| 2021/11/10(Wed) 19:35:44 編集(投稿者)
No18616 ザビビのふくろうさんへ
失礼しました。★マークのところを訂正しました。 ★理解(理解)→解釈(理解)
こんにちは。長文でのレスをありがとうございます。
> >「分析哲学では、分析命題、経験命題、価値命題等に分類される」 > このような分類がなされるようになったのは、『論考』がもとになっており、その影響を受けた論理実証主義という学派の人たちが、この分類を理論的基礎に据えました。 > アプリオリかつ分析的命題として論理的命題と、数学的命題。 > 真偽を検証可能な経験命題。科学的命題はこれ。 > 宗教的命題、形而上学的命題、倫理学的命題(べき命題)などは、上の両方に含まれないとされました。つまり、経験的意味内容のない命題とみなされたわけです。
それがいつなのかを今は知るすべもありませんが、論考をもとにしてその世界に手かせ足かせ?を付けたのが、論理実証主義という学派の人たちですか(笑)どうも四句分別の世界を知っているつもりの私としては、元々の二句分別の経験命題のみの世界は縛りが多くて動き辛いと感じます(言葉の使い方はあっていますかね?)(笑)
> それで、形而上学的命題は論理命題でもなく、検証不可能だから経験内容のない無意味な疑似命題にすぎない,みたいに,ヘーゲルやハイデガーの文をとりあげてバッサリやったので、伝統的哲学(大陸哲学)と分析哲学の間に溝ができてしまったんです(笑)
大きな溝は、できそうですね(笑)私では、やはり理解不可能だと思います。
> 『論考』では、冒頭第一命題で「世界」は下記のように定義されています。 > (ただし、実情であることがら(事実)=真なる(経験)命題が語ることがら)
> 1. 世界は実情であることがらの全てである > 1.1 世界は事実の全体であり、ものの全体ではない。
事実=真なる経験命題・・・事実とは、その人物の実体験したことではないのかなぁなんて思っています。例えば、UFOを100人で観たというニュースが流れた場合に、その証明は今のところできていないと思いますが、その100人にとっては、UFOが飛んでいたのを見たというのは経験命題の真になるのではないのでしょうか(笑)これがもしも1000人、10000人単位での目撃ならば、それが80億人ならば・・・そしてこの中には哲学者も含まれます。なんて考えてしまいますね。要は、その境目が理解できないのです。理解不足も甚だしい頭での書き込みですので、ご容赦・スルーくださいませ。(笑)
> >仏典内で存在すると説かれるのは、無常なる五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)であり、存在しないと説かれるのは、常住なる五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)です。ここで勝手に定義するならば、存在とは変化(無常)である。ではどうでしょうか? > >ですので「世界は存在する」は、「一切は変化(無常)である」になり、「世界は存在しない」は「一切は無変化(常住)である」になりそうです。どちらにしても当たり前ですので、論考でいうところの論理的命題になりますね。
> ここはちょっと違いますね。 > 『論考』の想定する命題言語では、「存在」はいわば無定義概念で、見たことあるかもしれませんが、存在記号「∃」で表されます。 > で、この記号で表されることは同じなんですが、それが登場する命題によって、意味は異なります。 > 「世界は存在する」を意味する場合は論理命題として登場し、これはこの言語世界においては根本前提となる条件ですから、むしろ世界がいかに生成変化しようと、それが世界であるかぎり世界としての同一性を保つ不変の形式とみなせるかと思います。 > しかし、世界内における事実の存在を記述する経験命題として登場する場合は,要は「事実の存立」を意味しますので、解釈によっては「現象(表象)の立ち現われ(生成)」という捉え方も可能かもしれません。
なるほどー、よくわかりません。(笑)分からないということがわかるという意味でです。 存在は無定義概念であり、かつ、解釈次第では「現象(表象)の立ち現われ(生成)」との捉え方も可能ならば、存在は「現象の生滅変化」=「無常」でも可能なようにしか今は思えません。もしかして「現象の生起」だけですかね?きっと、そのようなことはありませんね。生起したものは必ず滅尽しますので、生滅の変化で「無常」 ・・・しつこいですねw やはり存在の定義的なものがない(無定義概念)不安定な土台の上に成立しているようにしか今は理解が及びませんかね。
しかし、教えていただいた経験命題の二値での世界観を存在の範疇とするのであれば・・理解は可能なのかもかもしれませんが。
> >ここで私がよく理解できないのが、もしもその当たり前の「世界は存在する」という論理命題が「一切は変化(無常)である」ならば完全に理解に至れるのですが、ここでご説明していただいている論理的真理としての「世界は存在する」というのが何を根拠にして論理的真理としているのかが理解できないのですね。
> 論理的真理を何か絶対的真理・自明の真理のようなニュアンスでとらえてはいないでしょうか? > それで、いやいや、なんでそれが真理と言えるんや?って疑問がわくのでは?
