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■17899 / inTopicNo.85)  夢だとしても。
  
□投稿者/ みのり -(2021/10/23(Sat) 06:59:21)
    宇宙がそもそもなせ存在するのか、なぜ宇宙はそもそもあるのか、私たちはなぜいるのか。
    こうしたことは誰にもわからない。
    もしかしたらだけれど、夢、幻想なのかもしれない。
    そうでは絶対にない、とも言いきれない。

    しかし、私たちがいる、と感じているのは間違いなくって。
    そうしたなかで、喜んだり悲しんだりしているのは間違いない。
    だから、最初に書いたような数々の疑問は、そう深刻に考えずともいいものなんだと私は思っている。(あくまで私は)
    一種の娯楽みたいなものだとも思うのだ。

    もしかしたら夢、幻想かもしれない「生」を楽しんだり悲しんだりして、でも、皆で基本楽しく生きていけたらいいな〜。
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■17895 / inTopicNo.86)  遅ればせながら、投稿文の訂正です。
□投稿者/ 時 -(2021/10/23(Sat) 03:40:42)
    遅ればせながら、約1年ほど前の投稿文の訂正です。

    No.6295
    > 九次第定(初禅・第二禅・第三禅・第四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)ですが、この最初の方には四禅定がありますね。そして続く、空無辺処、識無辺処、無所有処・・・と止瞑想が進むと、最終的には想受滅に至ると言う事ですね。これができれば、心解脱です。

    No.6383
    > 倶解脱=慧解脱+心解脱(九次第定のマスター) です。先に書きましたが、心解脱単独で行が終了することはないと思います。ですので、単独で”心解脱”との記載がないのだと思います。

    他にもありそうですが、上記は、当時の私の理解が間違っていましたので、訂正します。

    解脱の種類は、倶解脱、慧解脱、心解脱です。

    倶解脱(諸無色界に身をもって触れて住し、智慧をもって見るので諸漏が滅尽)
    慧解脱(諸無色界に身をもって触れずに住し、智慧をもって見るので諸漏が滅尽)

    ですが、ここでの違いは、諸無色界に身をもって触れて住するか住しないかという違いです。そして倶解脱単体では、

    段階的な倶解脱(初禅到達時に慧により了知し、段階的に非想非非想処まで身によって触れて住し、慧により了知する)完全な倶解脱(想受滅に到達して住し、諸漏は智慧によって見られ、滅尽する)といった記載により、段階的な倶解脱では、四禅定の初禅から九次第定の非想非非想処までの処に身をもって住しつつ、その処を慧により了知します。そしてその倶解脱が完全なものとなると、九次第定の最終である想受滅に達して住しつつ、慧により漏尽にいたります。

    慧解脱単体では、
    段階的な慧解脱(初禅到達時に慧により了知し、以降、段階的な慧解脱)であり、完全な慧解脱(想受滅に到達して住し、諸漏は智慧によって見られ滅尽する)といった記載により、段階的な慧解脱では、四禅定の初禅到達時から以降の各処、九次第定の非想非非想処に至るまでを慧により了知するということでしょう。そして、完全な慧解脱としては、想受滅に到達し、慧により漏尽にいたります。

    結果としては、完全な倶解脱(想受滅に到達して住し、諸漏は智慧によって見られ、滅尽する)と完全な慧解脱(想受滅に到達して住し、諸漏は智慧によって見られ、滅尽する)という2つの完全版は同じ境地を違う視点による表現をしたものと思われます。

    「スシーマ経」に登場する慧解脱のみの比丘は、おそらくは、上記表現による段階的な慧解脱者ということになると思われます。ですが、慧解脱は慧解脱ですので、これで十分でしょう。たぶん、四禅定をマスターした比丘だろうと思います。

    倶解脱と慧解脱には、それぞれ段階的なものと完全なものの記載があるようですね。

    最後に、心解脱の目的としては不死があり、その種類としては、無量(広大)なる心解脱、無所有なる心解脱、空性なる心解脱、無想なる心解脱とあります。

    無量なる心解脱(四無量心の各解脱)、無所有なる心解脱(無所有処に達して住す)、空性なる心解脱(林野、樹の根、空き家へ行って、これは、我としても我所としても空であると深慮する)、無想なる心解脱(全ての相への不作意により無相なる心の定に達して住す)との記載により、不死の境地の到達という意味では、十分に理解できそうです。

