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■20326 / inTopicNo.97)  Re[90]: メモ
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/08(Sat) 20:20:44)
    ここまでのをメモっとく。

    1.話すこと(表現すること)によって私の思ってることがはっきりする、ということ。
    2.話す主体が存在している、ということを忘れないようにしとくこと。
    3.あと、メルポンは、
    【言語の最初のおもかげを探し求めるとすれば、与えられた世界に人間的な世界を重ねる情緒的な身振りのなかに求めねばならないだろう。】って言ってるから、言葉という身振りには情緒も含まれてるっていうこと。


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■20333 / inTopicNo.98)  Re[91]:   ふと
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/09(Sun) 09:53:12)
    メルポンのわたしので、ふと思ったのを、

    X.
    a「Xを“対象として”見る」という仕方
    b「Xを全体性のなかにおいて見る(ゲシュタルト的見方)なかで、“Xそのものうちで”見ようとする」仕方

    このような区別、メルポンのわたしにが浮かんできてる。
    bの「全体性」っていうのは、生活世界の、私の生において、実存私の世界との素朴な触れ合い――etre au monde――世界における(への)存在――という全体性のなかで、って、こんな感じの。

    ことわっておくけど、このように区別すること、どちらの方法がいいかわるいか、っていうことじゃないからね。志向のちがいが見えただけ。

    「ゲシュタルト」なんだけど、
    メルポンは『行動の構造』のなかで、
    【もっとも、問題は、多くの仮説のなかからあえて一つの仮説を試みることにあるのではなく、一つの新しいカテゴリー、「ゲシュタルト」というカテゴリーを導入することにあるのであって、それこそは無機物の領域にも有機体の領域にも適用されて、生気論的仮説をかりなくても、神経系のなかに「横の機能」−―すでにウェルトハイマーが述べており、また観察によってもその存在が確かめされている――を出現させうるものなのである。というのは「ゲシュタルト」や特に物理的系というものは、孤立した諸部分がもつ特性の総和とは異なる特性をもった全体的過程として――もっと正しくは、その諸「部分」をひとつひとつ比較すれば、それらは絶対的な大きさにおいて異なっているにもかかわらず、全体としてみれば相互に区別できない全体的過程として、言いかえれば、〈移調可能な全体〉として――定義されるからである。たったひとつの部分に変化がおこってもそのたびみ系全体の特性が変わるとか、また反対に部分がすべて相互に同時に関係を保ちながら変化するばあいには、系の特性もそのまま維持されてるところには、どこでもゲシュタルトが存在すると言われよう。この定義は、神経現象にふさわしいものである。これまでみてきたように、そこでは反応の各部分を部分的条件に帰することはできないし、また一方では求心的な興奮相互のあいだに、他方では運動流相互のあいだに、そしてさらにそれらの両者のあいだにも、相互作用や内的連関があるからである。】
    って言ってる。

    コトバンクで「ゲシュタルト」は、
    〇 (Gestalt 「かたち」の意) ゲシュタルト心理学の基本概念。部分からは導くことのできない、一つのまとまった、有機的・具体的な全体性のある構造をもったもの。形態。
    〇《形態・姿などの意》知覚現象や認識活動を説明する概念で、部分の総和としてとらえられない合体構造に備わっている、特有の全体的構造をいう。形態。
    〇…たとえばメロディを1オクターブ上げても同じ感じを抱くように,〈要素の単なる結合ではなく,それとはある程度独立した新しいもの〉,すなわち〈形態質Gestaltqualität〉の存在を指摘した。[ゲシュタルト心理学]より
    こんな感じの。なんか「構造主義」に関連してる感じ。

    忘れないうちにと思って。


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■20334 / inTopicNo.99)  Re[92]:   ふと
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/09(Sun) 11:36:29)
    No20333のつづき、

    いま「言葉」を問題としてるから、

    X=言葉
    a「言葉を“対象として”見る」という仕方
    b「言葉を全体性のなかにおいて見る(ゲシュタルト的見方)なかで、“言葉そのものうちで”見ようとする」仕方

    ってなる。
    メルポンのはbの方でだと思う。科学的思考はaに入るんかな。
    「言語学」は、コトバンクによると〔人間言語を対象とする科学的研究〕って書いてあるから、aになるんだと思う。

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■20337 / inTopicNo.100)  Re[93]: 言葉は意味をもっている
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/09(Sun) 14:44:49)
    Yのなかの【言語は意味をもっている】というところのを書き写して見ます。

