■32724 / inTopicNo.71) |
私は書くべきものを持ち合わせていません
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□投稿者/ うましか -(2023/08/27(Sun) 21:18:38)
| 田秋さん、こんばんはー(・∀・)
>願わくば、稲賀繁美先生の論考を紹介された張本人であらせられるうましかさんのお考えも賜ることができますれば幸いに存じましゅる〜〜〜
私にはここで開陳できるような「お考え」は特にありません〜
稲賀論文は、彫刻家の彫刻行為とその結果(作品)の生成の関係性について、田秋さんの「イデー」とザビビのふくろうさんの「エイドス」をキーワードに調べた結果、それらを扱っているらしい論文としてヒットしたものに過ぎません。
私が稲賀論文に気をとめたのは、たまたま所持していたパノフスキーの『イデア』をよく参照しており、さらに彫刻家の彫刻とその作品の生成の関係性について、実例としてミケランジェロをあげ、彫刻行為と作成の生成の関係性にかかわる彼自身の詩句を、当時の哲学や宗教を含む思想史的背景のもとに分析していたからです。
その意味では、さらに後世の漱石による「運慶」云々は導入ネタとしては面白くても、それ以上の興味はもてませんでした。比較文学・思想・文化を専門とする稲賀ならで切り口なのかもしれませんが。
とはいえ、お二方から得たイデアかエイドスかという出発の問いかけから、稲賀の以下の問いかけを発見したときはうれしかったですね。
>問題は,「取り去る」側の彫刻家の脳裏あるいは精神のうちに,あらかじめ掘り出すべき形態のアイディアが宿っているのか,それとも反対に,掘り出すべき形態は,むしろ素材のうちに,その形態を潜在させて内在するのか,との問いだろう。< 〔稲賀,p.22( https://inagashigemi.jpn.org/uploads/aida/aida175.pdf )〕
私には上の問いに十分に答え得るだけの能力はまったくもちあわせていませんし、そもそも芸術一般についてとくに実践経験や趣味があるわけでもない人間なので、ごくごく平凡な感想を述べてみると、
平凡な現代人の私の目からすれば、彫刻家が彫刻によって石ころ(自然物)から作品を創作する以上、そのアイディアはその彫刻家の脳裏または精神にあり、それが超絶的かつ神技的な技量によって掘り起こされるのに違いないと考える一方で、当の彫刻家自身が、そのアイディアの具現を自身の能力、技量によって(のみ)産み出されたものとして看做すことを善しとするかどうかは別なのではないかとも考えます。
とまあ、ここまで書いてみてまだ考えられそうだなあ、パノフスキーもっと読み込まなきゃという気持ちがムクムクしてきてしまったので、この辺で思考停止します。(;´Д`A ```
それではまた〜(/・ω・)/
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