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■36425 / inTopicNo.85)  Re[16]: つれづれなるままに
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/02/04(Sun) 15:33:45)
    No36424 のつづき
    想像の対象は何?
    たとえば、知覚のように、その対象は「感覚」、みたいに、「これ」っていうのがこれまで書き写した資料の中から探し出せなかったのね。

    振り返って見て、

    No36289の(qs)に、
    〔想像について語れば、その想像・像は意識内容ではなく、志向的対象〕(qs)
    ってある。
    前に、
    No36093(見方X)
    No36172(見方Y)
    のふたつの見方を考えて見たんだけど、
    これ、もういちど整理して見た。

    (qs)をわたしに分かりやすく、
    「想像について語れば、その想像・像は、意識の内容ではなく、意識の対象」(A-qs)
    ってして見た。こうしても意味内容は変えてないと思う。
    「想像・像は意識の対象」っていうことなんだけど、これって「想像の対象は、」とは言ってないよね。
    「意識の対象は想像・像」っていってるのよね。
    で、わたしの見方Xと見方Yでは、この「意識」をどう見るか、っていうのが問題だったのかも。

    見方Xでは、
    ・(A-qs)の、この「意識」っていうのを「想像」として見てた。
    だから、
    「想像・像は、想像の内容ではなく、想像の対象である。」(A-qs-X)
    ってなって、
    ・@ 想像の「対象」は「想像・像」
    ってなって、じゃ、「想像・像」はどこから来てるの?って思って、あのとき書かなかったけど、「記憶」かな?って。
    「想像・像」は〈記憶から提示されたもの〉、ってしたらどうなか?って。

    見方Yでは、
    ・(A-qs)の、「想像について語れば、その想像・像は、」の「その」は「想像」のこと、ってして見て、「その想像・像」を、
    「想像の想像・像」(r)ってして見て。これを、
    「想像によって出来た想像・像」、〈想像-されたもの〉が「想像・像」って見たのね。
    すなわち、想像の「内容」が「想像・像」って。
    でもこうすると、「想像・像は意識の対象」っていうのとなんか違ってこない?って。
    で、この「意識」っていうの、「想像」じゃなくて「別の意識」のことなんじゃないかしら?って思って、
    この「別の意識」を、わたしが前に勝手に想像して名づけた〈自〉ってしてみたらどうかしら?って。
    (この〈自〉っていうの、前にも書いたけど、わたしが名指した意識のある領域のことなんだけど、これについては後で)
    こうして見ると、
    ・A想像の「内容」は「想像・像」
    ってして見てもいいかな?って。
    ってすると、
    No36131の「ファンタスマ」に、
    〔造像における内容はファンタスマと呼ばれる〕
    ってあるから、想像・像=ファンタスマ、っていうことになる。
    ってすると、じゃ、想像の「対象」は、何?ってなってきてるのね。

    あれから、見かたXを、もうちょっと考えて見たのね。
    (r)の「想像の想像・像」の「想像の」っていうのを、(A-qs-X)の「想像・像は、想像の対象である」から、
    「想像の」を「想像の対象である」ってして、「意識」を「想像」ってしたから、
    「想像について語れば、その想像・像は、意識の内容ではなく、意識の対象」(A-qs)
    は、
    「想像について語れば、想像の対象である想像・像は、想像の内容ではなく、想像の対象」
    ってなるのね。なんかこれって自己完結みたいになってるかな?

    (qs)をどのように見る?見方XとY、どちらが正しく見れてる?あるいはこれとは別の正しい見方がある?これ、まだ問題なんだけど、ひとまず、見方Yの方が面白そうなので、こっちの方にしといてわたしの物語り進める。

    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■36424 / inTopicNo.86)  Re[15]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/02/04(Sun) 11:10:40)
    No36355のつづき

    想像の「内容」〈想像-されたもの〉 については、
    No36131の「ファンタスマ」に、
    〔想像における内容はファンタスマと呼ばれる〕
    ってあるから、よく分かんないけど、これにしとく。

    〔たとえば楽譜を読み(視覚的感覚)ながら、メロディーを想像する(音ファンタスマ)〕
    ここんとこ、わたしの見方は、
    楽譜を“読む”、じゃなくて、「楽譜」を“見て”、その〈視覚的感覚〉に(端的な)知覚は志向し、ん〜ん、「それ」を物理的像的に構成されてる、みたいな?そのとき「それ」の(端的な)知覚では、「それ」がそこにある、ただそれだけ。そのように(端的に)〈知覚-されたもの〉からメロディーが想像される。
    こんな感じで見てる。

