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■17827 / inTopicNo.97)  ふにゅ ?
  
□投稿者/ pipit -(2021/10/21(Thu) 16:48:35)
    昔、自分が自分を見ることについて、
    車の運転を例えにしてたっぽい話を聞いた覚えがあって、

    高速道路を走ってる時など、上から自分の車を客体視した意識が生じてる、みたいな。

    自分は車に乗ってて、実際に見えてる風景は運転席からのものだけど、
    意識には俯瞰図?みたいな把握の仕方も生じてるみたいな。

    お話、うろ覚えだけどなー。

    もし、二重の(対象の)生じ方が、あるとして、
    その時、(二種の対象を)生じてる存在(主体)をどこに置くか、という問題も出てくるのかなぁ。


引用返信/返信 削除キー/
■17818 / inTopicNo.98)  Re: 語り得ず示しうる
□投稿者/ おくたがわ -(2021/10/21(Thu) 11:59:12)
    No17566に返信(おくたがわさんの記事)
    この投稿の最後の一行を先に提示します。
    もしかしたら、この件について私には何もわかっていない可能性があります…。


    「語り得ぬもの」の一つが論理形式である、という件で、論理哲学論考の関連部分を読んでみました。『』内は光文社の丘沢静也訳から取っていますが、訳文のままとは限りません。

    現在のところの私の理解。
    諸々の対象(事物・事柄)が「事態」を織り成している。その事態の中で諸対象が関係しあう仕方が「構造」。そして、どういった構造が可能であるかをきめているのが「形式」。
    空間という形式であれば、諸対象の位置関係が「構造」でありうるし、「音」という形式であれば高低や時系列的順番などが構造でありうる。

    そして、
    『2.034 事実の構造は、諸事態の構造からなりたっている。
     2.04 現実になっている諸事態の総体が、世界である。』

    一方、なんらかのオブジェクトを写し取ったものが「像」だが、例えば事態や事実を写した像において、事態における対象(事物・事柄)に対応し、それを代理するのが像の要素(エレメント)である。

    像において、諸要素が関係しあう仕方を構造と呼び、その可能性を像の写像形式と呼ぶ。
    像の写像形式と像が写し取る相手における形式は一致していなければならない。

    『2.17 像がそのやり方で--正誤いづれにせよ--現実を写しうるために、現実と共有しなければならないもの、それは写像形式である。』

    つまり事態・事実の中での諸事物の関係(の可能性)が、それを写した像における要素間の関係(の可能性)に一致する。

    『2.181 その写像形式が論理形式なら、その像は論理像と呼ばれる。』
     2.19 論理像は世界を写像できる。
     2.2 像は、それが写像した相手と論理形式を共有している』

    ***********

    論理形式は語り得ず示され得る、とはどういうことなのか。

    『2.171 像は、どんな現実でも写しとれる。その現実の形式を像が持っているかぎり。空間的な像は空間的なものならなんでも。色に関する像は色に関する物ならばなんでも。
    2.172 しかし像は、自らの写像形式を写すことはできない。提示するだけである。
    2.173 像はそのオブジェクトを外側から表出する。(像の立脚点が表出形式である)。そうして像はオブジェクトを正しくまたは間違って表出する。
    2.174 しかし像はその表出形式の外に立つことはできない。』


    以下は現段階における私の理解です。

    オリンピックの競技を表現したピクトグラムにおいては、現実のその競技の1シーンにおける事物の位置関係という構造と、二次元の画像上の諸要素の位置関係という構造が対応するという形で形式が共有されている。
    このピクトグラムはヨット競技のシーンを、その共有形式を用いて語っている。一方で共有形式自体は語られるのではなく端的に示されているだけである。共有形式については、この形式の外に立たなければ語ることはできないので、ピクトグラム自体が語ることはできない。

    同様なことが言葉による像=言明や命題についても言える。

    ********
    しかし、ピクトグラムの形式について上述のように言語で説明はできる。つまり、よりメタな言語で語ることはできる。
    よって言葉による命題の論理形式についても、よりメタな言語で語ることはできるだろう。

    ところが、解説によると、ウィトゲンシュタインは像が共有する論理形式についてメタな言語で語ることを拒否した。とのこと。
    この理由は私には分かりません。
    今現在、一応
    メタな言語で語るとき、その言語にも特有の写像形式があり、それについては、さらにメタな言語で語らねばならない、しかしその言語にもまた…… といった無限後退を拒否したのか
    という一つの想像。


