い出しました。
「建物は外に向かっては沈黙を守り、これに対して内部においては豊饒な世界が展開するようにしたい。」(アドルフ・ロース『装飾と犯罪』「郷土芸術について」(1914年)、p.152)
(;´・ω・)。。。沈 黙
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