    超悩んだのは想像の対象・・・

    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■36408 / inTopicNo.87)  Re[14]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/02/03(Sat) 15:43:55)
    No35921で、
    意識の2種類の知性として、〈感性〉と〈考性〉って名づけて見た。〈考性〉っていうのは一般的に「知性」って呼んでるものなんだけど、やっぱ、〈考性〉っていうの一般的には通用しないな〜、って、ずっとひっかかてた。だからといって「知性」ってしてしまうのわたしのばあいイヤなのね。だって〈感性〉だって世界を知るそのひとつの意識の在り方、ってわたし見てるから。
    でね、〈感知性〉と〈考知性〉っていうことにした。
    こういう名だったたら、わたしの思ってる意味通じるんじゃないかな?って。

    意識の世界を知る(あるいは捉える)その仕方は、〈考知性〉――認識(物事を正しく理解し判断すること)的に、概念に、客観的に、述語的に、学的に――だけだけじゃない、っていうこと。
    「生きられた生活世界」のうちでは、このような〈考知性〉より、〈感知性〉の方が、日常の実践のなかでは、より活躍してると思うし、〈考知性〉より先にあるものとして〈感知性〉って、わたしには思えてる。

    ちょっと思いついたから・・

引用返信/返信 削除キー/
■36355 / inTopicNo.88)  Re[13]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/02/02(Fri) 18:39:24)
    わたしの物語りつづける。

    No36322のような見方から、
    No36316を参考にして、
    〈(端的な)知覚〉と〈想像〉、それぞれの志向的「対象」(ノエマ)は、何?
    って。

    *(端的な)知覚の対象
    ひとまず(端的な)は省略するよ。

    〈するもの-知覚〉は、〈感覚〉へ志向し、これが〈知覚-されるもの〉(知覚の対象/ノエマ)となってる。
    〈感覚〉は、「現前(現在)する現実的なもの」――「もの(それ)」の前面(見えてるもの)――が感覚器官によって提示されたもの。
    このような〈感覚〉を、〈するもの-知覚〉が〈知覚-すること〉(知覚の作用/ノエシス)によって、〈知覚-されたもの〉(知覚の内容)が構成される。これって、〈知覚-されたもの〉(知覚の内容)は〈感覚-されたもの〉(感覚の内容)によって構成されてる、って見ることができるのかも。
    No36131の「ファンタスマ」に、
    〔知覚においてその体験された内容が感覚と呼ばれる〕ってあるように。
    結局、〈するもの-知覚〉は、「現実的なもの」を構成している(現在化)、っていうことになるんだと思う。

    こんな感じでいいかな。
    これ、
    No36240で見たように。
    「ものそのもの」と関係してくるんだけど、これ後で。
    あと、
    〈端的な知覚-されたもの〉(知覚の内容)を、「物理的像」とか「知覚像」ってしちゃおっかな?とも思ってる。
    で、
    ひとまず、
    (D)(端的な)知覚の(志向的)対象は、現実的なもの。
      そして、〈知覚-されたもの〉(知覚の内容)は現実的なもの。
    ってしとく。

    図にして見たので、添付しま〜す。

    わたしの問題は〜、〈するもの-想像〉の志向的「対象」は、何?

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引用返信/返信 削除キー/
■36322 / inTopicNo.89)  Re[12]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/28(Sun) 18:51:05)
    No36316
    見直したら(2)ちょっと写し間違えしてた、直しとく。
    (2)知覚は現にここに存在するものとして定立する。
    です。
    で、これに入る前に、
    No36070の、わたしの、整えて見た。

    「ノエシス」=作用  これを〈すること〉ってして、
    「ノエマ」=対象   これを〈されるもの〉ってした。

    〈するもの〉に、xとyがあるとするね。
    それぞれ、〈するもの-x〉、〈するもの-y〉って表わして、
    〈するもの-x〉が〈すること〉を、〈x-すること〉「作用/ノエシス」。(xの作用)
    〈するもの-x〉に〈されたもの〉を、〈x-されたもの〉「内容」。(xの内容)
    〈するもの-y〉が〈すること〉を、〈y-すること〉「作用/ノエシス」。(yの作用)
    〈するもの-y〉に〈されたもの〉を、〈y-されたもの〉「内容」。(yの内容)
    ってする。
    〈するもの-x〉を主体にして、
    〈するもの-x〉に〈されるもの〉を、〈x-されるもの〉「対象」。
    ってする。
    そして、
    〈x-されるもの〉を〈y-されたもの〉、ってして見るのね。
    xの対象はyの内容、
    っていうこと。