    仏陀の教えは、多くの事柄や境地が対機説法等で絡み合っているようで、一つの文章での説明が私には不可能なように思いました。

    心の平安の境地の獲得といったものとはあまり関係ない内容になりましたが、遅ればせながら訂正しておきたいと思います。以上です。
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■17859 / inTopicNo.87)  語り尽くせない
□投稿者/ 田秋 -(2021/10/22(Fri) 08:05:21)
    多分音楽家はバッハの音楽を《語り得ないもの》と捉えているのではなく《語り尽くせないもの》と捉えているのだと思います。ですからあらゆる音楽家が語りに語り、語りまくっています。そうじゃないともし「語り得ないものについては沈黙する他ない」ということだったら非常につまらない世界になってしまいます。

    では、何故音楽家が《語り尽くせないもの》と感じているのかというと、それがあまりにも大きく、余りにも深いからです。そういう意味ではウィトゲンシュタインが言う「語り得ないもの」とは違う捉え方をしているように思います。彼の「語り得ない」には「大きい」とか「深い」という付加的条件は付かないのだと思います。

    便宜的にバッハさんに登場してもらっていますがベートーベンさんでもハイドンさんでもモーツァルトさんでも同じです。

    それにしてもバッハさん、一生に書いた曲数を考えると1曲にそう長い時間はかけていないと思うのですが、それで何故これほどのものが書けたのか?全く信じられないことなのですが、一つ思うのは主への帰依(仏教以外にもこの言葉使えるのかな?)による強い信念があったからなのかなあと思ったりします(だから迷わずホイホイ書けた???)。

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■17856 / inTopicNo.88)  Re[7]: ふにゅ ?
□投稿者/ flora -(2021/10/22(Fri) 01:51:44)
    No17830に返信(田秋さんの記事)
    田秋さん、pipitさん、悪魔ちゃん、横失礼します〜

    > 言語学を勉強していると、動詞が中心にあってそれに対して主語とか目的語があるみたいですよ。

    私も関心があったので、こちらの人に聞いてみたんですが、やはり「基本的には」センテンスには動詞がないと動きがないのでセンテンスにならないようです。もちろん文学者たちが文学的な表現のためにそれを崩すということはありますが。

    ラテン語なんか面白いですよね。
    皆さんがよく話題にする、Cogito ergo sum、cogitoとsumは動詞ですが、その動詞の中に主語も時制も含まれているんですよね。つまり動詞を変化だけで、主語(一人称/二人称/三人称/単数/複数)そして時制までもが分かってしまう・・・ Cogito ergo sumの場合なら一人称単数、現在形と分かってしまいます。そういった意味でも動詞が中心ですね。


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■17850 / inTopicNo.89)  Re[9]: ふにゅ ?
□投稿者/ 田秋 -(2021/10/21(Thu) 22:58:08)
    こんばんは、悪魔ちゃん

    はっきりとは書いてないんだけど、言語学の講義を受けてるとどうも動詞を中心に組み立てているような気がする。
    誰が見たんだ?何を見たんだ?みたいな。。。

    そ、ソシュールは言語学者だよ。音とか図形で意味を伝えるものを記号と言い、言葉も《意味》、《音》、《図形(文字)》を持っているので記号の一種で、意味を「シニフィエ」、音や図形を「シニフィアン」と名付けました。後は難しいので略。

    昔は比喩というのは言語学の中心ではなかったのだけど最近はもっと重要なものと捉えていいるようです。直喩、暗喩、換喩、提喩とかあるんだけど、これを厳密な論理学で使えるかどうかはわからないけど(ボクがわからないだけ)、ファジーなものを厳格に操つれたら面白いなと思います。
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■17849 / inTopicNo.90)  はるか昔の
□投稿者/ pipit -(2021/10/21(Thu) 22:09:37)
    高校生のとき
    意識があるのは確かやけど、意識の内容が本当のことかどうかわからないと、時々、思ってた。
    すべて幻やったら(肉体があるということも含めて、意識以外のあることがすべて幻やったら)、と、考えて、へこんでた時(泣いてたかなー)があったけど、
    でも、わたしのこの悲しいや嬉しいの感情は、幻じゃないなー、と、思ってた。
    直知の対象やと思ったんやね。

