| 「存在とは何か?」という問題を考察する哲学の分野は存在論と呼ばれる。 これは,ときに形而上学と同一視されることもある,認識論,価値論とともに,いわば由緒正しい哲学の中心的分野である。 ここでは,この問いに解答を与えようとするのではなく,この問い,つまり「存在と何かに答えること」,すなわち「存在とは何かを定義すること」について,若干の考察を行う。言うまでもなく,前提として,「定義」を「言語的定義」に絞るものとする。
「存在とは何か?」に対する解答は、これが「存在」の本質を問う問いであることに対応して、「〜とは…である」という形式の定義、いわば被定義項の本質を語る形式の定義を予想・要求している。 このことについて、二つの視点から,述べてみたい。 まず,考えるべきは,そもそも「存在」をこのような形式で定義することは可能なのか?ということである。実際,ギリシャの昔から存在は定義できないとされてきた。というのは,存在とは「ある」(be動詞)で表されることがらだが,「存在とは〜である」と定義したら,もうそこに「ある」が含まれざるをえないので,循環定義にしかならない,というわけだ。もちろん,これは荒すぎる議論だが,的は捉えている。というのも,言語によって定義するのであれば,言語の有意味性は前提とならざるをえない。そして,もし,言語が有意味であるとき,「存在」という概念の有意味性が既に前提されているなら,やはりその意味で循環定義になるからだ。 また、「〜とは…である」という語る形式の定義、これは通常本質規定とされるが、明らかなのは,すべての概念をこの形式で定義することはできない,ということだ。定義される語(被定義項)と,それを定義する言葉(定義項)がある。その定義に使用した言葉も定義するとなると,無限後退せざるを得ない。したがって,どこかに無定義で置かれ,そこから他のすべての概念を定義するような,そんな無定義概念が出発点として幾つかは必ず必要である。事実,そのようにして,数学の公理体系は構成されている場合がある。 ここから得られる教訓は、その概念が言語にとって根本的、本質的であれば、この語る形式の定義では目的を果たせない、ということだ。 しかし、この語る形式の定義ではない定義、例えば再帰的定義(帰納的定義)と呼ばれる定義であれば、循環を避けることが可能である。これはいわば「本質を示す定義」と解釈できる。そこで、数学や、論理学ではこの定義が用いられている。『論考』はこうやって、言語の本質、すなわち世界の本質を示そうとしたのである。
もうひとつ。「〜とは…である」という形式の語る定義の問題点。 「私とは何か?」と言う問いをアリストテレス的名辞論理学の存在論(物的世界観)を前提にして答えようとするとき、「私」の指示対象としての実体(基体)である自我が措定されることになった。 同じように「存在」の意味を、「存在とは何か?」と文から切り離して問う場合、いわばあらゆる「ある」に共通する意味としての“存在”があるということが前提、ドグマとなってしまう。 しかし、西欧語の存在を表すbe動詞には「である」と「がある」とがあって、これらに共通する「ある」の意味といったところで、これらをもともと区別している我々日本人には違和感があるだろう。 つまり、この形式で本質を問うことは、それだけで或るドグマを前提することになってしまうのである。 しかし、フレーゲが生み出した論理学の言語では、名辞ではなく命題、つまり文が基本単位となるので、そのため、「がある」と「である」はもちろん、同一性や集合の所属関係、包含関係など、自然言語の「ある」に対応する様々な論理的概念の差異を明示できるようになり、その上で存在命題の意味として、その意味が定義されることになったのである。 そして、二値命題論理の言語から、非古典論理まで拡張された現代論理学の言語までを前提すれば、より一般的な回答が与えられる可能性もあるだろう。そのような研究が現在行われている。しかし、当たり前だが、それはやはり、きちんと勉強しなければ理解は困難だろう。
以上、長々と述べてきたが、結局論理学がわからないので、よくわからない、ということに終わったかもしれない。 要するに、「存在とは何ぞや」に直接的答えを求めることは、残念ながらないものねだりの「儚き夢」であり、答えられるはずだと思うのは、単なる思い込み、ドグマにすぎない、ということである。
生と死を分かつ瞬間についても、同様のドグマ。
そうか。哲学はこういったドグマ、迷妄を払ってスッキリできる、ってことは言えるな。 ふむ、役に立つじゃん。
|