| >「こうしないと」が自分には分かりませんでした。
これはすべてのものに神が内在しているというよりも、すべてのものはすべてを包含する神の一部であるという考え方である。
これはでンね、「すべてのものに神が内在している」とすると、すべてのものと神は同等になってしまいまッしゃろ。 そこで、神を常に上位に置くために「すべてのものはすべてを包含する神の一部である」としたわけだと思いまンねん。 神は常に最上位者であると言う、信条や思想に関係のない(彼らのとっての)揺るぎない事実を歪めないためでおマスわねー。
すべてのものと言うと、糞と神は同等なんて事にもなりかねまへん。 そりゃ、殺されマンがな。 もっとも、仏教では糞と仏が同じものであっても問題ないんでおマスがねー。
>全ての網羅は不可能なので「必然的に〜」「全ては〜」といった全称的な結論は導けない。 >そして、網羅できない部分(未来も含め)も同様であろうという推測は「自然の斉一性原理」をよりどころとするが、それ自体が常に成立するという保証が無い。ということでしょうか。
今までの経験でそうだったからといって、全部そうだと決めるのは早計と言うもんでッしゃろ。 まあ、演繹しているわけではないんで、論理が全部ひっくり返るわけではないんでおマスがね。
>帰納法によって導いた前提が帰納法の正当化に使われるという循環になる、ということでしょうか?
その通りでおます。
>という流れが見事だと思いました。
いや〜、なんだか照れまンね。
>より大きい調和の中の部分的な、あるいは変遷過程としての不調和という話があったと思いますが、 >ある不調和が不要で有害なものなのか、時を得ればむしろ意味のあるものだと分かることはないのか。早計に解釈を限定して物理化学的に処理するのでなく、様子を見ながら全体の調和を図っていく方が有効で危険が少ないことがあるように思います。素人意見ですみませんが。
いやいや、その通りでおマス。 セッソーが思うに、そもそも、運動するものの調和というのは不調和のコントロールのようなもので、静止したような調和では運動になりまへんからねー。 この辺りはカオスのストレンジアトラクターなんかが、そういう状態を現しているんじゃないかとおもーておりまンねん。 よく、整体やカイロなんかでは、身体が歪んでいると言いマンが、そもそも身体は歪んでおるのが当たり前なのでおマス。 だから、利き足とか利き手とかがあるわけで、いつでも素早く足が出せるのは、身体の方が転倒するような状態を保っているからでンね。
>あと、誤植の発見が割と得意なのですが、そういうのは不要ですか?
是非、よろしくお願いいたしますでおマス。
正法無常宗祖師 沙門転法(/\)南無一切無常絶対超越真理
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