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■23747 / inTopicNo.73)  人間の、「野生の思考」と資本主義的生き方
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/06/05(Sun) 15:13:32)
    ルカーチのをもうちょっと見て見ます。

    No23718の、
    【前資本主義的な文明に対して、資本主義は社会の現実化を示す。いわゆる原始的な文明においては、集団的な生はある部分では想像的なものであり、経済的な解釈が可能な事実の間に、間隙と〈世界の間〉が存続し、これを神話が満たす。この神話は「イデオロギー」ではなく、発見すべき経済的な現実を覆い隠すものではなく、固有の機能をそなえている。こうした社会はまだ自然と社会を結ぶ「へその緒」を断ち切っていないからである。資本主義の社会は、このへその緒を切ったのであり、これによって社会的なシステムの統合が実現される。社会システムは、脱神話化され、脱魔術化され、資本主義の社会として、そして資本主義によって、さまざまな力の単一の場に組織される。そして、その社会の総体をその真理のうちに知っている解釈が、自ら提示される。しかし社会の現実化は、ある内的な障害によって妨げられる。システムは社会全体の生を理論的にも実践的にも制御できない。これによって全般的な判断が下されるのを避けるために、このシステムは自らを社会の動力学の過渡期な状態としてではなく、社会的な世界の永遠の構造として提示する。そして社会についての意識の土台となってきた客観的な知へと向かう運動も、客観主義と科学主義へと凝固してしまう。】
    の部分、
    「前資本主義的な文明」「原始的な文明」を、〈野生の思考(原初的思考)による文化〉に、「社会」を、〈人-間(人間集団)の生のあり方〉に、置き換えて見た。

    〈 野生の思考(原初的思考)による文化に対して、資本主義は人-間(人間集団)の生のあり方の現実化を示す。いわゆる野生の思考(原初的思考)による文化おいては、集団的な生はある部分では想像的なものであり、経済的な解釈が可能な事実の間に、間隙と〈世界の間〉が存続し、これを神話が満たす。この神話は「政治や社会の在るべき姿についての理念の体系」ではなく、発見すべき経済的な現実を覆い隠すものではなく、固有の機能をそなえている。こうした野生の思考(原初的思考)による文化はまだ自然と人-間(人間集団)の生のあり方を結ぶ「へその緒」を断ち切っていないからである。資本主義の人-間(人間集団)の生のあり方は、このへその緒を切ったのであり、これによって人-間(人間集団)の生のあり方的なシステムの統合が実現される。人-間(人間集団)の生のあり方システムは、脱神話化され、脱魔術化され、資本主義の人-間(人間集団)の生のあり方として、そして資本主義によって、さまざまな力の単一の場に組織される。そして、その人-間(人間集団)の生のあり方の総体をその真理のうちに知っている解釈が、自ら提示される。しかし人-間(人間集団)の生のあり方の現実化は、ある内的な障害によって妨げられる。システムは人-間(人間集団)の生のあり方全体の生を理論的にも実践的にも制御できない。これによって全般的な判断が下されるのを避けるために、このシステムは自らを人-間(人間集団)の生のあり方の動力学の過渡期な状態としてではなく、人-間(人間集団)の生のあり方的な世界の永遠の構造として提示する。そして人-間(人間集団)の生のあり方についての意識の土台となってきた客観的な知へと向かう運動も、客観主義と科学主義へと凝固してしまう。 〉
    こう見るとわたしには分かりやすくなった。

    レヴィのいう、

    〔「野生の思考〈原初的思考〉」は包括的かつ全面的な因果性を公準とし、知覚および想像力のレベルに狙いをつけ、感覚に直接与えられもの(感覚与件)のレベルでの体系化をする、一方、「科学的思考」はそれをはずしている。〕

    〔「科学的思考」はその全体が偶然と必然の区別の上に成立した。科学がその誕生に際して科学性として要求した性質は、体験には属さず、あらゆる出来事の外にそれとは無関係なもののように存在する性質であった。〕

    っていうのを想い出した。

引用返信/返信 削除キー/
■23718 / inTopicNo.74)   臍の緒
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/06/04(Sat) 14:30:27)
    「野生の思考」と「近代西洋人の思考」について(と思われる)、メルポンのにも書かれてあったのでその一部を書き写して見ます。

    『メルロ=ポンティ・コレクション』モーリス・メルロ=ポンティ中山元編訳
    っていう本のなかに、
    政治と歴史について
    歴史の理論のための資料p220−
    と題してあって、