    【ところが実は、経験主義的もしくは機械的心理学と、主知主義的心理学との間の、血縁関係の存在に、今再び注目しなくてはならないのである。前者の主張から後者の反論に移ったからとて、言語の問題は解決するものではない。先ほどは語の発生、語心像の復活ということが本質的であった。今やそれらは、真の呼称と内的な作用としての本来の発言の、外被以上のものではない。とはいえ、この二つの考え方は、いずれにとっても語が意義をもっていないという点で、一致している。第一の考え方においてこの点は明白である。というのは、それによれば語の喚起はいかなる概念によっても媒介されず、与えられた刺激もしくは「意識の諸状態」が神経機構の法則もしくは連合の法則に従って語を呼び起こすことになり、したがって語はその意味も内的な能力ももつことなく、客観的な因果の戯れによって呼びさまされる、心的、生理的、いや物理的とさえいえるひとつの現象、他の諸現象と並ぶ一つの現象にすぎないからである。呼称に範疇的作用を重ねたからといって、事情は変わらない。語は依然としてそれ固有の効力を奪われている。なぜなら、このたびは語は内的な再認の外的な記号にすぎないし、この内的な再認は語が伴わなくても成立することが可能であり、したがって語はそれに何の貢献もしていないからである。語の背後に範疇的作用があるのだから、それは意味を剥奪されてはいない。しかしそれは意味をもってはいない。所有してはいないのだ。意味をもっているのは思惟だけであり、語は依然として空虚な外被にすぎない。それは単なる調音的・音声的現象にすぎないか、あるいはこの現象の意識にすぎない。しかしいずれにせよ言語は思惟の外的付随物以上のものではない。第一の考え方は有意味なものものとしての語の手前にとどまっている。第二の考え方はその向こう側に立つ。前者には語るひとというものがなく、後者には、なるほど主体はあるが、これは語る主体ではなく考える主体である。言葉そのものに関しては主知主義は経験主義と殆ど変わらない。そしてこれと同様、自動現象による説明なしですますことはできない。範疇作用がいったんおこなわれても、それをしめくくる語の発言ということが、依然として説明されねばならない。語は生気のない単なる外被だから、この説明は再び生理的、もしくは心的メカニズムによることになる。それゆえ、語は意味をもつという単純な注意によって、経験主義と同じように主知主義も超えられる。】

    ここんところを見ていく

    「意義」なんだけど、コトバンクで調べたら、
    @ 言葉などの表現によってあらわされる意味、内容。
    A 言葉、事柄、行為などが現実にもつ価値。ねうち。多く、重要なものをいうのに用いる
    ってあった。
    わたしのばあい「意味」っていうのを〈概念・価値・理由〉をまとめてそう呼んでるから、わたしのうちでは「意味」のうちに「意義」を含めて見ている。

    ここでも経験主義と主知主義の、メルポンの見えが書かれてあるけど、わたし経験主義、主知主義のがそうなのかわかんないから、これは横においとくとして、メルポンのを見つけだすことにする。

    【第一の考え方】は【経験主義的もしくは機械的心理学】、【第一の考え方】は【主知主義的心理学】のことだと思う。

    長くなりそうだから分けて
    つづく

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■20338 / inTopicNo.101)  Re[94]: 言葉は意味をもっている
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/09(Sun) 15:09:42)
    No20337のつづき。ちょっと訂正、「主知主義的心理学」は「第二の考え方」ね。

    「言語は意味をもっている」っていうの“あたりまえ”のようにわたし思えるんだけど。

    【所有してはいないのだ】とか【言語は意味をもつ】っていう【もつ】っていうの、
    No20308にあるような意味で「持つ」を見た方がいいのかも。
    「ある」――「言語は意味がある」っていうんじゃなくて、
    「もつ」――「‥‥においてある」(etre a ‥‥)あるいは「引き受ける」(assumer)(私は私の身体である、私はわたしの生である)という実存的な意味において用いている。のように見る、っていうことね。
    メルポンのはこういうところがあるのね〜。あ、これは横に置いといて。

    簡単に見ちゃうね

    (1)経験主義的心理学 →語るひとというものがない。
    (2)主知主義的心理学 →主体はあるが、それは「語る主体」ではなく「考える主体」である。
    (3)言葉そのものに関しては主知主義は経験主義と殆ど変わらない。
    (4)両者の考え方は、「語が意義をもっていない」という点で一致している。
    (5)呼称(名を呼ぶ)に範疇的作用を重ねたからといって、事情は変わらない。語は依然としてそれ固有の効力を奪われている。語の背後に範疇的作用があるのだから、それは意味を剥奪されてはいない。しかしそれは意味をもってはいない。所有してはいないのだ。
    (5)自動現象による説明なしですますことはできない。範疇作用がいったんおこなわれても、それをしめくくる語の発言ということが、依然として説明されねばならない。
    こんなことをメルポンは言ってるんだと思う。

    メルポンのわたしの

    「範疇作用」っていうのをわたし〈分類作用〉とか〈カテゴリー化〉ってして見てる。
    わたし、〈人(私)は世界を分類し、分類されたものに名(語)を付ける〉ってしてて、この働きを〈分類作用〉って見てる。〈名を付ける〉までが分類作用ね。

    メルポンは【それをしめくくる語の発言ということが、依然として説明されねばならない】って言ってる。だから、〈分類作用〉だけでなく、名づけられたその語を〈発語する〉ということを含めて「言葉」見ているっていうことなのかな。

    こうして見ると、
    No20319で見たような、「言語は思惟を成就する」とつながってくる。
    でもこういう大人っぽいのも、原初的な世界で“すでにおこなわれている”ことを基盤としてなされてるって、メルポンはいってるんじゃないかしら。
    No11345でフッサールが言ってるように、現象学は「匿名的な隠れた働き」「原初的な働き」「についての研究と批判的吟味であり、それがもつあらゆる志向的地平を露呈することなのである」のように。

    No11365
    〈言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見し、これをやぶる身振りを描きだすこと〉によって見えてきたこと――〈言葉のざわめきの下〉ですでに〈分類作用〉はおこなわれ、〈これをやぶる身振り〉として〈発語する〉っていうふうに。
    ここらへんはまた後で見ていくことにする。

    【自動現象による説明なしですますことはできない】っていうのも気になるところね。

    なんか今日は集中してる〜 What 7もここでおわりね。このつづきは8に。

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