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■3857 / inTopicNo.61)  Re[24]: 実践理性批判
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/11(Sat) 19:52:19)
    こんばんは、ピピットさん。

    No3846に返信(pipitさんの記事)
    > 完全解読に、『実践理性批判』もあったんですね!!
    > いまはまだ手が出せないけど、実践理性批判に進むとき、買おうと思います!!
    > 情報のきっかけをありがとうございます(o^^o)

    どういたしまして。

    > ニーチェやパニチェさんや竹田さんの言う通りの可能性も大きそうだな、と、
    > パニチェさんのコメント読んで思いましたけど、
    > とりあえず、私の中では保留にしておきますね。

    > いろんな解説書で、チラホラと、神より道徳実践の方が実は比重置かれてるみたいに
    > 思える記事を見る気もするので、まあ、神様万歳、のほうが真実かもだけど、
    > ちょっと置いときますね。

    それがいいです。そそ、自分の目で確認し、解釈するに限ります!^^

    > 石川文康先生の『カント入門』から抜粋引用してみますね。
    > 『この書の(第一版)序文で、カントは二度にわたって、「道徳は不可避的に宗教にいたる〔通じる〕」と述べている。
    > しかし同じ序文のほぼ冒頭で、彼は、道徳は自己充足しており、道徳が道徳として存立するために「宗教をまったく必要しない」、とも言っている。
    > 一見、ここには不整合がひそんでいるかのように見える。
    > なにしろカントの道徳論は、(略)、文字どおり徹底して「自律」の原理の上に成り立っているのである。
    > (略)
    > したがってそれは、道徳に対して何らかの条件を指定するのではなく、
    > かえって宗教に対して、その存立を決定する不可欠の条件を指定するものである。
    > すなわち、宗教は道徳という条件を満たしてはじめて宗教であり、
    > この条件を満たしていないかぎり、いくら宗教を自認しても、
    > それは宗教の単なる僭称にすぎず、すなわち仮象宗教、偽宗教だという意味である。
    > (略)以上のことから、カントの言う宗教とは道徳宗教のことであり、
    > しかも道徳は理性の上にきずかれるべきものであるから、それは同時に
    > 理性宗教にほかならないということがあらかじめ帰結される。』
    > p217.218

    > この後、神の存在の要請についても石川先生の考えが述べられてますが、
    > いったん、ここで投稿しますね。
    > また後ほど、その部分を引用しようと思います。

    引用ありがとうござました。

    > パニチェさん、ありがとうございま〜す(^O^)/♪

    どういたしまして。

引用返信/返信 削除キー/
■3892 / inTopicNo.62)  Re[26]: 純粋理性批判
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/12(Sun) 19:36:54)
    pipitさま
    悪魔ちゃん的に言うね。

    カントの言う「アプリオリな綜合判断」って、ニーチェの言うように、
    人間の「一つの能力」にすぎない。

    minoriさまが問いかけたように、乳幼児にには適用できない。
    だから、カントの「総合的判断」は、アプリオリじゃなくて、
    アポステリオリな綜合判断に限られてる。

    あ、勘違いしないでね。アポステリオリには価値がるのかもしれないけど、っていうことだからね。

    誰かが「素朴実在論を信仰する人々は、超越論的観念論に非科学的というレッテルを貼ってきたが、現代科学は、超越論的観念論と親近性をむしろ強めている。」
    みたいなこと言ってるみたい。彼の言う「素朴実在論」っていうのがどういうのかわかんないけど、カントの「超越論的観念論」っていうのは超越論的科学的なものであって、非科学的なものじゃない。むしろ科学者にとってはたのもしい哲学者の論。
    わたし、素朴的意識の実在論、経験的実在論ね。あ、ことわっとくけど、ながいのいう「素朴実在論」っていうのはわからない、が前提よ。




引用返信/返信 削除キー/
■3899 / inTopicNo.63)  神の存在の要請
□投稿者/ pipit -(2020/07/12(Sun) 21:52:16)
    みなさまこんばんは。