               ***************
    ‥‥‥
    p228ルカーチは、現在から出発して、全体性の視点に到達しようとする。そしてこの視点は「経験的なものの全体性」としてしか現れない。資本主義を「合理化」として理解するというウェーバーの直観を維持しながら、ルカーチはこれを精密にし、前資本主義的な過去とポスト資本主義的な未来に向けて発展させ、これを不動の本質の直観ではなく、プロセスの直観として理解することで、この見方に生気を与える。

    前資本主義的な文明に対して、資本主義は社会の現実化を示す(Vergesellschaftung der Gesellschaft)。いわゆる原始的な文明においては、集団的な生はある部分では想像的なものであり、経済的な解釈が可能な事実の間に、間隙と〈世界の間〉が存続し、これを神話が満たす。この神話は「イデオロギー」ではなく、発見すべき経済的な現実を覆い隠すものではなく、固有の機能をそなえている。こうした社会はまだ自然と社会を結ぶ「へその緒」を断ち切っていないからである。資本主義の社会は、このへその緒を切ったのであり、これによって社会的なシステムの統合が実現される。社会システムは、脱神話化され、脱魔術化され、資本主義の社会として、そして資本主義によって、さまざまな力の単一の場に組織される。そして、その社会の総体をその真理のうちに知っている解釈が、自ら提示される。しかし社会の現実化は、ある内的な障害によって妨げられる。システムは社会全体の生を理論的にも実践的にも制御できない。これによって全般的な判断が下されるのを避けるために、このシステムは自らを社会の動力学の過渡期な状態としてではなく、社会的な世界の永遠の構造として提示する。そして社会についての意識の土台となってきた客観的な知へと向かう運動も、客観主義と科学主義へと凝固してしまう。社会科学の挿話(エピソード)は、資本主義的な文明をその人間的な起源から切断する「物象化」*の一般的なプロセスの一つの側面にすぎない。この物象化のために、商品と市場経済の交換の法則がカテゴリーとしての価値をもつようになる。ルカーチはプロレタリアート*のうちに、素描されただけの社会を完成へともたらすことのできる階級を見いだす。実際にプロレタリアートは、物象化が極限まで進んだものであり、これを絶対的に拒否するものである。そして事実においても権利においても、真なる「社会プロセスの核心」に位置するものである。プロレタリアートは、本当に〈社会〉である社会、すなわち透明で、内的な区分けがなく、階級のない社会を作り出すことができ、これを担うことができる。プロレタリアートが権力を掌握すると、固有の形態のうちに絡めとられない生産形態、社会とすべての歴史の真の認識の条件が生まれるわけである。新しい社会は、闘いのうちにおいて利用した論争的な概念を乗り越えるものとなる。ルカーチはその一例として、史的唯物論がその機能と意味を変えるだろうと明記している。経済と歴史の並行論は、歴史的な資本主義時代においては、歴史が経済によって説明されることを意味していたが、ポスト資本主義の社会においては、知の自由な発展と、絡めとられるもののなくなった生産形態を同時に意味するものである。
    …‥
                **************

    ここに出てくる【前資本主義的】【原始的な】を、わたしこれ「野生の思考」ってして見たのね。
    メルポンはマルクスのについても記述してるんだけど、それはここでは話題にしない。

    *「物象化」っていうの、ネットで調べてら、
                ・・・・・・・・・・・
    「物象化」 Versachlichung ドイツ語
    人間の形成する社会関係およびそこに参与する主体が、ある一定のメカニズムを介してあたかもモノのように立ち現れてくる現象を表す用語。一般に、物化Verdinglichung(ドイツ語)ないし物象化とよばれているものは、およそ次の三つのレベルに整理できる。
    (1)人間そのものの物化。これは人間が奴隷商品とか機械体系の一部として繰り込まれているような事態をさす。
    (2)人間行動の物化。諸個人の自由意志ではどうにもできなくなっている人の流れとか、群集化された人の動きとか、行動様式の習慣的固定化のように、自己の行動が個々の人間ではコントロールできないという意味で物とみられる。
    (3)人間の能力の物化。人間の精神を物的に定在化させたものとして考えられている芸術作品や、投下労働価値説でいう商品価値などがこれにあたる。
     K・マルクスは『資本論』において、人間と人間の共同的関係が物の性質のように倒錯視されたり、人間と人間との共同的な関係が物と物との関係であるかのように倒錯視される現象を問題にした。人間と人間の関係といっても、それは人間的対象活動における協労関係であり、それがある屈折を経て物の性質や物と物との関係であるかのように仮現する事態をさす。このような事態がなぜ、またはいかにして生ずるかについてを歴史の法則性として把握するのがマルクスの物象化論である。
                ・・・・・・・・・・・
    *「プロレタリアート」も意味わかんなかったから、ネットで調べたら、
    〔階級としての資本家,すなわちブルジョアジーに対立する概念で,資本主義社会において,生産手段をもたず,みずからの労働力を資本家に売ることによって生活する階級としての労働者をさす。〕
    ってあった。
    わたしプロレタリアートだったのね。

