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■36587 / inTopicNo.25)  Re[61]: Ramseyによる『論考』の書評
  
□投稿者/ flora -(2024/02/19(Mon) 18:04:49)
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■36580 / inTopicNo.26)  Ramseyによる『論考』の書評(;´・ω・)改
□投稿者/ うましか -(2024/02/18(Sun) 21:53:23)
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■36571 / inTopicNo.27)  Re[59]: ラムジーの最愛の楽章
□投稿者/ flora -(2024/02/18(Sun) 15:46:42)
    No36569に返信(knowingitselfさんの記事)
    おはようございます。

    > >>ウィトゲンシュタインの「哲学探究」では、「序」において、ラムジーとスラッファによるところが多いと記されている。ラムジーとは、彼の人生の最後の二年間、数えきれないほどの会話の中でウィトゲンシュタインの考えについて彼と議論したと。ラムジーは「論理哲学論考」の翻訳者にして批判者だった。

    >>「論理哲学論考」の翻訳者は、(主翻訳者)チャールズ・ケイ・オグデン、とラムジー自身だったと思いますが、ラムジーはオグデンの翻訳のどんなところに批判的だったのでしょうか? よろしくお願いいたします。
    >
    > ラムジーは英語に翻訳されたものに批判的というより、原典としての「論理哲学論考」それ自体がもっている弱点・限界のようなものを指摘したのだと思います。「論理哲学論考」の素晴らしいさは評価した上でしょう。

    翻訳者の一人あり、また「論理哲学論考」の内容に関して批判的だったということですね。

    うましかさんが、その批判内容の英語版と、日本語訳のリンクを貼ってくださったのですが、後で拝見しようと思っているうちに投稿を消されたようです。

    うましかさん> 再度リンクを貼っていただけないでしょうか?^^;
    >
    > 以下、「哲学探究」の「序」からウィトゲンシュタイン本人の文を引用します。訳は鬼界影夫さん。
    >
    > 引用開始
    >
    >
    >
    > というのは、十六年前に再び哲学に関わり始めて以来、あの最初の本に書き記したことの中に私はいくつもの深刻な思い違いを認識せざるを得なかったからだ。私の考えがフランク・ラムジーから経験した批判は、これらの思い違いを自覚する上でーー自分ではその程度が評価できないくらいにーー大きな助けとなった。彼の人生の最後の二年間、数えきれはいほどの会話の中で私の考えについて彼と議論した。
    >
    > 1945年1月 ケンブリッジ 
    >
    > 引用終わり
    >
    > 上記引用のなかの「あの最初の本」とは、「論理哲学論考」です。
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■36570 / inTopicNo.28)  前期と後期のウィトゲンシュタイン
□投稿者/ knowingitself -(2024/02/18(Sun) 14:20:33)
    ラムジーがウィトゲンシュタインに向かってどういう批判をしたのか、私はよく知らない。

    ただ、前期ウィトゲンシュタインと後期ウィトゲンシュタインを分けるものは、ウィトゲンシュタインのテキストを通じで浮かび上がっている。もちろん、それを解読し理解することがメチャクチャ難しいのだが。

    ウィトゲンシュタインは前期で一応哲学に別れを告げて、小学校の教師をしていたわけだ。そこに14歳年下のラムジーが会いに行って、哲学再開へのきっかけを与えたと。
    後期ウィトゲンシュタイン哲学の成立にラムジーは大きな寄与をしたとも言えると。

    もっとも、ウィトゲンシュタインという複雑怪奇な人物にあっては、哲学復帰への要因はそれだけではないとされている。ここら辺は研究者でもさまざま説があるはずだ。

    後期より前期を評価する人も少なくない。バートランドラッセルもそう。
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■36569 / inTopicNo.29)  Re[58]: ラムジーの最愛の楽章
□投稿者/ knowingitself -(2024/02/18(Sun) 13:20:21)
    floraさん こんにちは

    >>ウィトゲンシュタインの「哲学探究」では、「序」において、ラムジーとスラッファによるところが多いと記されている。ラムジーとは、彼の人生の最後の二年間、数えきれないほどの会話の中でウィトゲンシュタインの考えについて彼と議論したと。ラムジーは「論理哲学論考」の翻訳者にして批判者だった。
    >
    > 「論理哲学論考」の翻訳者は、(主翻訳者)チャールズ・ケイ・オグデン、とラムジー自身だったと思いますが、ラムジーはオグデンの翻訳のどんなところに批判的だったのでしょうか? よろしくお願いいたします。

    ラムジーは英語に翻訳されたものに批判的というより、原典としての「論理哲学論考」それ自体がもっている弱点・限界のようなものを指摘したのだと思います。「論理哲学論考」の素晴らしいさは評価した上でしょう。

    以下、「哲学探究」の「序」からウィトゲンシュタイン本人の文を引用します。訳は鬼界影夫さん。

    引用開始



    というのは、十六年前に再び哲学に関わり始めて以来、あの最初の本に書き記したことの中に私はいくつもの深刻な思い違いを認識せざるを得なかったからだ。私の考えがフランク・ラムジーから経験した批判は、これらの思い違いを自覚する上でーー自分ではその程度が評価できないくらいにーー大きな助けとなった。彼の人生の最後の二年間、数えきれはいほどの会話の中で私の考えについて彼と議論した。

    1945年1月 ケンブリッジ 

    引用終わり

    上記引用のなかの「あの最初の本」とは、「論理哲学論考」です。
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■36559 / inTopicNo.30)  Re[57]: ラムジーの最愛の楽章
□投稿者/ flora -(2024/02/17(Sat) 16:19:49)
    No36554に返信(knowingitselfさんの記事)