    仏教を知って、すごく面白かった。

    人間の分析として五蘊というのがあるっぽかった。五蘊は、色・受・想・行・識。
    色(物質)はちょっと微妙にしても、
    受(感じてること)
    想(思考、概念)
    行(意志、心の衝動)
    識(意識、心)
    は、ああ、直知やなぁと、自分の感じてることをみながら、知れると思った。

    物質も、こういうことか、と、直知することが可能かもと思い出してる。
    名色分離智、という言葉もなんとなく気になってる。

    自分で知れたら嬉しいなー。


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■17842 / inTopicNo.91)  Re[8]: ふにゅ ?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/21(Thu) 19:21:40)
    ■17830、
    >言語学を勉強していると、動詞が中心にあってそれに対して主語とか目的語があるみたいですよ。<
    田秋さん、<動詞が中心にあって>っていうの、なんかわたしも好み。

    「言語学」っていうのわたし知らなかったんだけど、そっち方面もおもしろそう。
    ソシュールっていう人、言語学者だったけ?

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■17832 / inTopicNo.92)  田秋さんへ
□投稿者/ pipit -(2021/10/21(Thu) 18:16:17)
    No17830に返信(田秋さんの記事)
    > こんにちは pipitさん
    >
    > 言語学を勉強していると、動詞が中心にあってそれに対して主語とか目的語があるみたいですよ。
    >
    > SubjectとがObjectが主語、目的語という意味でないのでしたら、スマソ。
    > まるでお門違いの話ですた m(_ _)m

    田秋さん、こんばんは!
    動詞が中心、というの、おもしろく感じました。

    サブジェクトが主体、で、オブジェクトが対象 として先程のわたしの投稿では考えていましたけど、
    動詞(見る)が中心で、主語と目的語、でも同じ(?)ですね。

    書き込みありがとうございます!
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■17831 / inTopicNo.93)  アートポットさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/10/21(Thu) 18:11:24)
    No17829に返信(アートポットさんの記事)
    > ヤングジャンプコミックでは、上から(高い位置から)自分を見ているもうひとつの視点を「達観」ていうって学びました。
    > 仏教的には、どうなんでしょう?

    アートポットさん、こんばんはー(o^^o)
    達観かぁ、実際に『見える』のかなぁ
    いろいろ考え出すと不思議ですよね、考えない方がいいのかなって思うこともあるし。。。
    今日もこちらは寒くなりましたよ!
    かぜなどにお気をつけてくださいねー
    (^O^)/
引用返信/返信 削除キー/
■17830 / inTopicNo.94)  Re[6]: ふにゅ ?
□投稿者/ 田秋 -(2021/10/21(Thu) 17:30:47)
    こんにちは pipitさん

    言語学を勉強していると、動詞が中心にあってそれに対して主語とか目的語があるみたいですよ。

    SubjectとがObjectが主語、目的語という意味でないのでしたら、スマソ。
    まるでお門違いの話ですた m(_ _)m
引用返信/返信 削除キー/
■17829 / inTopicNo.95)  Re[6]: ふにゅ ?
□投稿者/ アートポット -(2021/10/21(Thu) 17:23:10)
    ヤングジャンプコミックでは、上から(高い位置から)自分を見ているもうひとつの視点を「達観」ていうって学びました。
    仏教的には、どうなんでしょう?
引用返信/返信 削除キー/
■17828 / inTopicNo.96)  Re[5]: ふにゅ ?
□投稿者/ pipit -(2021/10/21(Thu) 17:09:18)
    サブジェクト と オブジェクト の 関係ってどんなかんじなのかなぁ。。。

    (・・?)
引用返信/返信 削除キー/

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