    こういうふうに見ていくっていうこと。
    ここんとこ図にして見たので、添付しま〜す。

    No36289の(q,s)に、
    a.〔表象されたものとしての表象内容と表象対象〕とを区別する。
    b.〔表象には表象作用が、想像には想像作用が対応する〕。
    c.〔作用−対象、あるいはノエマ−ノエシスの相関構造〕
    ってあるけど、これてって現象学の「意識の志向性」のことなんだと思う。
    感覚、知覚、記憶、想像、思考、こういうのって意識の働きによって区別して名がつけられたものよね。全部意識っていうこと。そして、それぞれに〈すること〉〈されるもの〉〈されたもの〉がある、っていうふうにわたし見たのね。

    aを見て見ると、
    〈x〉が〈表象〉ね。
    〈するもの-表象〉がいて、
    〈表象-されたもの〉が「内容」。
    〈表象-されるもの〉が「対象」。
    ってなる。
    bを見て見ると、
    〈x〉を〈表象〉、〈y〉を〈想像〉として見て、
    〈するもの-表象〉にはその〈表象-すること〉「作用/ノエシス」があり、
    〈するもの-想像〉にはその〈想像-すること〉「作用/ノエシス」がある。
    ってなってなる。

    「対象」っていうの、「意識の志向性」っていうことから見てるから正確には「志向的対象」っていうこと。

    これからは、こういう見方で見てくことにする。

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引用返信/返信 削除キー/
■36316 / inTopicNo.90)  Re[11]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/28(Sun) 10:15:05)
    No36289については後にするとして、
    わたしの物語り、ひとまず先に進める。
    いまのわたしの物語り、どこまで来たのか、おさらい。

    No36130の(u)にあるような、
    〔想像とは・・・・知覚のこと〕みたいな現象学の見方を、知覚と想像を区別するために〈端的な知覚〉っていうので想像とは区別できるかな、ってしたんだった。〈端的な知覚〉は、狭い意味(あるいは純粋?な意味)での知覚として。広い意味での知覚は、知覚、記憶、想像で出来てるってして見たんだった(現象学では「知覚」っていう語のなかに想像っていうのを含めたいみたいだし)。
    そして、
    No36234で、
    現象学でいう「現在化/準現在化/共現在化」と「知覚」「記憶」「想像」との関係をまとめて、図にして見たんだった。
    大まかなイメージができたところで、
    次にね、
    これまで書き出した資料のなかから、現象学で見ている(端的な)知覚と想像の性格を抜き出して見た。

    (A)(端的な)知覚の性格
    No36130の(t)から、
    (1)知覚は感覚与件を内容とする。
    No36141の(v)から、
    (2) 知覚は現に存在するものとして定立する。
    No36131の「ファンタスマ」から、
    (3)感覚を基盤とする知覚的対象。
      (知覚において体験された内容は感覚と呼ばれる。)
    (4)感覚は実在性と現前を有する。 
    No36191の(w)から、
    (5)現在化は対象が現に現れること、有体的に現前してることを表し、知覚の志向的性格である。

    (B)想像の性格
    No36141ネットの「想像」から、
    (6)現に存在する対象を欠いた表象。 
    No36130の(t)から、
    (7)対象を非定立のまま保持しつづける。
    対象が現前しない。
    (8)No36130の(u)から、
    存在定立の排去
    No36131の「ファンタスマ」から、
    (9)ファンタスマを基盤とする想像対象。
    (想像における内容はファンタスマと呼ばれる。)
    No36141の(v)から、
    (10)対象を無として定立し、現実を超え出る作用。
    (11)意識の非現実化する作用。
    (12)現実世界との交通を遮断して、可能性の世界を開示する能力。
    No36191の(w)から、
    (13)現にない対象を思い浮かべる事態。 

    No36016のメルポンのからは、
    (C)
    (14)想像的なものは絶対的なもののなかで活動します。想像的なものによって、私は絶対的なものとかかわっていることになります。(m)
    (15)想像する力は、あざむく力であると同時に、意識の自由の現れです。意識は想像的なものによってわれわれを現在から解放してくれますが、それは諸事物の外で自らを非現実化する力なのです。(m)

    だいたい書き出せたかな。
    ひとまずこういう作業をして見て、
    こういうのから、(端的な)知覚と想像の性格を簡単に見えるようになるかな?って。

    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■36315 / inTopicNo.91)  Re[10]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/28(Sun) 09:18:45)
    超越論的認識を超越している感性。

    って言ったらカントに叱られるかな?