    【原始的な文明においては、集団的な生はある部分では想像的なものであり、経済的な解釈が可能な事実の間に、間隙と〈世界の間〉が存続し、これを神話が満たす。】
    こういうところが「野生の思考」なのかな?
    でもこういうのって人間の原初的で普遍的なものかもしれない。

    人間と自然との「へその緒」−―なんかおもしろい表現があったので書いときました。

    ふと思ったんだけど、臍の緒のDNAってどうなってるの?お母さんの?赤ちゃんの?
    でネットで調べて見たら、
    胎盤までが赤ちゃんの、みたい。だから、臍の緒のDNAは赤ちゃんの。
    なるほど〜。
    ってすると、お母さんの(子宮壁)と胎盤の関係はどうなってるのかしら?
    自と他の境界ね。
    あ、話しそれるからやめとく。

引用返信/返信 削除キー/
■23681 / inTopicNo.75)  Re[21]: アンデスのキリスト教と悪魔崇拝
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/06/02(Thu) 18:09:45)
    No23680を簡単にしちゃうと、

               ・・・・・・・・・・・・
    「野生の思考」の世界では、

    〈1〉人間と自然とはおなじコミュニティを構成していた。
    〈2〉両者のあいだには交換を媒体とした相互交渉の世界が存在すると“考えられて”いた。
    〈3〉儀礼を媒体として人間と人間、人間と自然とが直接結びつけられていた。
    〈4〉自然を崇拝。
    〈5〉自然の神々は、農作や家畜や生命や鉱石などの富と、死や不幸や病気などの破壊をもたらす“両義的な存在”であった
    〈6〉悪魔の観念は存在しなかった。
    〈3〉共同体を単位とした贈与交換の経済。
    〈4〉互酬的な共同体。

    このような「野生の思考」のなかに、
    近代西洋の資本主義的な生産と交換のシステム(商品生産の世界−商品経済、貨幣と賃労働)のが、強制的に他者(他集団)支配的におこなわれた。

    でも、
    こういうなかで、「野生の思考」は、
    〈5〉それを忌避しつつ折り合いをつけてきた。
    〈6〉キリスト教と悪魔崇拝、生産の神と破壊の神の二分割は存在せず、
    〈7〉自分たちの経済と宗教生活を再組織化してきた。
    〈8〉商品経済をみずからの生に織り込みながら、自分たちの世界を組織してきた能動的な行為。

                ・・・・・・・・・・・・・

    〈5〉に「自然の神々」ってあるけど、たしかギリシア神話でも「神々」だったと思う。

    ん〜ん、だいぶすっきりしてきたかも。

引用返信/返信 削除キー/
■23680 / inTopicNo.76)  アンデスのキリスト教と悪魔崇拝
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/06/02(Thu) 18:07:53)
    No23582から「野生の思考」にかかわるところを抜き出してみると、

               ・・・・・・・・・・・・・
    (タウシグによると)
    (1)世界システムの包摂される以前のアンデスの農民経済を支配していたのは、共同体を単位とした贈与交換の経済であった。そこでは人間と自然とはおなじコミュニティを構成し、両者のあいだには交換を媒体とした相互交渉の世界が存在すると考えられていた

    (2)互酬的な共同体から乖離と功利主義的な精神の選択が、悪魔との契約として周囲からは解釈されるのであり、このようにして人びとは資本主義的なハビトゥスの導入を断罪しているというのである

    (3)スペイン人が到来する以前、アンデスの農民たちがおこなっていた自然の崇拝

    (4)スペイン征服以前には悪魔の観念はアンデスには存在しなかった

    (5)過去の贈与交換経済の世界では、儀礼を媒体として人間と人間、人間と自然とが直接結びつけられていたが、商品生産の世界では人間のあいだのつながりも人間と自然のあいだのつながりも断ち切られ

    (6)インディオたちが土地や農具などの生産手段を有していた過去の時代には、アンデスの自然の神々は、農作や家畜や生命や鉱石などの富と、死や不幸や病気などの破壊をもたらす両義的な存在

    (オリヴィア・ハリスによると)
    (7)農民たちは嫌々ながら貨幣経済に包摂されたのではなく、むしろみずから積極的にそれを望み、それをとりこむことで自分たちの経済と宗教生活を再組織化してきたという