はい。世界は存在するというのが論理的真理とするならば、ニュアンス的にそれを自明の真理とするのではないのでしょうか?論理的真理で「世界は存在する」というのを前提とするということですよね?
> そうではなく、むしろ、SumioBabaさんとよく話した公理のようなもので、「キーパーだけはボールを手に持ってよい」がサッカーを成立させるための規約であるのと同様に、あくまで、命題ゲーム(語り)を可能にするために置かなければならない前提です。
はい。その真偽の検証のための土台として「世界は存在する」を論理的真理としているという意味ではないのですかね?
> ただし、この世界を語るという目的をもった命題ゲームを構成するためには、どんな前提であってもよいわけではありません。 > この前提を命題ゲームの前提として正当化するのは、まさにこの前提を置けば実際にきちんと世界を記述でき(目的実現)、逆に、この前提が満たされない場合は言語が不可能(目的実現不可)である、という事実であることになります。 > 前回、次のように言いましたね。
> > というわけで、世界全体の存在は、言語が成立するため、何事かを語るための条件、限界なのです(そもそも一切何もない(無)なら語りは不可能)。
> これをもう少し具体的に敷衍して説明しましょう。 > 例えば、私が視覚能力を有さないと仮定した場合、私の視覚世界は存在しないということになりますね。 > そうすると、このとき、私の視覚世界を記述する言語(視覚像言語)は不可能です。 > 私が私の視覚像言語を有するためには、何らかの視覚的対象、あるいは何らかの視覚表象が存在する、つまり、私の視覚世界が存在しなければなりません。それらが一切存在しなければ、何も語りえない、ということを意味するでしょう。この意味で、世界の存在は言語の前提だということです。
はい。うーん、問題ないはずですが。私の認識が違っているのでしょうか?言語ゲームの前提として一切が無ならば語ることは不可能なので、語れる以上、世界は存在するを前提とします。そしてその世界は存在するを論理的真理として言語ゲームの土台に据えます。論理的真理という地名の「世界は存在する」というフィールド上で、言語というボールを使用したゲームをするというイメージなのですが。この意味で、世界の存在は言語の前提だということですね?