    後で引用しますと言ってた箇所を引用します。

    『カント入門』石川康文先生.ちくま新書、p217〜220
    カントの考える最高善についての記述からの抜粋引用です。
    石川先生の文章です。
    『(略)完全な幸福とは、世界において理性的存在者が一切を意のままになしうる状態を言う。わかりやすく言えば、世界のために自分があるのではなく、自分のために全世界がある状態である(略)。
    しかるに、もともと世界はわれわれの願望や計画で創造されたものではない(われわれは世界の創造者ではない)。
    したがって、それは現実には不可能である。
    加えてまた、すでに十分見たように、道徳法則自体には徳と幸福を結合する根拠は含まれていなかった。
    徳の研鑽は幸福を約束しないのである。
    それでもなお、理性は依然としてわれわらに最高善の促進を命じている。
    ゆえに、理性が自己矛盾におちいらないためには、最高善はどうしても可能でなければならない。
    そのことから理性はみずから、世界の創造者にして、同時に徳と幸福の結合の根拠を含む存在者、すなわち神の存在を要請する。
    このように、最高善の概念を介して、道徳は必然的に宗教にいたる。
    幸福への希望とともに宗教は始まるのである。
    その意味で、純粋理性こそが信仰の源である。
    このような純粋理性に源をもつ信仰は、現存するどの信仰とも異なるものである。
    カント自身、それを「まだ普通にもちいられていない概念」と弁えつつ、「純粋実践理性信仰」と呼んだ。
    その意味では、カントは単に宗教について論じただけでなく、また既存の宗教を批判しただけでなく、理性宗教というまったく新しい宗教をみずから提唱し、それを基礎づけたと言うことができる。
    ひとつだけ注意しなければならないのは、「要請」とは理性の言葉で「信仰」を表現したものだということである。純粋理性こそが信仰の源だからである。したがって、それは神の存在証明ではないということである。(略)

    抜粋引用終了

    この石川先生の解説を、私は、

    人間の理性が神の存在を措定した。
    と、捉えてしまうのですが、

    そして、ニーチェに絡めて言うと、
    もともと人間が措定した信仰してきた対象としての神概念は、
    ニーチェの時代には信仰されなくなってしまった、
    ととらえてしまうのですけど、

    また少しずついろんなことを実物を読んでいけたらいいな、と思いました。



引用返信/返信 削除キー/
■3900 / inTopicNo.64)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/12(Sun) 22:10:26)
    こんばんは!

    No3892に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > pipitさま
    > 悪魔ちゃん的に言うね。
    >
    > カントの言う「アプリオリな綜合判断」って、ニーチェの言うように、
    > 人間の「一つの能力」にすぎない。<

    一応カントの言い分だと、
    人間の持つ能力によって、アプリオリな綜合判断が可能だ、って言ってるんだと思ってるよ。
    だから、人間の能力にすぎない、というのは、カントもそう言うと思ってるよ。


    > minoriさまが問いかけたように、乳幼児にには適用できない。<

    カントのアプリオリは、生まれつきという意味ではなくて
    根源的獲得、という意味合いみたい。
    獲得、ってあるでしょう?
    どこから獲得するのか。神から?経験から?
    カント的には自分自身の能力から、自ら獲得する、ってしてると私は今の所思ってるの。
    だから、幼児はまだ、自分の持つ能力から、総合判断を可能にするアプリオリな概念を引き出してない、手元に使えるように獲得してない、と考えられるのかな?
    まあ、あー言えばこー言う。
    屁理屈こねれる領域になるかもだね。
    不毛に感じる時もあるよ。
    哲学者たちは自らの知に誠実だからどこまでも真剣に考えていくのかもしれないけどね。