    こんにちは

    > ウィトゲンシュタインの「哲学探究」では、「序」において、ラムジーとスラッファによるところが多いと記されている。ラムジーとは、彼の人生の最後の二年間、数えきれないほどの会話の中でウィトゲンシュタインの考えについて彼と議論したと。ラムジーは「論理哲学論考」の翻訳者にして批判者だった。

    「論理哲学論考」の翻訳者は、(主翻訳者)チャールズ・ケイ・オグデン、とラムジー自身だったと思いますが、ラムジーはオグデンの翻訳のどんなところに批判的だったのでしょうか? よろしくお願いいたします。
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■36554 / inTopicNo.31)  ラムジーの最愛の楽章
□投稿者/ knowingitself -(2024/02/16(Fri) 18:57:42)
    ラムジーが他の何よりも愛したという、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲のある曲の最終楽章。16番?
    このところよく聴いているが、素晴らしいと思った。

    しかし、27才でこの最終楽章を他の何よりも愛するなんて、感受性がエグすぎる。

    ウィトゲンシュタインの「哲学探究」では、「序」において、ラムジーとスラッファによるところが多いと記されている。ラムジーとは、彼の人生の最後の二年間、数えきれないほどの会話の中でウィトゲンシュタインの考えについて彼と議論したと。ラムジーは「論理哲学論考」の翻訳者にして批判者だった。
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■36494 / inTopicNo.32)  音楽と言葉における「テーマ」
□投稿者/ knowingitself -(2024/02/10(Sat) 13:13:14)
    哲学研究者の中村昇(ウィトゲンシュタインについても何冊か)さんが、chuo onlineに公開されている対談で言われていました。

    中村昇 ウィトゲンシュタインが、言葉と音楽についてこんなことを言っています。音楽には、その曲を決定づけるフレーズなどの「テーマ」があることが多いと思いますが、われわれが言語において「意味」だと思っているものが、このテーマと同じようなものではないかと言うんですよ。例えば「コップの意味は?」と聞かれても、コップとしか答えようがない。音楽のテーマも、それが聞こえたら「あ、こういうテーマだな」と理解するもので、それ以外に表しようがない。
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■36492 / inTopicNo.33)  Re[54]: メタ音楽は認めない?
□投稿者/ knowingitself -(2024/02/10(Sat) 12:39:17)
    田秋さん、投稿ありがとうございます。

    私はメタ言語とメタ音楽を安直に並べすぎたかもしれません、メタ音楽という語を果たして使えるのかという疑問もあります。なかなか一筋縄ではいかないです。

    ただ、クラシック音楽はそもそもメタ音楽的だという捉え方も可能かと思います。

    ソナタ形式とかフーガとか、音楽内容とは別に、形式だけを抽出して認識可能ですね。バッハやベートーヴェンではなくても、自分の作曲ではこれらの様式を念頭においていますね。
    個性的な表現メッセージもさることながら、形式を踏まえなければ作曲にはならないと。

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■36479 / inTopicNo.34)  Re[53]: メタ音楽は認めない?
□投稿者/ 田秋 -(2024/02/09(Fri) 09:17:28)
    おはようございます、knowingitselfさん

    メタ音楽については考えたことがなかったのですが、「今ある音楽の上位に位置する音楽」という認識でいいですか?

    とりあえず浮かんでくるイメージは今ある様々なジャンルの音楽、クラシック、ジャズ、ロック、ポップス、演歌、雅楽、世界の民族音楽などの上位にある音楽なんですが、そういう理解でいいですか?

    一つの手段として過去にさかのぼって調べてみるというのがあると思うのですが、色々なジャンルに分かれる前の音楽は「上位」になりますか?

    もう一つ、バルトークの様にマジャール民俗音楽を研究してそのエッセンスを抽出しそれをもとに作った音楽はメタ音楽と言えますか?

    直接感じている感情とは別に本能で感じる音楽咸というのも関係してきそうですね。

    考え出すと面白そうな題材です。が、やりたいことは他にもあるので深入りは止めようと思います。

    何かわかりやすい説明ってありますか?

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■36476 / inTopicNo.35)  メタ音楽は認めない?
□投稿者/ knowingitself -(2024/02/08(Thu) 19:42:50)
    ウィトゲンシュタインにはメタ言語の発想がないが、音楽でもメタ音楽というものを認めないと思う。

    聴衆→実演→演奏家→スコア→作曲家→音楽の神

    右に向かうほど上位になるという階梯はない?

    これらを完全に否定するようなラディカリズムはもちろん現実にありえないが、いまここに鳴っている音楽とは別にメタ音楽をもってくることはないと思う。





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■36473 / inTopicNo.36)  全体と細部
□投稿者/ knowingitself -(2024/02/08(Thu) 17:17:06)
    「言語全体との関係でのみ語の意味も決まる」という「全体論的言語観」が論理哲学論考の言語観だとされる。
    野矢茂樹さんの著作でもお馴染みです。

    ウィトゲンシュタインは言語と音楽をどちらも想定しているように私には思われるが、フルトヴェングラーの音楽理解、たとえばベートーヴェンの交響曲全体が宿るように小さな細部における推移を造形していくというところなど、強引に結びつければある程度は、ウィトゲンシュタインの言語哲学と通じるのかもしれない。

    ウィトゲンシュタインがフルトヴェングラーに触れたとか、関心をもったとかは、寡聞にしてまったく知らないが。両者は基本的にはまったく別ですが、上に述べた範囲では案外通じるものがあったりして。
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