> >しかし、人間に認識できる出来ないにかかわらず、例えば見ている景色の山という色は常に変化し続け、空も雲も、飛ぶ鳥も、小川等々もすべて常に変化していますし、それを見ている側の私の眼球も視神経もシナプスも常に変化し続けていますね?一切は無常ならですが。同時に同じ富士山と呼称される山という色を、同じ地点で同じ時に同じものを見て認識しているという存在はないはずです。間違っていますかね?ご指摘いただければ幸いです。変かもしれませんが、この辺りが哲学という分野での以前よりの大きな疑問でした。どのようにザビビのふくろうさんがお考えなのかを、よろしければ教えていただければと思います。
> おっしゃっていること自体は,間違ってはいない,と思います。 > つまり,デカルト的な自我と同様,世界の構成要素としての実体は恐らく仮象に過ぎないでしょう。 > しかし,時さんがこのような問いを用いてご自分の問いを語るとき,これは日常言語でなされています。この言語は,いわゆる素朴実在論を前提とした言語です。つまり、「空も雲も、飛ぶ鳥も、小川等々」も、心もまたその存在を前提されています。 > この言葉が成立するためには,先ほど述べたように,物と心に充ちた素朴な世界の存在が語りの限界として前提されていなければならないわけです。 > 世界の限界としての私も,実体のない形式であるとしても,世界成立の条件として「私=私」という不変的・形式的同一性として成り立っていなければなりません。 > そうでないと,「変化」すらも語りえなくなり,そもそも時さんの問い自体,なしえないことになります。
はい。ここまでは、理解できていると思います。
> おなじみかもしれませんが,次の例で説明しましょう。 > スクリーンに映写機により映し出される飛翔する一羽の鳥の映像を考えます。 > このとき,一羽の鳥が羽ばたいているということは,すなわち数的同一性を保った時空内存在が変化し続けている,ということでしょう。 > しかし,この映像のもとであるフィルム上には,単に別々の写真が並んであるだけです。このフィルム上には変化はありませんよね。ただ,たんに別々のものがあるにすぎないわけです。 > つまり,この写真の別々の鳥の像が,スクリーン上に動画映像として映し出され、それが同一の鳥の像として把握されることによってのみ,「一羽の鳥が飛んでいる」という事実として語ることが可能になっているのです。 > つまり,言語は,「同一存在の状態変化」という形式の記述なくして,世界を記述することはできない,ということです。 > いわば「生成変化」とは,「同一のものの生成変化である」ということです。
うーん。。「生成変化」とは,「同一のものの生成変化である」・・同一のもの・・一切は無常ゆえに、このような”もの”があるのでしょうか?と考えてしまうわけです(笑)
「しかし,この映像のもとであるフィルム上には,単に別々の写真が並んであるだけです。このフィルム上には変化はありませんよね。ただ,たんに別々のものがあるにすぎないわけです。」
というところです。私の結論は、このフィルム上にも変化はあると捉えます。しかし実際にはそのフィルム上での変化は認識できないだろうと思われます。(フィルムの場合、これ自体の劣化消滅までの時間的な経緯を継続的に認識できないでしょう)きっとこの辺りが理解の分岐点のような気がしますし、経験命題での縛り(条件)だろうと思います。
> 再度,時さんの言葉を書きます。 > 「見ている景色の山という色は常に変化し続け、空も雲も、飛ぶ鳥も、小川等々もすべて常に変化しています」 > この文は,明かに,山も空も雲も鳥も小川も,実体ではないにせよ,これらの存在の形式的同一性を前提としてその変化を語っているのです。理解してもらえますかね?
多分、「存在」が変化を伴う無定義概念である以上、人に説明はできないと思いますが、多分、理解はできたつもりです。
> それゆえ,私たちが言葉を用いて論理的に考えるとき,べたな喩えになりますが,どこまで行ってもお釈迦様の掌の上から出られないごとく,不変の形式的同一性を有した実在世界の外には出られません。いわば,いつでもどこでも世界はある,のです。
これは「あなたはどこから来たのですか?」という問いかけに「私は常にここ(実在世界)にいます」と答えるような感覚ですね。
> それゆえ、言語において、世界の存在を否定することは論理的に不可能であり、意味を欠きます。 > ですから、現在ここで行っている言語的・論理的・形式的考察ではなく、現実の私の現象世界を論じる場合も、けして世界の存在を否定することはできません。
