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■36953 / inTopicNo.49)  Re[24]: 『ノコギリのたとえ』
  
□投稿者/ おくたがわ -(2024/03/28(Thu) 10:11:36)
    No36936に返信(knowingitselfさんの記事)
    knowingitselfさん、おはようございます。
    > pipitさん 返信ありがとうございます
    >
    > 悪をなされた場合についてのお経ですが、
    >
    > スマナサーラ長老による、「怒りの無条件降伏 中部経典『ノコギリのたとえ』を読む」という著書がありましたね。所持していますが、さすがという内容です。

    一気に読んでしまいました。素晴らしかったです。ご紹介ありがとうございました。
    これへの返信はお気遣いなく。
引用返信/返信 削除キー/
■36948 / inTopicNo.50)  「ノコギリの喩え」と十善戒
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/28(Thu) 08:10:03)
    おはようございます、pipitさん。横レス失礼します。
    以下はスルーで結構です。^^

    No36945に返信(pipitさんの記事)

    > ことばを何か言われても、ノコギリの喩えを覚えているように、ということかなーとpipitは上の引用文を捉えてるんだけど、
    > 出家した弟子なら、釈尊にこう説かれたことで、いろんな場面で心持ちが変わってくるかもしれないなぁと想像してるよ。
    > どうなのかなぁ…

    以前のYahoo!掲示板でasahi803803さんという女性の密教修行者がいました。
    凄く謙虚でかつ人格者でもあり尊敬できる方でした。

    その方は他者(少しアラシっぽい人)に自分の真意が伝えられずに度々自省していました。それに対して僭越ながら私は「本当に他者に何かを伝えたいと思うなら時には明王のような厳しさをもって接することも必要ではないか。それができないなら文字だけの掲示板で他者に理解を求めることは諦めることも必要だと思います」というアドバイスをしたところ「私には、明王ほどの悟りはなく、よって、そのような境地で『掲示板に向かうことができない』ということです。一度でも『汚い言葉(文字として)』を書き込んでしまった時から、すべてを無くしてしまうような恐怖感が拭えないのです。勿論、私の未熟さです。明王の境地にない私が、もし一度でも『明王のような』、明王の真似事をして投稿をしたならば、きっと、間違った方向へ進んでしまうのではないか、という恐怖心があるということです。これは、転法祖師のご指摘通り、密教修行者として『十善戒』を破ることへの恐怖でもあり、私の未熟さです。」と返信されたことが思い出されました。

    その方は2008年2月の行中に倒れ彼岸に旅立たれました。
    asahi803803さんを偲んで。。。。
引用返信/返信 削除キー/
■36945 / inTopicNo.51)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2024/03/27(Wed) 19:17:05)
    2024/03/27(Wed) 20:07:15 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、こんばんは!

    No36943
    >
    > >経名は「ノコギリの喩え」を意味する[2]。釈迦の教えを学ぶ者は、のこぎりによって、手足を切り落とされた時であっても、争いの世界に堕することが無いようにせよ、という教えである。』<
    >
    > この教え、手足を切り落とされた人が言ってるんだったら、すごい人だな、ってわたし思うけど。<

    うん、確かに、とも思うんだけど、

    pipitの感想として、言葉の影響まで考慮されての説法なのかなとも思えるんだよね。

    石飛先生訳の最後らへんを引用させていただくと、m(_ _)m

    『。比丘たちよ、このように学ばねばならない。
    比丘たちよ、おまえたちは鋸の喩えの教えをつねに心にとどめていなさい。比丘たちよ、おまえたちは、細かなことでも大ざっぱなことでも、承認できないようなことばの使い方を見るだろうか」
    「いいえ、尊師よ」
    「それでは、ここで、比丘たちよ、この鋸の喩えをつねに心にとどめておきなさい。それは、長夜にわたり、おまえたちの利益と安楽をもたらすだろう」と。』

    https://manikana.net/canon/kakaca.html

    ことばを何か言われても、ノコギリの喩えを覚えているように、ということかなーとpipitは上の引用文を捉えてるんだけど、
    出家した弟子なら、釈尊にこう説かれたことで、いろんな場面で心持ちが変わってくるかもしれないなぁと想像してるよ。