    > だから、カントの「総合的判断」は、アプリオリじゃなくて、
    > アポステリオリな綜合判断に限られてる。<

    > あ、勘違いしないでね。アポステリオリには価値がるのかもしれないけど、っていうことだからね。<

    アポステリオリでも十分魅力的だよね。


    > 誰かが「素朴実在論を信仰する人々は、超越論的観念論に非科学的というレッテルを貼ってきたが、現代科学は、超越論的観念論と親近性をむしろ強めている。」
    > みたいなこと言ってるみたい。彼の言う「素朴実在論」っていうのがどういうのかわかんないけど、カントの「超越論的観念論」っていうのは超越論的科学的なものであって、非科学的なものじゃない。むしろ科学者にとってはたのもしい哲学者の論。
    > わたし、素朴的意識の実在論、経験的実在論ね。あ、ことわっとくけど、ながいのいう「素朴実在論」っていうのはわからない、が前提よ。<

    ながい、って永井均さんのこと?
    悪魔ちゃん、もしかして〈わたし〉に興味あるのかな?
    またそういうことも悪魔ちゃんと話せたら嬉しいな。
    私は永井さんの本はほとんど読んだことないんだけど、
    掲示板やネット記事や本で名前をよく聞くよ。


    > わたし、素朴的意識の実在論、経験的実在論ね。<

    あーいいね、
    素朴的意識の実在論。
    悪魔ちゃんのオリジナル語?
    現前のフツーにある意識から実在を探っていくの?
    違うこと?

    ちなみに経験的実在論は、カント哲学を表現するときにも使うかも。
    カントは自分の説は、超越論的観念論であり、また経験的実在論でもある、
    みたいに言ってた覚えがあるよ

    悪魔ちゃんさん、ありがとね!

    ふと、カントの認知症のこと思い出して、
    宿題さんも遊びに来てくれるといいねー(^ν^)


引用返信/返信 削除キー/
■3909 / inTopicNo.65)  pipitさんへ
□投稿者/ minori -(2020/07/13(Mon) 10:05:30)
    pipitさん、おはようございます。

    > カントのアプリオリは、生まれつきという意味ではなくて
    > 根源的獲得、という意味合いみたい。
    > 獲得、ってあるでしょう?
    > どこから獲得するのか。神から?経験から?
    > カント的には自分自身の能力から、自ら獲得する、ってしてると私は今の所思ってるの。
    > だから、幼児はまだ、自分の持つ能力から、総合判断を可能にするアプリオリな概念を引き出してない、手元に使えるように獲得してない、と考えられるのかな?


    この部分、私も同じように了解して先に進もうと考えていました。
    もともと脳のなかに時間感覚を感じる萌芽みたいなものがあって、それが生後の成長と経験を経る中でさらに機能するようになる、ということなのかな、って。
    感性の形式は、空間と時間の枠組みを通じて行われる、というようにカントは言っている、というのを押さえておけばいいかな、と。


    人間に見えている世界だけが正しいものとは限らない、と考えると不思議だしおもしろいですよね。
    虫が見ている花はこんなふう、みたいな画像を見たことがありますが、それもまた人間の認識フィルターを通じて見ているもの、と言えなくもないです。

    意識だけが実在であり、それぞれに現れているものは人間が描くイメージなのだ、と言う人(たち)もいて・・・
    その人たちからすれば、人の死というのもイメージなのだそうです。
    ただ。イメージであろうと、そのイメージの中では「生きているし死んでいく」ので、命を粗末にしたりはけしてしない、ようですけど。
引用返信/返信 削除キー/
■3916 / inTopicNo.66)  minoriさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/13(Mon) 17:18:23)
    こんにちは!

    これから読んでいくつもりなんですけど、
    悪魔ちゃんさんに引用してもらった中島義道先生の文章の中に以下のものがあります。

    『カントの問題をやや普遍化して言い換えるならば(別の語り方ではなく)「物の空間・時間的配置ならびに運動を記述することによってのみわれわれが世界を客観的・統一的に語ることができるのはなぜか」という問いに関わることが「超越論的」なのである。これは、今日なお大きな問いであろう。物理学が世界を記述し尽くすことができないことは明らかであるが、別の仕方で世界をより客観的・統一的に語ることができるわけでもない。客観的・統一的な世界記述を求める限り、やはりわれわれは時空における物の配置と運動に着目する以外の仕方ないのだとすれば、それはなぜなのか。この問いに関わることが狭義の「超越論哲学」である。〕』