言語において、世界の存在を否定することは「私は何も話していません」と話ているようなものだということでしょう。あなたは「私は何も話していません」と言語化しているではないかと。・・(笑)よく似たお話が、仏典に記載があります。
> そこで、フッサールは、この自然的態度(素朴な実在前提)の「実在」を前提するのをさしあたりやめて、しかしけして否定するのではなくあくまで中断・保留(エポケー)して、この「実在」というものがいかに成立しているかということを考察する方法、すなわち「超越論的的還元」という方法を確立したのです(あとは省略しますね(笑))。
かなり満腹ですので、気前よく省略してください(笑)
> ところがどっこいです(笑) > あと,簡単に書きますが,この世界の限界である論理を越える言葉,つまり,たとえば命題言語ではない詩的言語であれば,命題言語の記述する世界(単なる事実の全体)の限界を越えてその外側へと到達することができるんですね。ただしその場合でも,日常言語そのものを前提にした上ですが。 > また,逆に,というか,詩的言語のように,日常言語(命題を含む)の成立を前提した上でそれを越えていくのではなく, > 仮に,そもそもその世界の限界,その存立の条件である不変的形式(私=私,過去・現在・未来という「時の形式」etc.)が成立しなくなったなら,それはいわば,私と他者,此岸と彼岸の境界,現実と非現実,etc.といった世界の限界が消失することを意味し,精神病理学的にいう「統合失調症」あるいは「離人症」といった精神世界が出来すると考えられます。と言うより、世界が成立しなくなる、と言うべきかもしれませんが。 > それは,先に少し触れた超越論的還元(現象学的還元)という方法を応用した現象学的病理学――現在では「臨床哲学」と呼ばれてもいます――が明らかにしています。 > つまり,世界の存在も,A=Aという同一性も,「時」も、語りの前提ではあっても絶対的真理ではなく,成立する保証はありません。 > あくまでその成立は前提にすぎないとも言え,したがって,ある意味,簡単に壊れてしまいうる,ということですね。
全ての存在が成立し続けることを何も担保しないということですね。
> >ここの解釈として、私という存在を一瞬でも常住的なもの=日常的にとらえられる自分(世界(時間空間)内の存在者が、いついつ、どこどこにある)としたのであれば、それの真偽が他者によっても二値で確かめられるということですね。この場合に「語りえない私」から「語りうる私」に至るという理解でよろしいでしょうか。
> これはむしろ逆で、ハイデガー的なんですが、我々はだれしもまずは日常世界のうちに自己があるもの(世界内存在)として捉えているはずです。 > 私は私とともに世界の中に他者と共にあり、日常言語を語る存在者の一人であり、けして最初に世界=私であるような自己として捉えているわけではないはずです。でないとそもそも日常生活が成り立たないわけで。 > 我々が自己=世界ということに気づくのは、先ほど述べた超越論的還元や、ハイデガーが言う「死の不安」によるといったときではないでしょうか。 > 日常では私の死は他人の死と同じ世界内の一事象にすぎず、たとえ死んでもこの世界は存続すると思われます。だから、人は生命保険も考えます。 > しかし、自己が死ぬということを不安とともに意識するとき、 > 私の死=私の世界の終わり > に気づくのではないでしょうか。 > このとき、ふだん前提して疑っていない自分の世界の「存在」が、何ら保証のないものとして顕われてきて不安に陥るわけですが、 > この不安は、日常感じるような世界内の一存在者(例えば狂暴な犬)に対する恐怖とは異なり、いわば「世界全体の存在に対する不安」であるわけです。 > ふだん意識しないようにしてはいたけど、否応なく、この前提には何にも保証などないと気づいてしまうってこと(うすうすわかっちゃいたけど)。 > だから、むしろ「語りうる私」から、「語りえぬ私」へと立ち還る、と言ったほうがいいと思います。
なるほど。語りうる私の生活の中で、自己が死ぬということを不安とともに意識するとき、私の死=私の世界の終わりであることにぼんやりとでも気づきはじめ、そしてこの揺らぐ存在世界の中でやがては語りえぬ私に気づく。生の継続は何も保証なしですからね。この場合が、「語りうる私」から「語りえぬ私」。
いずれにしても、スタートは「語りうる私」ですが、しかしこの世界観は、論考では取り扱っていない分野だろうと想像します。取り扱われていますかね?