    どうなのかなぁ…
引用返信/返信 削除キー/
■36943 / inTopicNo.52)  Re[25]: 『ノコギリのたとえ』
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/03/27(Wed) 18:55:51)

    >経名は「ノコギリの喩え」を意味する[2]。釈迦の教えを学ぶ者は、のこぎりによって、手足を切り落とされた時であっても、争いの世界に堕することが無いようにせよ、という教えである。』<

    この教え、手足を切り落とされた人が言ってるんだったら、すごい人だな、ってわたし思うけど。
引用返信/返信 削除キー/
■36938 / inTopicNo.53)  Re[24]: 『ノコギリのたとえ』
□投稿者/ pipit -(2024/03/26(Tue) 22:05:15)
    2024/03/26(Tue) 22:11:14 編集(投稿者)

    knowingitselfさん、こんばんは!

    No36936
    > 悪をなされた場合についてのお経ですが、
    >
    > スマナサーラ長老による、「怒りの無条件降伏 中部経典『ノコギリのたとえ』を読む」という著書がありましたね。所持していますが、さすがという内容です。<

    私も所持しています(^ ^)v

    ここで『ノコギリのたとえ』の説明を....

    wiki『鋸喩経』より抜粋引用
    『鋸喩経[1](こゆきょう、巴: Kakacupama-sutta, カカチューパマ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第21経。
    経名は「ノコギリの喩え」を意味する[2]。釈迦の教えを学ぶ者は、のこぎりによって、手足を切り落とされた時であっても、争いの世界に堕することが無いようにせよ、という教えである。』

    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%8B%B8%E5%96%A9%E7%B5%8C

    wikiに経文の日訳がほんの少しだけ載ってたので引用させていただきます。※記号省略

    『比丘たちよ、他人があなたがたに話しかけるときに使用する、言葉の種類が五つある。適した時機に語る、もしくは適さない時機に語る、真実に基づいて語る、もしくは虚実を語る、柔和に語る、もしくは粗暴に語る、有益に語る、もしくは無益に語る、慈しみの心で語る、もしくは怒り(dosantara)の心で語る。

    そのために比丘たちよ、このように学ぶべきである。私たちは、心(citta)が変化しないようにしよう、 私たちは、悪しき言葉を発さないようにしよう。私たちは、情ある者(anukampi)、慈しみ(metta)の心ある者、瞋恚(dosa)なき者として生きよう。私たちは、その人を慈しみの心によって満たそう、またすべての世界に対しても、増大した、増幅した、超越した、無量の、害意なき、慈しみの心で満たして住足して生きよう。まさに比丘たちよ、このように学ぶべきである。』


    石飛道子先生のサイトの『心にしみる原始仏典』のページには、石飛先生が日訳された「鋸喩経」が全文のっています。(^人^)ありがたいですー

    「鋸喩経」『マッジマ・ニカーヤ』第21経

    https://manikana.net/canon/kakaca.html


    knowingitselfさん、書き込みありがとうございます!
引用返信/返信 削除キー/
■36936 / inTopicNo.54)  『ノコギリのたとえ』
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/26(Tue) 18:42:33)
    pipitさん 返信ありがとうございます

    悪をなされた場合についてのお経ですが、

    スマナサーラ長老による、「怒りの無条件降伏 中部経典『ノコギリのたとえ』を読む」という著書がありましたね。所持していますが、さすがという内容です。
引用返信/返信 削除キー/
■36928 / inTopicNo.55)  pipitさんへ
□投稿者/ 時 -(2024/03/26(Tue) 00:08:54)
    pipitさんへ。こんばんは。返信をありがとうございます。

    No36922に返信(pipitさんの記事)

