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No36242 の記事


■36242 / )  Re[7]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/20(Sat) 19:15:22)
    No36240のつづき

    No36191の(w)に、〔他者問題〕っていうのもある。
    これについても話題にすると、広がっちゃうから、横に置くことにしてるんだけど、ちょっと触れとく。

    いま読んでる「ハイデガーと他者の問題」(田中末男)のなかから、
    〔今日の哲学的状況を概観すると、とりわけ言語の問題と並んで他者の問題が主要課題として係争点になっているように思われる。この二つの問題は偶然に並列的に立ち現れてきたのではなく、ある内的必然性をもって登場してきたのだと考えられる。まず相方とも人間存在にとってあまりにも密接に関わっているにもかかわらず、いやむしろそれゆえに従来の哲学的思想において飛び越されてきてしまった問題である。それがデカルトに端を発する近世形而上学の行き詰まりとともに、それを超える道を模索するなかで新たな可能性を秘めた事柄としてあらためて見直されてきたということができる。内容的観点からいえば、近世形而上学は独我論的な超越論的主観性を含むそのアルファでありオメガとするような自己完結性を目指すものであった。しかしその企ての極において、この自己還帰的反省哲学はある反転を経験することとなった。すなわち反省の極限に反省されざるものに遭遇したからである。・・・・・〕
    って書きはじめられてる。

    哲学的状況はこいうふうになってるのね、なんかそうなのかな、ってわたし知った。

    〔アルファでありオメガとするような〕ってあってこれなに?
    で、ウィッキに、
    ・・・・・・
    アルファとオメガ ΑΩ
    ギリシャ文字の最初のΑ(アルファ)と最後の文字Ω(オメガ)が並べており、最初と最後、すなわち「全て」「永遠」という意味をもつ。
    ・・・・・・
    ってあった。

    〔反省の極限に反省されざるものに遭遇したからである〕っていうところ、

    【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】のなかにあった、
    『私はあるとき反省しはじめたのであり、私の反省は、反省されていないものへの反省である。反省は、おのれが出来事であることを、知らないわけにはいかない。それだから反省は、真の創造として、意識の構造における変化として、自己自身に現れる。主観が自己自身に与えられているのだから、主観に与えられている世界を、反省は反省自身の働きの手前にあるものと、認めなくてはならない。』(p6)
    っていうのを想い出してる。

    そこはかとなく

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