    これだけ書いておいて
    以下は身も蓋もないことですが、
    日本語なら日本語という言語で事態を表現した言明
    例えば「犬が西を向いており、その尾が東を向いている」という言明について、
    事態と共有する形式を、同じ言語内で語れない
    ということが、自分にはピンときていません。

    つまり、もしかしたら、私には何もわかっていない可能性があります…。


引用返信/返信 削除キー/
■17817 / inTopicNo.99)  Re[1]: 音の行間
□投稿者/ おくたがわ -(2021/10/21(Thu) 11:52:21)
    No17585 に返信(田秋さんの記事)

    長く返事できなくてすみませんでした。

    > 基本的に物語の行間を読むのと同じだと思います。例えば主人公が電車の車窓からの景色を(心の中で)語っているとします。その時主人公はその景色を見て何を思っていたのか?それを想像するのが行間を読むことの一つだと思います。景色の描写に主人公の心の揺らぎをどう埋め込むか?作家の腕の見せ所ですね。
    >
    > 行間を読むマニュアルはないと思います。それぞれが感じることがそれぞれの体験で、それで良いのだと思います。

    すみません言葉足らずでした。たとえば、作曲家がその曲を作った時に大失恋をした後で、その思いが曲に込められている。といったエピソードがある場合、それは読解の材料になるのかどうかというようなことを考えていました。完全素人の私の感覚では、そういう情報が入るのは純粋(?)でない気がする、とか。
    お返事からすると、景色の描写自体に作り手の思いが埋め込まれているべきはずで、従って、音楽ならば手がかりは楽譜自体のみでいい、となるでしょうか?

    > マニュアル無しで思い思いに読んでもみんな感じたものが同質だったとしたら、作品(作家)も読み手も良質の感性を持っている、ということなのでしょうね。

    田秋さんが書かれていたように、具体的なものを意味しない「行間を読んで」という指示で、望ましい結果がもたらされる=意味が通じるのですね。

    ウィトゲンシュタインの「言葉の意味は使用にある」の好例なのではと思いました。言葉自体に対応する意味があるのではなく、それを使って齟齬が生じない/望ましい結果が生じる、そのことで言葉の意味やルールが共有できていると判断される、という。

    さらに作り手と読み手の感性の判断まで至ると、ウィトの、その社会において言語なりルールを共有できていると見なされる、ということの(さらにハードルの高い)例になるのかなと。

引用返信/返信 削除キー/
■17772 / inTopicNo.100)  田秋版掲示板ポリシー
□投稿者/ 田秋 -(2021/10/19(Tue) 21:46:16)
    書かれた人が不愉快に感じるようなことは書かないようにしましょう、たとえそれが優しさや親切心から出たとしても。

    自分がそう言われたら嫌だなあと思うことは他人に対しても書かないようにしましょう。

    こちらはニークラのポリシー
    3.自分が安全圏(匿名)にいながら特定人物に対する誹謗中傷はもちろん、憶測や邪推、不確かな情報をもとに無責任なことを言わない。
引用返信/返信 削除キー/
■17498 / inTopicNo.101)  つぶやきトピ「ドゥーシウムクトゥー」16
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/12(Tue) 22:18:28)
    トピ主:なんさん(NIETZSCHE WONDERLANDの共同制作者の一人)
    「ドゥーシウムクトゥー」

    沖縄の方言で、なんさんによれば、ドゥーは貴方、シウムは思う、クトゥーは述べる、「貴方が思うところのことを述べなさい」とのことです。

    人の意見がどうだとか、常識がどうだとか、そんなことより自分のアイデンティティーを持つことが需要という意味も含まれるらしい。

    軽口、戯言、愚痴、文句、ストレス発散などなど思ったことを気軽に独り言の如くカキコして下さい。レスを付けるか、付けられたレスに返信するかしないかも自由です。

    但し、ドゥーシウムクトゥーは「自分で思うこと、ちゃんとした言葉になる前の思想と思索にまとまる前の自分の中でつぶやき」も含まれるとのことなので、その人の見解や意見と同じであるとは限りません。
引用返信/返信 削除キー/

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