    > なるほどー
    > なんにしろ『見解』にしてはならない、ということかなーと思いました。

    はい。そういう事ですね。論の中での見解は、何かを主張するという事になりそうです。何かを主張するという事は、何かに対する固執があります。何かの固執があるという事は、その近くには貪りがあります。貪りがあるという事は苦からの解放はありえません。ですので、仏陀たちは、見解としての主張の仕合いとしての議論をしませんとなるのですね。勿論、私の理解ではですが。

    > あと、アーナパーナサティスッタも知らないながらも興味はあるんですよねー。

    出入息念の事でしょうか。もしもpipitさんが原始仏典に拘られるのであれば、中部経典62経「大ラーフラ教誡経」が参考になると思いますよ。

    > どうなるかまだわかりませんが、今のところダンマパダを読んでいきますね。

    はい。今は、ダンマパダをおすすめください。ご返信は不要です。
引用返信/返信 削除キー/
■36923 / inTopicNo.56)  knowingitselfさんへ
□投稿者/ pipit -(2024/03/25(Mon) 16:40:13)
    No36920-36921
    knowingitselfさん、返信ありがとうございます!

    > 私の理解では「怒らないこと」が何をおいても優先されるのだと捉えています。
    > スマナサーラ長老の「怒らないこと2」にかなりの影響を受けています。これは素晴らしい書です。
    > 同書は私にとっては仏教開眼の一つといっていいくらい。とくに、第二部第二章の「怒りの種類」。
    > ドーサという基本の怒りとその変形である9種、全部で10種類の怒りが人間の苦しみの原因になるという。
    >
    > 現代日本の文脈における「怒り」ではなかなか本質をつかめないと感じていますが。
    > やはり「ドーサ」というのがピンとくる。<

    そうだったんですね!
    私も(?)仏教の物の見方はとてもおもしろく、役に立っているように感じています。


    No36921
    > ダンマパダ125は自ら悪をしないようにというお経であって、他人から悪をなされた場合の対応法を語っているのではないと読めます。
    >
    > それでは、まさしく他人から悪をなされたときは?
    >
    > この点について興味深いのは、たとえば、新約聖書です。
    >
    > 「右の頬を打つ者には、ほかの頬も向けなさい」マタイ福音書5・39
    >
    > これはキリスト教だけの教えというより、霊的な普遍の真理を表現していると思う。釈迦の掴んだ真理と矛盾しているはずはないと思います。<

    悪をなされた時は?でpipitが思い出すのは、サーリプッタ尊者のお話です。

    『マンガ原始仏典・ブッダの教え』より

    https://buddha.pink/setuwa/96/

    スマナサーラ長老のサーリプッタ尊者についての法話

    https://j-theravada.com/dhamma/kantouhouwa/kantou242/

    knowingitselfさんは本当に博識ですね!
    書き込みありがとうございます(^○^)♪
引用返信/返信 削除キー/
■36922 / inTopicNo.57)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2024/03/25(Mon) 16:14:09)
    No36919
    兄上さま、返信ありがとうございます(^ ^)

    >>兄上のおっしゃる通り、実践や理論的なことは『長部』や『中部』の方がものすごく具体的に説かれているようですね!<<

    > はい。といいましても、細かいことになるのですが、それを理論的なことと捉え(理解し)てしまわれない方が良いと思います。理論と捉え(理解し)てしまうと、常見や断見に陥りやすいからですね。ですので、中部や長部には、その実践とその論理(道理)が説かれてるようですよ。<

    なるほどー
    なんにしろ『見解』にしてはならない、ということかなーと思いました。

    > pipitさんが怒っている姿が、全く想像できません(笑)
    > 過去、仏教を学ぶ以前のお話ですが、仕事先等で怒っているお相手のお話を聞いていると、論理破綻しているのが一瞬でわかったりしたのですね。あるときは堂々と、あるときは恐る恐る論理破綻の箇所を尋ねてみたことがありますが、、どちらにしても火に油がほとんどでしたので、現在では、その個所が分かったとしても、ほぼほぼ尋ねずにスルーしていますかね(笑)<

    小さな会社なので、働く人も家族的になって、私もその上司に「お父さん、」などと間違えて言ってしまいそうになるくらいなので、結局は甘えてるんだと思います
    (ーー;)
    やさしい人にはみんな甘えてわがまま言ったり理不尽な八つ当たりしたりなりがちなように思います..
    反省です...