引用返信/返信 削除キー/
■36289 / inTopicNo.92)  Re[9]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/26(Fri) 18:52:55)
    しばらく、
    No36093
    No36172
    で見たようなの、
    〔想像について語れば、その想像・像は意識内容ではなく、志向的対象であり、〕
    これについて、何度も考えてる。
    ひとまず、これが書いてあるところを再掲しておく。

    【「現象学事典」弘文堂2014】の「想像」っていうところに書いてあるの。

    (q,s)〔フッサールは師ブレンターノを、意識はいつも「〜についての意識」であること、つまり意識の志向性を発見した点において賞揚したが、想像もまた知覚に劣らず志向的意識であると考えた。想像を知覚と認識の中間に位置づけたりせず、知覚と並び知覚にどこまでも近いひとつの表象、つまり像あるいはイメージと見なした。
    [もともとブレンターノにあっては想像も知覚も表象作用としては同じでありながら、ただ表象されたもの(内容)において差異が現れるというのである。その際、表象されたものとしての表象内容と表象対象とが混同された結果、前者の意識内在性、後者の意識超越性という区別が看過された。フッサールはこの点でブレンターノを批判する。]
    想像について語れば、その想像・像は意識内容ではなく、志向的対象であり、意識に超越し、意識がそれを思念し、それを狙う対象である。意識作用は一様ないしは同じであるのではなく、表象には表象作用が、想像には想像作用が対応するはずである。この作用−対象、あるいはノエシス−ノエマの相関構造が想像においても貫けれている。〕
    ([ ]内は前に書き写すの省いたところね。)

    No36070で見たようなのから、これをもう一度見直してるところ。
    もうちょっとすっきり表現できるようになってから、後で発表しようかな?って思ってる。

引用返信/返信 削除キー/
■36247 / inTopicNo.93)  Re[8]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/21(Sun) 18:20:35)
    No36242の、
    田中さんが見てるような哲学的状況の〔言語の問題〕で想い出した。
    わたし、メルポンの、前に見たんだった、って、
    【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】の「第一部身体」のなかの、「Y表現としての身体と言葉(パロール)」のところ。
    あそこでいろいろ書いたけど、
    たとえば、
    No27553
    みたいなの。

    現象学では、「世界」っていうのを「生きられた生活世界」として見て、だから「生きられた生活世界における(への)存在」として私と他者。メルロは、「言語」っていうのもパロール(個人がその意志を表現するために行う具体的な発話行為)ということから見てるだと思う。
    「言語」っていうの、その始まりは他者とのコミュニ―ションのなかで、なのであって、っていうことを言ってるんじゃないかな、って。たぶん「他者は存在しない」ってう人にとっては言語は必要ないんじゃないかしら?
    あと、メルポンは、ほかの身振り(行為・表情・仕草など)と同じように、言葉も(言語的)身振り、って見てる、だったと思う。
    「言語」なんか難い語だけど、けっきょく「お喋り」でいいんじゃないかしら?赤ちゃんは大きくなるにつれ、“自然と”母国語をお喋りできるようになるのよね。これって、アプリオリじゃない?

    って、ちょと思い出したから。

引用返信/返信 削除キー/
■36242 / inTopicNo.94)  Re[7]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/20(Sat) 19:15:22)
    No36240のつづき

    No36191の(w)に、〔他者問題〕っていうのもある。
    これについても話題にすると、広がっちゃうから、横に置くことにしてるんだけど、ちょっと触れとく。

    いま読んでる「ハイデガーと他者の問題」(田中末男)のなかから、
    〔今日の哲学的状況を概観すると、とりわけ言語の問題と並んで他者の問題が主要課題として係争点になっているように思われる。この二つの問題は偶然に並列的に立ち現れてきたのではなく、ある内的必然性をもって登場してきたのだと考えられる。まず相方とも人間存在にとってあまりにも密接に関わっているにもかかわらず、いやむしろそれゆえに従来の哲学的思想において飛び越されてきてしまった問題である。それがデカルトに端を発する近世形而上学の行き詰まりとともに、それを超える道を模索するなかで新たな可能性を秘めた事柄としてあらためて見直されてきたということができる。内容的観点からいえば、近世形而上学は独我論的な超越論的主観性を含むそのアルファでありオメガとするような自己完結性を目指すものであった。しかしその企ての極において、この自己還帰的反省哲学はある反転を経験することとなった。すなわち反省の極限に反省されざるものに遭遇したからである。・・・・・〕
    って書きはじめられてる。

