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■37069 / inTopicNo.25)  純粋理性批判B179
  
□投稿者/ pipit -(2024/04/10(Wed) 14:02:50)
    みなさまこんにちは、続きです♪
    少しずつ投稿します。

    Thus, if I place five points one after another.... this is an image of the number five.
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■37062 / inTopicNo.26)  日記
□投稿者/ pipit -(2024/04/09(Tue) 22:32:07)
    2024/04/09(Tue) 23:18:58 編集(投稿者)

    No37061
    んー?わからないので、反対から読んでみます...

    > 図式はイメージとは明らかに区別される。<

    うん、これは言ってることは一応わかる。

    >感性の規定における統一を目的とするのであるから、<

    これが理由で、図式とイメージが区別される?

    >しかし、イマジネーションの総合は、単一の直観を目的とするのではなく、<

    イマジネーション(想像)の総合の目的は、単一の直観ではなく、感性の規定における統一を目的にするので、図式とイメージは区別される。

    >図式はそれ自体、常にイマジネーションの産物にすぎない。<

    イマジネーションの産物が図式ではあるのだが、、、

    イマジネーションの目的(の一つとして)、単一の直観。
    図式(Schema)の目的として、感性の規定における統一。
    この目的の違いにより、イメージと図式を区別する。

    感性の規定における統一を目的とする図式とは、
    No36890の経験的概念における例としては、下側の水色の矢印が、イマジネーションの産物である内でも、特定の目的を持つ『図式』という産物、ということかな、と思いました。

    全然違ったらすみません、読み進めてみます
    m(_ _)m

    おやすみなさいー(( _ _ ))..zzzZZ


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■37061 / inTopicNo.27)  Re[12]: 純粋理性批判B179
□投稿者/ pipit -(2024/04/09(Tue) 22:07:37)
    2024/04/09(Tue) 23:15:52 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは!続きです。

    (J. M. D. Meiklejohnさん英訳)
    The schema is, in itself, always a mere product of the imagination.
    But, as the synthesis of imagination has for its aim no single intuition,
    but merely unity in the determination of sensibility,
    the schema is clearly distinguishable from the image.

    (英訳のpipit日訳)
    図式はそれ自体、常にイマジネーションの産物にすぎない。
    しかし、イマジネーションの総合は、単一の直観を目的とするのではなく、
    感性の規定における統一を目的とするのであるから、
    図式はイメージとは明らかに区別される。

引用返信/返信 削除キー/
■37053 / inTopicNo.28)   純粋理性批判B179
□投稿者/ pipit -(2024/04/08(Mon) 16:22:14)
    No37052
    (pipitの感想文)
    > 純粋でアプリオリな概念が私たちにある。
    > カテゴリーにおける悟性の機能として。
    > それだけではなく、
    > その概念には、感覚(内官)の形式的条件→→時間も含まれている。
    > その概念には、カテゴリーの対象への適用を可能とする条件も含まれている。<

    純粋悟性概念に付随する、対象への適用を可能とする条件が、図式なのだというのとが、次の文章で述べられるようです。

    (英訳)
    This formal and pure condition of sensibility, to which the conception of the understanding is restricted in its employment, we shall name the schema of the conception of the understanding, and the procedure of the understanding with these schemata we shall call the schematism of the pure understanding.

    (pipit日訳)
    悟性概念がその使用において制限される、この形式的で純粋な感性の条件を、悟性概念の図式と名づけ、このような図式を用いた悟性の手続きを、純粋悟性の図式論(図式機能)と呼ぶことにする。
引用返信/返信 削除キー/
■37052 / inTopicNo.29)  日記
□投稿者/ pipit -(2024/04/08(Mon) 15:51:56)
    ちょっと、反対に見ていってみます

    No37051

    > そして最後に、純粋なアプリオリ概念は、カテゴリーにおける悟性の機能に加えて、感覚(つまり内的感覚)のアプリオリな形式的条件を含んでいなければならないこと---また、ただその下でのみカテゴリーが対象に適用することが可能となる一般的条件も含んでいなければいけないこと:<

    純粋でアプリオリな概念が私たちにある。
    カテゴリーにおける悟性の機能として。
    それだけではなく、
    その概念には、感覚(内官)の形式的条件→→時間も含まれている。
    その概念には、カテゴリーの対象への適用を可能とする条件も含まれている。

    >対象が私たちに与えられる唯一の方法は、私たちの感性の変容という手段によること:
    <

    感性の変容、、、時間・空間という形式と共に生じる、感性の内容的変容によって、私たちの前に対象が現れる。

    > 我々に与えられるか否か、どのように与えられるか、などの疑問を考慮しなくても、それら(純粋悟性概念)を物自体としての対象に適用することが不可能であること:<

    感性を超えたものとしての物自体が我々に与えられるか、どのように与えられるかなどの考察とは別に、
    純粋悟性概念は感性的対象にのみ適用されるので、物自体としての対象には適用出来ない。

    > その(純粋悟性)概念に、あるいは少なくともその(純粋悟性)概念を構成する要素に、対象が与えられることなしには、純粋悟性概念は全く不可能であり、全く意味を欠くこと:<

    概念と対象のペアで考えると、感性的対象以外の対象と純粋悟性概念はペア不成立で、純粋悟性概念は概念として機能できずに概念としての意味も持てない。

    そんな感じかなー?と思いました。





引用返信/返信 削除キー/
■37051 / inTopicNo.30)   純粋理性批判B178.179英訳
□投稿者/ pipit -(2024/04/08(Mon) 15:29:11)
    全部英訳文を投稿できました!