    > はい。大念処経も押さえておいた方が良い経典の中の一つですね。<

    すごく網羅的に記述されてますよね。
    あと、アーナパーナサティスッタも知らないながらも興味はあるんですよねー。

    ↓検索してでてきたブログ

    https://search.yahoo.co.jp/amp/s/clover.fcg.world/2016/10/10/7053/%3Famp%3D1%26usqp%3Dmq331AQGsAEggAID

    どうなるかまだわかりませんが、今のところダンマパダを読んでいきますね。
    ありがとうございます♪
引用返信/返信 削除キー/
■36921 / inTopicNo.58)  Re[22]: ダンマパダ第九章『悪』・125
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/25(Mon) 15:16:26)
    ダンマパダ125は自ら悪をしないようにというお経であって、他人から悪をなされた場合の対応法を語っているのではないと読めます。

    それでは、まさしく他人から悪をなされたときは?

    この点について興味深いのは、たとえば、新約聖書です。

    「右の頬を打つ者には、ほかの頬も向けなさい」マタイ福音書5・39

    これはキリスト教だけの教えというより、霊的な普遍の真理を表現していると思う。釈迦の掴んだ真理と矛盾しているはずはないと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■36920 / inTopicNo.59)  Re[21]: ダンマパダ第九章『悪』・125
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/25(Mon) 13:45:17)
    pipitさん 返信ありがとうございます

    >やはり実践者の心の清浄行が焦点になってるのかなぁという感想です。

    >ダンマパダ125の解説を二つ見てみました。

    >テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老
    https://j-theravada.com/dhamma/kantouhouwa/kantou050/

    >ココロとカラダのセルフケアさん

    https://north-market.com/care/dhammapada-contents/9-evil/

    >どちらの解説も、『実践者が怒らない』ことをメインに説かれています。
     
    そうだと思います。


    私の理解では「怒らないこと」が何をおいても優先されるのだと捉えています。
    スマナサーラ長老の「怒らないこと2」にかなりの影響を受けています。これは素晴らしい書です。
    同書は私にとっては仏教開眼の一つといっていいくらい。とくに、第二部第二章の「怒りの種類」。
    ドーサという基本の怒りとその変形である9種、全部で10種類の怒りが人間の苦しみの原因になるという。

    現代日本の文脈における「怒り」ではなかなか本質をつかめないと感じていますが。
    やはり「ドーサ」というのがピンとくる。

引用返信/返信 削除キー/
■36919 / inTopicNo.60)  pipitさんへ
□投稿者/ 時 -(2024/03/25(Mon) 12:42:54)
    pipitさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No36918に返信(pipitさんの記事)

    > 自分以外の人のお役に立ったなら、もっのすごく嬉しいですが、それは不確かで、
    > でも私が読んでることは私には確実なので、
    > 『最低私1人のためにだけでも役に立つような記事にしよう。』と、上記の気持ちで日訳しています。

    なるほど。pipitさんのご認識は了解しました。

    > だからこうして兄上に書き込んでもらえるのは、『望外の喜び』なのです(o^^o)v

    それはそれは、光栄なことですね(^^)v

    > 最近読んだ『ブッダという男---初期仏典を読みとく』清水俊史さん著、ちくま新書では、これまで通説とされてきた説への別の捉え方が提示されていました。(p32- 韻文優先説と人間ブッダ )
    > よく『ダンマパダ』や『スッタニパータ』が古い、と言われますが、その並行句がジャイナ教などの聖典にも確認されているそうです。
    > また、『ダンマパダ』や『スッタニパータ』などの韻文の経典は初期の三蔵に入ってなかったけど、途中で三蔵に組み込まれたという考えを清水先生は述べられていました。