    哲学的状況はこいうふうになってるのね、なんかそうなのかな、ってわたし知った。

    〔アルファでありオメガとするような〕ってあってこれなに?
    で、ウィッキに、
    ・・・・・・
    アルファとオメガ ΑΩ
    ギリシャ文字の最初のΑ(アルファ)と最後の文字Ω(オメガ)が並べており、最初と最後、すなわち「全て」「永遠」という意味をもつ。
    ・・・・・・
    ってあった。

    〔反省の極限に反省されざるものに遭遇したからである〕っていうところ、

    【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】のなかにあった、
    『私はあるとき反省しはじめたのであり、私の反省は、反省されていないものへの反省である。反省は、おのれが出来事であることを、知らないわけにはいかない。それだから反省は、真の創造として、意識の構造における変化として、自己自身に現れる。主観が自己自身に与えられているのだから、主観に与えられている世界を、反省は反省自身の働きの手前にあるものと、認めなくてはならない。』(p6)
    っていうのを想い出してる。

    そこはかとなく

引用返信/返信 削除キー/
■36240 / inTopicNo.95)  Re[6]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/20(Sat) 18:45:59)
    No36234 のつづき――この図を見ながら考えてるよ。

    No36191の(w)のなかに、
    〔たとえば家の知覚において、前面だけの現在化を、背後も内部も調度も住まう人も含む家そのものを構成する準現在化が支えているのである。〕
    ってある。
    こういうのから、わたしが見てるの、だいたいあたってる感じがする。

    ちょとここでわたしが問題してるのは、〔家そのもの〕っていうところ。

    〔経験においては私に現前しているのはあくまで家そのものである〕
    っていうのもある。

    カントの「物そのもの」と比べて見て、現象学では「そのもの」っていうのをこういうふうに見てるっていうところが違うとこかな?
    カントの場合、人間の“認識(物事を正しく理解し判断する)においては”、「物そのもの」を知ることはできない。っていうのに対して、現象学の場合、“経験においては”、(たぶん共現在化されてるものは)「ものそのもの」である、ってしてる、っていうことかな。

    いまのわたしの物語りの主題からはちょっと横道に入るかも、だけど、
    ふと、思ったの。

引用返信/返信 削除キー/
■36234 / inTopicNo.96)  Re[5]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/20(Sat) 13:21:08)
    !!
    (‘。')
    No36191のつづき
    (w)のなかに、
    〔共現在化は現在化と一体となった準現在化のこと〕ってある。
    わたしのばあい、〔共現在化は・・・・準現在化のこと〕って見ちゃうから、ん?共現在化は準現在化のこと?ってなるんだけど、
    でね、これ、
    〈現在化と準現在化が一体となってるのを共現在化としてる〉ってして見たのね。
    意味、違えちゃってるかもだけど、わたしにとっては分かりやすい。
    こういうんで、
    @現在化=対象が現に現れること。有体的に現前していること。知覚の志向的性格。
    A準現在化=記憶や想像や予期を規定し、現にない対象を思い浮かべる事態。
    B共現在化=現在化と準現在化が一体となってるもの。
    ってなった。

    現在化するのが「知覚」って見てよさそう。このような知覚を〈端的な知覚〉ってわたし見てる。
    端的な知覚作用=現在化。それによって〈されたもの〉、これを知覚・像ってしちゃう。

    準現在化するのが、「記憶」と「想像」ってして見た。
    ここでいう「記憶」っていうのは、〈記憶から提示されてるもの〉っていう意味で使ってる。これ、〈過去にかかわる「想起」〉だけじゃなくて、〈未来にかかわる「予期」とか「期待」〉っていうのも含まれてるって見てる。

    想像によって〈されたもの〉を想像・像ってして。

    共現在化〈されたもの〉は、〈(端的な)知覚・像〉と〈記憶から提示されてるもの〉と〈想像・像〉からできてる。
    これを「イメージ」(全体的な感じ・心像)って呼ぶことにしよっかな。

    こんな感じで、「現在化/準現在化/共現在化」と、〈(端的な)知覚〉、〈記憶〉、〈想像〉とを結びつけて見た。

    (w)のを読んでるなかでこのごろわたしにイメージされたの、図にして描いたのを添付しま〜す。

    ひとまず
    つづくよ

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