> >> それに対して、『論考』で言われる形而上学的主体としての私というのは、 > >> 私=世界 > >> が成り立つものです。 > >> で、先ほど世界の存在は語りえない、と先に述べました。 > >> ゆえに、形而上学的主体としての私の存在も、語りえないのです。
> >仏教の思想に照らしての今までの私の理解が正しいのであれば、理解できそうです。
> >> 私が表象する(語る、思考する、知覚する)とき、私は私の表象そのものであって、表象する主体(実体)ではありません。
> >常住的な私(語りうる私)の場合には、その二値での真偽判定ができ、私が表象する(語る、思考する、知覚する)ときには、私は私の表象そのものであって、表象する主体(実体)ではなくなるということでしょう。
> >> そして世界が私の表象であるなら、当然、私は世界である、ということになるわけです。
> >「世界が私の表象であるなら、当然、私は世界である、ということになる」というのは、理解できそうですが、しかしここでの「私は世界である」は、誰の言葉なのでしょうか?(笑) > >世界が私の表象であるならば、私は世界であるので、その私は何も語れないのではないでしょうか? > >この場合語っているのは、常住的な私(語りうる私)ですね。
> 「>世界が私の表象であるならば、私は世界であるので、その私は何も語れないのではないでしょうか?」 > というのはどうしてでしょうか?
語ってしまった瞬間に「語りうる私」が立ち現れるからだという理解だったからですが、ん?ウィトゲンシュタインの言う「語りえぬもの」とは、経験命題以外ということで、語りうるのは経験命題のみですね?つまりは、語りうるものは二値での真偽判定が可能なものであり、語りえないものとは、それ以外の論理的命題になるということでしょう。ですので多分ですが論考においては、論理的命題は排除されているという理解です。
全く内容を知らないままに書いてみますが、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」は興味深い表現ですね。「語りえないものは、語れない」のトートロジーのはずが、「沈黙しなければならない」と続きます。不思議な表現だと感じます。経験命題の二値での縛りが、この言葉を生み出しているように感じました。
> >この場合語っているのは、常住的な私(語りうる私)ですね。
> そうではないんです。 > 例えば、 > 私は語る > =私は言葉を語る > として、これを、次と類比してみてください。 > 稲妻は閃光を放つ
> 言葉もまた、私の表象なのです。 > つまり、 > 私は私の言葉である > ということです。
私が見た稲妻が閃光を放ちました。 私が見た稲妻が閃光を放ちました。と私は語りました。 つまりは、私も私の言葉である。
ん?私とは表徴である。では? 却下ですね?(笑) 言葉も、私の表象であり、それも又、言葉である。と。 詰めれば当たり前に「言葉」になるということでしょう。で、「私は言葉である」とのザビビのふくろうさんの解釈により「私は私の言葉である。」との結論に至るとの私の理解です。
視点を変化させてみると「私は私の言葉である」と当たり前に見る(解釈する)ことは可能なようですね。
> あれれ? 到達してしまいましたね^^ > 誘導尋問?(笑)
ザビビのふくろうさんの理解として、もしも私への誘導尋問が一応にでも成功したのではないかな?と思われたのであれば、これにて終了としていただいて結構かと思います。多分ですが、私にはこれ以上二値の世界観での完全理解は難しいと感じました。後は、書籍を実際に読んでの私なりの★解釈(理解)とするしかないように思います。ありがとうございました。
うーん。気まぐれさんの時と同じく著書を読む前にお話ししていただきましたが、個人としての感想的には、やはり、私にとっては経験命題(二値での縛り)がネックになりそうです。(笑)
後もう一つ、機会があればお尋ねしたかったことがありますので、お時間があるときにでもよろしくお願いします。
時として宗教哲学や仏教哲学といった表現を目にしたりするのですが、特に哲学の世界でいう「仏教哲学」とは、どのような内容を指しているのでしょうか?大まかにでも簡単にでも教えていただければ幸いです。というのも、私にとっての仏教は、哲学ではないのですね。単なる思想の一つなのです。
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