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Re[6]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/20(Sat) 18:45:59)
| No36234 のつづき――この図を見ながら考えてるよ。
No36191の(w)のなかに、 〔たとえば家の知覚において、前面だけの現在化を、背後も内部も調度も住まう人も含む家そのものを構成する準現在化が支えているのである。〕 ってある。 こういうのから、わたしが見てるの、だいたいあたってる感じがする。
ちょとここでわたしが問題してるのは、〔家そのもの〕っていうところ。
〔経験においては私に現前しているのはあくまで家そのものである〕 っていうのもある。
カントの「物そのもの」と比べて見て、現象学では「そのもの」っていうのをこういうふうに見てるっていうところが違うとこかな? カントの場合、人間の“認識(物事を正しく理解し判断する)においては”、「物そのもの」を知ることはできない。っていうのに対して、現象学の場合、“経験においては”、(たぶん共現在化されてるものは)「ものそのもの」である、ってしてる、っていうことかな。
いまのわたしの物語りの主題からはちょっと横道に入るかも、だけど、 ふと、思ったの。
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