| floraさん、初めまして。 レスをありがとうございます。 私は中学生のとき、ホームズ作品全編を読破したホームズファンでもありましたので、 田秋さんのトピでの、floraさんが撮影されたと思われるベーカー街221番地Bの写真を見て、お〜っ、と思っておりました^^ この住所かドイルのところか忘れましたが、たしかホームズ探偵譚が執筆されていたころ、彼が実在の探偵と信じた人から仕事依頼の手紙が届いた、というような話を読んで、ワクワクしていたことを懐かしく思い出しました。 **************** >デカルトのcogito, ergo sum, これはデカルト本人の表現ではなく、デカルトのフランス語を訳者がそのようにラテン語に訳したということですね。 ここのsumが今お話になられている或るという動詞に当たると思います(ラテン語では動詞の変化に主語が含まれる)
そうらしいですね。もとのフランス語 「je pense,donc je suis」 で考えたほうが、たぶんデカルトの意図をよく示しているのではないかと思います。 主語がきちんと書かれていますので(私はラテン語も仏語もわかりませんが(;^_^A)。
>デカルトはEgo(自分)があるのは「あーだこうだと考えている自分だけは存在する」と言っているのでしょうか? そうすると自分=自分の思考でしょうか? >まったく素人で申し訳ないのですが、長年理解できずにいることで、お力をお借り出来れば幸いに思います。
私も専門家ではありませんが、私が勉強した限りで、答えさせていただきます。 哲学の常でいろいろな解釈はあると思いますが、一応代表的な解釈になろうかと思います。 また、わかりやすさを優先しますし、能力的にも正確さに欠けるかもしれませんが、ご了承ください。
「デカルトはEgo(自分)があるのは「あーだこうだと考えている自分だけは存在する」と言っているのでしょうか? そうすると自分=自分の思考でしょうか?」
このように疑問を書いてくださったんですが、いまひとつfloraさんの腑に落ちないポイントが正確にはわかりませんので、とりあえず、一般的な説明をさせてください。実は前にも、こういう説明を別の掲示板で何度か行ったことがあり、一部、それを利用します。
まず、いわゆるデカルト的懐疑はよろしいでしょうか? 彼は本当に確実だと言えるものを求めて、真理だと思われているもの、確実だと思われているものすべてを疑った。これはいわゆる思考実験です。 そうして現実だと思われているものすべては夢かもしれない、今風?に言えば、映画「マトリックス」的に、ひょっとするとすべてコンピュータに見せられている幻にすぎないかもしれないと疑うことができ、確実と言えるものは何一つないかに思われた。自分の身体でさえ、幻かもしれないわけだから。 ところがその懐疑の果てに、「私は考えている(je pense)」ということだけは、疑い得ない、不可疑であるということを見出したわけです。 これ、私も昔、実感したときけっこうおもしろかったので、floraさんにもちょっと実際にやってみていただきたいのです。これはおそらく、デカルトの思考の追体験になるかも、と思います。
「私は今考えている」と、我々は考えることができますね。 floraさんも、実際に今、頭の中で、このように考えてください。 「私は今考えている」「私は今考えている」「私は今考えている」「私は今考えている」… 考えましたか? で、「私は今考えている」と考えているとき、この事実が偽(間違い)であると考えられるでしょうか?
次のように質問を言い換えてもいいでしょう。 「私は今考えていない」が真(本当)であると考えられますか? 実際に、 「私は今考えていない」 と繰り返し、頭の中で考えてください。 「私は今考えていない」「私は今考えていない」「私は今考えていない」「私は今考えていない」「私は今考えていない」…
この自分の思考「私は今考えていない」が、正しいと考えられますか。 この「私は今考えていない」という文が、真でありうると考えられますか。 考えられないはずです。 「私は今考えていない」 といくら頭の中で考えても、これは偽であることが自分にはわかるはずです。 だって、これが夢の中であろうと、「私は今考えていない」とまさに今“考えている”からです。 つまり、どう考えたって、 「私は今考えていない」という命題は、偽でしかありえない、すなわち、 私が今考えていることは、絶対に真でしかありえない、不可疑である、というわけです。
ということで、 私は今考えている の真をデカルトはめでたく樹立したわけです。 このことは、現実と思っている世界が夢であろうが、自分がVRゲームのモブキャラであろうと、何であろうが関係なく成り立ちます。仮に自分の体が存在しなくたって、自分が考えている限り、この「私が考えている」ということを疑うことは不可能ということです。
そうすると今度は、次のように考えることは論理的に全く自然ではないでしょうか。 すなわち、「私が考えている」が真理なら、当然、「考えている私がいる」も真理である、と。 なぜなら、考えている私がいないのなら、私が考えている、ということも成立のしようがないから。 たとえば、「私は走っている」が真だと仮定しましょう。 この、「私は走っている」ということ自体は確実とは言えません。そう思っていたとしても夢かもしれないわけですから。 しかし、真であると仮定したら、当然、「走っている私が存在する」も真だろう。私が存在しないのなら、私が走っているということは成立しようがないから。 ところが「私は考えている」は実際に自分が考えている限り偽ではありえない、すなわち真なのですから、当然、考えている私が存在する、と言えるはずです。 「私は考えている」 ⇔ 「考えている私は存在する」
ここにはある推論が働いています。 少し詳しく説明します。 私がアリストテレス論理学云々といったのは、ここに関わるのですが、 西欧の思考は、その言語の「主語―述語」という文形式を範型にして、事物の在り方を捉えていました。たとえば、 「この花は赤い」 は、主語の指示対象である“この花”、これが基体(実体)であり、 この基体(実体)の“この花”が、述語「赤い」の意味する属性「赤い色」を有する、という捉え方。 つまり、基体(この花)に、属性(赤い色)が属する という形式で、事物の在り方を捉えていたわけです。 主語―述語 ∽ 基体―属性 ∽ この花―赤い色
このこと自体は、要するに、「(実体としての)物が、何等かの性質を有している」ってことだな、というふうに理解すれば、そんなに不自然ではないと思います。
それで、この範型で「私は考える」を捉えると、 “私”という基体(実体)が、“思惟”という属性を有している というふうに解釈できるわけです。 したがって、次の推論が可能になるはずです。 「この花が赤い」が真なら、「赤いこの花(基体)が存在する」が真でなければならない」 「私が考える」が真なら、「考える私(基体)が存在する」が真でなければならない。
このようにして、デカルトは「考える私」、いわゆるデカルト的自我の存在を導いた、と解釈できるのです。
[簡単なまとめ] 直感的・シンプルに、まとめておきます。 「今自分は考えている」「今自分は考えている」「今自分は考えている」… と考えているとき、このことが偽であると、すなわち「今自分は考えていない」と考えることは不可能である。 すなわち、自分が今考えている限り、このことは疑い得ない。。 よって、考える自分(=私)は存在する!
こんな感じでいかがでしょうか。 後に、いろんな哲学者に批判されますが、 それなりに十分面白いと私は思います。 だって、普通に考えて、 自分が考えているとき、自分が存在しないなんて考えられるでしょうか? 「私は存在しない」「私は存在しない」「私は存在しない」「私は存在しない」 真だと考えられますかね?
floraさんは、どうお感じになられたでしょうか。
なお、以上の解釈は、『方法序説』の議論に基づいています。 参考になれば幸いです。
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