    主観しかないわたしたちが、その主観から共有しようとすると、
    ある基準データならかろうじて、語り合うことができる。
    100メートルを15秒で走る。ということなら、その『知』に含まれる一部は
    かろうじて、共有もどきであろうとも、話を合わせられる。

    厳密には主観しか直知できない私たちの、共有、をつくる能力を、人間の能力に注視して、探求しているのが、カントの『純粋理性批判』かなと思っています。

    これに関連してなのですが、まだ未勉強ですが、
    この優れた能力ゆえに人間には尊厳がある、と、もしカントが考えてるなら、
    そこは私は同感しないところです。
    その論理でいうと例えば認知症になったら、その人の尊厳は危うくなるし、
    動物の尊厳も成り立たないのではないか。
    こう思う人はたくさんいて、だから、
    『ぼけたカントに理性はあるのか』みたいなタイトルの本を出されたりするのだと思います。
    その著者の方はお医者様で、認知症の方の尊厳も大切に考えられてるのだと思います。


    意識かぁ。
    意識は本当に不思議ですよね。

    私にはわからないこといっぱいです。

引用返信/返信 削除キー/
■3919 / inTopicNo.67)  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/13(Mon) 17:47:51)
    こんばんは!
    『純粋理性批判を読んでみる。6』の102番目のコメントを
    書き込んでもらってありがとうございます。
    講演動画見ました。
    めちゃめちゃ興味深かったです!(◎_◎;)
    んー不思議。。。。。

    見ることができてとても嬉しいです、ありがとうございます!!

    『純粋理性批判を読んでみる。6』の102番目に投稿していただいたパニチェさんの記事のコピペです。↓↓↓


    No3605に返信(pipitさんの記事)
    > 書こうかどうか迷ったんだけど、、、
    > つぶやきぎみに、、、文字小さくなるといいんだけど、、、
    > 瞑想で経験できる世界にもあこがれてしまう、、、
    > でも、わたしのなかのこれは、中学生が超能力にあこがれるようなあさはかさで
    > きっと、こういう気持ちは、リスクも含んでるんだと思う、、、
    > パニチェさんはいろいろ知識としてもわかられてるんだと思う
    > 、、、つぶやきでした m(._.)m

    参考までに以前に引用した投稿が見つかりましたのでコピペしておきます。
    著者のジル・ボルト・テイラーは世界的な脳科学者(ハーバード大学で脳神経科学の専門家として活躍していた女性)で、37歳に脳卒中で倒れ復帰するまでの記録です。

    *****以下、『奇跡の脳』からの引用*****

    P.53
    左脳がこれまで支配していた神経線維の機能が停止したので、右脳は左脳の支配から解放されています。知覚は自由になり、意識は、右脳の静けさを表現できるように変わっていきました。解放感と変容する感じに包まれて、意識の中心はシータ村にいるかのようです。仏教徒なら、涅槃(ニルヴァーナ)の境地に入ったと言うのでしょう。

    P.96
    左脳は自分自身を、他から分離された固体として認知するように訓練されています。今ではその堅苦しい回路から解放され、わたしの右脳は永遠の流れへの結びつきを楽しんでいました。もう孤独ではなく、淋しくもない。魂は宇宙と同じように大きく、そして無限の海のなかで歓喜に心を躍らせていました。自分を流れとして、あるいは、そこにある全てのエネルギーの流れに結ばれた、宇宙と同じ大きさの魂を持つものとして考えることは、わたしたちを不安にします。

    しかしわたしの場合、自分は固まりだという左脳の判断力がないため、自分についての認知は、本来の姿である「流れ」に戻ったのです。わたしたちは確かに、静かに振動する何十兆個という粒子なのです。わたしたちは、全てのものが動き続けて存在する、流れの世界のなかの、流体でいっぱいになった嚢(ふくろ)として存在しています。異なる存在は、異なる密度の分子で構成されている。しかし結局のところ、全ての粒は、優雅なダンスを踊る電子や陽子や中性子といったものからつくられている。あなたとわたしの全て微塵を含み、そして、あいだの空間にあるように見える粒は、原子的な物体とエネルギーでできている。