    > 抜粋引用します。
    > 『したがって、仏典の編纂者たちは、ジャイナ教などの沙門宗教と共通の基盤を持ち、多くの詩を共有していたことを自覚していた。このような事情から、当初の仏教教団において、韻文資料は傍系のものと見なされ、聖典(三蔵)として認められていなかったのだと考えられる。
    >  以上の二つの問題点を踏まえるならば、仏教のエッセンスは、韻文資料ではなく、散文資料にこそ求められることになる。近年では、このような理解をもとに、韻文資料を捨象し、散文資料によってのみ初期仏教を描こうとした概説書も現れている。
    > しかし、韻文資料も部派を超えて教団内に伝承され最終的に初期仏典(三蔵)としての権威が認められた事実は重んじられるべきである。そこで本書においては、散文資料と韻文資料の両方を用いながら、ブッダの先駆性を歴史の中に位置づけていく。』
    > ((ブッダという男---初期仏典を読みとく』清水俊史さん著、p36より引用)

    引用をありがとうございます。
    過去、何時頃だったかは忘れましたが、小部経典は、他経典とは別物だという事をどこかで読んだような気がします。

    ジャイナ教といいますと苦行という言葉が思い浮かびますが、原始の中には、仏陀が法を説いた、裸行者や木の樹皮をまとった行者、犬行に励む修行者等が出てきますが、多分ですが、これらの行者の事なのでしょうね。

    > いろんな考え方があると思うのですが、pipit的には、その当時にあった句を釈尊や兄弟子がアレンジして修行中の弟子に授けていた可能性もあるなぁと想像(妄想)しています。

    当時、ジャイナ教などの沙門宗教と共通の基盤を持っていたのであれば、その可能性は大いにありそうですね。そして多分ですが、当時の他沙門集団と決定的に違ったのが、四禅定の行のあるなしだと思います。

    > 兄上のおっしゃる通り、実践や理論的なことは『長部』や『中部』の方がものすごく具体的に説かれているようですね!

    はい。といいましても、細かいことになるのですが、それを理論的なことと捉え(理解し)てしまわれない方が良いと思います。理論と捉え(理解し)てしまうと、常見や断見に陥りやすいからですね。ですので、中部や長部には、その実践とその論理(道理)が説かれてるようですよ。

    >>現実に私ごときがそれをやろうとすると、火に油だと思いますので、その例えの意味するところやその道理は理解できたとしても、同じようなこと(お相手に対する言葉としての例え)は、よほどでない限りは行いませんかね。ただ、怒りの言葉に対して怒りの言葉で返さず、その場から自然に離れることでしょうか。(過去、実際に何度かその道理を説明したことがあるのですが、ほとんど誰もそれへの理解には至りませんでした)<

    > はい、私も自分の心で思ってるだけですが、上司が怒ってたら、内容の感情は受け取らず論理だけ受け取るように心掛けます。。。

    > が、めったに怒られない上司に少し感情的に怒られたときは、実際は、『上司に簡単に返事をしない刑』を一日近く実行しました。。。(怒ってますー 未熟者pipitですー)

    pipitさんが怒っている姿が、全く想像できません(笑)
    過去、仏教を学ぶ以前のお話ですが、仕事先等で怒っているお相手のお話を聞いていると、論理破綻しているのが一瞬でわかったりしたのですね。あるときは堂々と、あるときは恐る恐る論理破綻の箇所を尋ねてみたことがありますが、、どちらにしても火に油がほとんどでしたので、現在では、その個所が分かったとしても、ほぼほぼ尋ねずにスルーしていますかね(笑)

    > 仏教(とカント哲学)に出会えてよかったなーと個人的には実感しています
    > (#^.^#)♪♪

    カント哲学も私は全く知らないのですが、pipitさんが出会えて良かったとお感じになられているのであれば、喜ばしいことですね。^^

    > 兄上の書き込みなどから影響を受けて、中部の『大念処経』の英訳を日訳してみてもいいかなぁとか思いつつもあります。

    はい。大念処経も押さえておいた方が良い経典の中の一つですね。

    > いつも本当にありがとうございます!!

    こちらこそ、いつもお付き合いをありがとうございます。
引用返信/返信 削除キー/

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