    No37047-37050

    この英訳文を、pipitが意訳・日訳しました。

    ----------------------------
    (日訳)

    というのも、そこ(超越論的演繹)で明らかにされたのは、以下のこと・・・

    ※※※※※※※※

    その(純粋悟性)概念に、あるいは少なくともその(純粋悟性)概念を構成する要素に、対象が与えられることなしには、純粋悟性概念は全く不可能であり、全く意味を欠くこと:

    その結果、我々に与えられるか否か、どのように与えられるか、などの疑問を考慮しなくても、それら(純粋悟性概念)を物自体としての対象に適用することが不可能であること:

    そしてさらに、対象が私たちに与えられる唯一の方法は、私たちの感性の変容という手段によること:

    そして最後に、純粋なアプリオリ概念は、カテゴリーにおける悟性の機能に加えて、感覚(つまり内的感覚)のアプリオリな形式的条件を含んでいなければならないこと---また、ただその下でのみカテゴリーが対象に適用することが可能となる一般的条件も含んでいなければいけないこと:

    ※※※※※※※※

    ・・・であるからだ。

    ----------------------------
引用返信/返信 削除キー/
■37050 / inTopicNo.31)   純粋理性批判B178.179英訳C
□投稿者/ pipit -(2024/04/08(Mon) 15:23:29)
    and, finally, that pure a priori conceptions, in addition to the function of the understanding in the category, must contain a priori formal conditions of sensibility (of the internal sense, namely), which again contain the general condition under which alone the category can be applied to any object.

引用返信/返信 削除キー/
■37049 / inTopicNo.32)  純粋理性批判B178.179英訳B
□投稿者/ pipit -(2024/04/08(Mon) 15:22:58)
    and, further, that the only manner in which objects can be given to us is by means of the modification of our sensibility;
引用返信/返信 削除キー/
■37048 / inTopicNo.33)  純粋理性批判B178.179英訳A
□投稿者/ pipit -(2024/04/08(Mon) 15:22:24)
    and that, consequently, they cannot possibly apply to objects as things in themselves without regard to the question whether and how these may be given to us;
引用返信/返信 削除キー/
■37047 / inTopicNo.34)  純粋理性批判B178.179英訳@
□投稿者/ pipit -(2024/04/08(Mon) 15:21:54)
    みなさまこんにちは!
    続きですー、、、と思ったら英訳文が投稿できないので、少しずつ投稿してみます

    For we have there seen that conceptions are quite impossible,
    and utterly without signification, unless
    either to them, or at least to the elements of which they consist, an object be given;

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap56

引用返信/返信 削除キー/
■37039 / inTopicNo.35)  ねこケーブルカー日記
□投稿者/ pipit -(2024/04/07(Sun) 15:20:42)
480×640 => 450×600

mike.jpg
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引用返信/返信 削除キー/
■37008 / inTopicNo.36)  Re[5]: 日記
□投稿者/ pipit -(2024/04/03(Wed) 22:51:42)
    2024/04/03(Wed) 22:52:19 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは!
    No36878の続きです。

    After what has been proved in our deduction of the categories, no one, it is to be hoped, can hesitate as to the proper decision of the question, whether the employment of these pure conceptions of the understanding ought to be merely empirical or also transcendental; in other words, whether the categories, as conditions of a possible experience, relate a priori solely to phenomena, or whether, as conditions of the possibility of things in general, their application can be extended to objects as things in themselves.

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap56

    (英訳のpipit意訳・日訳)

    これら純粋悟性概念は、単なる経験的にのみ利用されるか、
    それとも超越論的にも利用されるのか、

    別の言葉で言うと、、、

    カテゴリーは可能な経験の条件として、アプリオリにもっぱら現象に関係するだけなのか、
    それとも、物一般の可能性の条件として、カテゴリーの適用が物自体にまで拡張され得るのかどうか、、、

    我々のカテゴリーの演繹(根拠づけ)において示されことの後では、誰もこの質問への適切な答えに迷う人がいないことが期待される。

    (pipit感想)
    カテゴリーの演繹で、カテゴリーの適用が正当性を持てるのは、経験の条件として用いられるときのみと示したので、読者はもうわかってるよね?
    『カテゴリーは単なる経験的にのみ利用される、換言すれば、可能な経験の条件として、アプリオリにもっぱら現象に関係するだけ。』と答えるのに躊躇する人は、きっといないよね?(カントの期待)
    って感じなのかなーと思いました。
引用返信/返信 削除キー/

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