    わたしの目はもはや、物を互いに離れた物としては認識できませんでした。それどころか、あらゆるエネルギーが一緒に混ざり合っているように見えたのです。視覚的な処理はもう、正常ではありませんでした。(わたしはこの粒々になった光景が、まるで印象派の点描画のようだと感じました)

    P.175
    この体験から、深い心の平和というものは、いつでも、誰でもつかむことができるという知恵をわたしは授かりました。涅槃(ニルヴァーナ)の体験は右脳の意識の中に存在し、どんな瞬間でも、脳のその部分の回路に「つなぐ」ことができるはずなのです。

    ************* 引用終わり ***********

    講演動画:ジル・ボルト・テイラーのパワフルな洞察の発作
    https://www.ted.com/talks/jill_bolte_taylor_my_stroke_of_insight?language=ja#t-363552
引用返信/返信 削除キー/
■3921 / inTopicNo.68)  日記
□投稿者/ pipit -(2020/07/13(Mon) 18:16:08)
引用返信/返信 削除キー/
■3924 / inTopicNo.69)  ピピットさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/13(Mon) 18:22:26)
    No3919に返信(pipitさんの記事)
    > こんばんは!
    > 『純粋理性批判を読んでみる。6』の102番目のコメントを
    > 書き込んでもらってありがとうございます。
    > 講演動画見ました。
    > めちゃめちゃ興味深かったです!(◎_◎;)
    > んー不思議。。。。。

    > 見ることができてとても嬉しいです、ありがとうございます!!

    それはよかったです。私も動画があるのは知りませんでした。
    やっぱ、説得力がありますね。^^

    > 『純粋理性批判を読んでみる。6』の102番目に投稿していただいたパニチェさんの記事のコピペです。↓↓↓

    コピペありがとうございます。

引用返信/返信 削除キー/
■3928 / inTopicNo.70)  Re[18]: カントをディスるニーチェ
□投稿者/ おくったがわ -(2020/07/13(Mon) 19:08:31)
    No3796に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    こんばんわ。
    ニーチェのカント批判の引用おもしろいです。

    >>「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるか」とカントは自問した。――そして彼は果たして何と答えたか。一つの能力によって、と。しかし残念ながら、この簡潔な言葉をもってではなく、むしろあんなに廻りくどく、勿体らしく、かつドイツ語的な深意と虚飾癖とをもってしたので、そういう答えのうちに潜む愉しい《ドイツ語風の愚かさ》は聞き洩らされてしまった。

    >> 「何故にかのような判断に対する信仰が必要であるか」という他の問いによって補充すべき時である。――すなわち、われわれの如き種類の生物を保持する目的のためには、このような判断が真理として信じられなければならないことを理解すべき時である。

    ニーチェの意図は違うのだろうと思いますが、
    カント自身の書くところでは、意義のある形而上学が可能でなければならない。そのためには、アプリオリな綜合判断が可能でなければならない。
    というのが動機かと思います。
    経験によらず(形而上)+知識を拡張できる(綜合判断)ーそのような学問

    >> しかし一体これは答えであるか。説明であるか。或いは、却って問いの繰り返しにすぎないのではないか。果たして阿片はいかにして眠らせるのか。「一つの能力によって」、すなわち《催眠力》によって、――とモリエール*の作中の医者は答える。

    (答えになってるのか、証明になってるのか? と自分も感じることはあるけれど、批判できるほど把握してない(泣


    >わたしが気になってるのは「一つの能力」っていうところ。
    >カントは人間の或る一つの能力を”発見した”って、ニーチェは言ってるんだと思うんだけど、これはいったい何?っていうことね。

    アプリオリな綜合判断を可能にする能力とすると、  
    空間や時間という形式(純粋直観)によって物自体の世界とは別に、認識の対象である「現象」を実現する能力
    となるかな と思いました。これはpipitさんにも確認してみます。
引用返信/返信 削除キー/
■3930 / inTopicNo.71)  独裁者?
□投稿者/ 田秋 -(2020/07/13(Mon) 19:56:59)
    pipitさん、こんばんは。

    pipitさんの少し前の書き込みに

    >カント入門』石川康文先生.ちくま新書、p217〜220
    >カントの考える最高善についての記述からの抜粋引用です。
    >石川先生の文章です。
    >『(略)完全な幸福とは、世界において理性的存在者が一切を意のままになしうる?状態を言う。わかりやすく言えば、世界のために自分があるのではなく、自分のために全世界がある状態である(略)。

    というのがありましたね。この最後の部分「自分のために全世界がある状態である」ですが、何か独裁者の理想形のように感じたのですが、、、カントさんがそう仰ってるのですか?

    石川さんの筆の運びは後で神さまを引っ張り出すための無理な布石のようにも見えます。

    文意の捉え方が頓珍漢だとしたらすみません・・・m(_ _)m

引用返信/返信 削除キー/
■3931 / inTopicNo.72)  Re[33]: 理性という神秘
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/13(Mon) 20:14:57)
    ■3900
    pipitさま、ありがとうございます。
    カントの、よく知ってますね、すごい。

    わたし、メルロ=ポンティ派。
    で、彼の書物を読んで理解しようとしてるんだけど、そのなかにデカルトやカントについて書いてあるところがあって、でもカントのを知らないとメルロのもよくわからない。そこでカントのをいろいろ調べているところです。でもわたしには彼の本を読む余裕はないです、いまのところメルロの世界でていっぱい。

    <カントのアプリオリは、生まれつきという意味ではなくて根源的獲得、という意味合いみたい。>
    ありがとうございます。やっぱ哲学者によって用語の意味が異なってる。

    pipitさまの、<自分自身の能力から、自ら獲得する、ってしてると私は今の所思ってるの>っていうとこ、カントがそう思ってたのかどうかは別として、minoriさまとおなじように?わたし、賛成。

    ■3899 、読みました。
    カントの、なんとなく見えてきた感じかな、でもわたしのこの感にいつ裏切られるかわからないけど。
    カントの「理性」っていう用語、どんな意味で使ってるのかな〜?

    わたしも「私」について考えたことある。
    「私とは何か?」って聞かれたら、わたしのばあい「私とは自分自身のこと」って答える。「じゃ、自分自身とは何か?」って聞かれたら「自分自身とは・・・」って答えてゆくんだけど、長くなるからやめときます。
    ちなみにわたしは、
    「わたし」、「私」という表言で両者を区別してます。

    素朴的意識の実在論、経験的実在論――っていうの、わたしのオリジナル語じゃないです。
    メルロの『行動と構造』の訳注にこんなことが書いてありました。

    〔カントにとっては、〈空間〉と〈時間〉とは人間精神の主観的構造に属するものであり、感性(=対象受容の能力)が働く場合の基本形式である。したがって、それらは認識主観を離れた〈物自体〉の性質や関係ではない。そこで空間、時間は、われわれに〈経験〉されるいっさいのもの(=現象)に関しては客観的であり、空間、時間のなかに存在しないような対象は、経験のなかにないことになる。その意味で、それらは〈経験的実在性〉を持つと言われる。が、他方、それらがわれわれの感性を離れて実在するものではないとすれば、経験を超えた実在性は持たないわけであり、そのことが空間・時間の〈超越論的観念性〉と言われるのである。そこでカントは、自分の立場が観念論ではあるにしても、それはあくまでも〈超越論的〉観念論であって、〈経験的〉観念論ではない、と主張している。メルロ=ポンティは、カントの用語をかりて、素朴的意識の実在論は、〈経験的〉実在論であって、〈超越論的〉実在論ではない、というわけである。〕

    哲学における「〜論」っていうの、なんかややこしくって、いまいち明確に捉えられてないけど、わたしメルロ派、彼のをちょっと使ってみたかっただけ。

引用返信/返信 削除キー/

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