    (8)ここにはタウシグが述べたような、キリスト教と悪魔崇拝、生産の神と破壊の神の二分割は存在しないのであり、鉱山、農業、牧畜、貨幣等はいずれも富の根源としてアンデスの農民たちに評価されている。かれらはものようにして商品経済をみずからの生に織り込みながら、自分たちの世界を組織してきた能動的な行為者

                ・・・・・・・・・・
    こういうところかな。

    そして、竹中さんは、
    [マルクス主義を柱とするタウシグは、賃労働と商品経済の浸透を破壊と見なすロマンチシズムを引きずっており、そのためその記述はある意味で一面的になり、人びとが商品経済の浸透のなかでつくりあげたであろう対抗や変形の実践を見えにくくさせている。]
    とも言ってる。

    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■23582 / inTopicNo.77)    『人類学的思考の歴史』
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/29(Sun) 16:17:21)
    植民地についてネットで調べたのは、『人類学的思考の歴史』のなかに書いてあったから。
    その一節を書き写して見ます。

                 ***************

    3 アンデスのキリスト教と悪魔崇拝 p316−

    最初にとりあげるのは、アメリカ合衆国の人類学者マイケル・タウシグが論じるアンデス先住民世界と世界システムの関係である。16世紀に中央アメリカおよび南アメリカを征服したスペインは、旧インカ帝国が保有していた金をはじめ、銀や銅、錫などの地下資源に注目した〈6〉。スペインは過酷な労働にインディオ〈7〉を動員することでその人口を十分の一にまで激減させたとされるが、現地の人びとが世界経済への包摂過程をどのように概念化したかを、とくに宗教世界の変化に焦点を当てながら論じているのがタウシグの『南部における悪魔と商品フェティシズム』である(Taussing1980)。かれがここでとりあげているのは、コロンビア南部のプランテーション農民(*1)における悪魔崇拝と、ボリビアの錫鉱山で働く鉱夫たちの悪魔崇拝である。

    p317タウシグによれば、世界システムの包摂される以前のアンデスの農民経済を支配していたのは、共同体を単位とした贈与交換の経済(*2)であった。そこでは人間と自然とはおなじコミュニティを構成し、両者のあいだには交換を媒体とした相互交渉の世界が存在すると考えられていた(ibid.:155)。しかしながら、プランテーション農業のかたちであれ鉱山開発のかたちであれ、貨幣と賃労働の導入は共同体的な生産関係を大きく変え、その外部へと切り出される諸個人を生み出した。コロンビアのプランテーション農園で働く農民たちは、仲間には内緒で悪魔と契約することで、仲間の水準を超える高い収量と賃金を手にすることができる。しかし、そうして得られた賃金は土地や家畜などの生産財には投資できないので(たとえそうしたとしても、それらは不毛になるはずである)、やがて必然的に死と不毛に襲われていくという(ibid.:133)。互酬的な共同体から乖離と功利主義的な精神の選択が、悪魔との契約として周囲からは解釈されるのであり、このようにして人びとは資本主義的なハビトゥスの導入を断罪しているというのである(ibid.:135)。

    タウシグがさらに力を入れて論じるのは、ボリビアの錫鉱山で働く鉱夫たちのケースである。スペイン人が到来する以前、アンデスの農民たちがおこなっていた自然の崇拝は、スペイン人神父にとって悪魔崇拝として禁止された。後者はその祭壇を破壊し、祭祀に用いられていたミイラや儀礼的道具を解体したため、インディオたちはそれを集めて祭壇のようにし、崇敬のためにその上に十字架を立てた。しかしそれを発見した神父たちは、それを暴いて粉々に粉砕したので、インディオたちはその破片を集めて地中に埋めることを余儀なくされた。スペイン征服以前には悪魔の観念はアンデスには存在しなかったが、人間によって祀られなくなった自然の神々は、これらの祭祀の破片がそうであるように、地下で再生する破壊と飢えと血を求める悪魔みなされるようになったというのである(ibid.:172sq)。

    今日もなお共同体的慣行の残る農村とは異質な、賃金とノルマを課せられた地下の世界は「悪魔」ティオの管轄する領域とされ、そこで働くインディオたちはイエスの名を口にすることもなければ、十字架を切ることもない。ティオは鉱山の入り口に、錫の鉱石を集めてつくられた「ひとがた」として存在し、そのペニスは直立し、口は人びとの血を求めてつねに開いたままである(ibid.:143)。過去の贈与交換経済の世界では、儀礼を媒体として人間と人間、人間と自然とが直接結びつけられていたが、商品生産の世界では人間のあいだのつながりも人間と自然のあいだのつながりも断ち切られ、鉱夫は悪魔との密接の契約以外のつながりをもたなくなる。その結果、かれらの多くは年季奉公の終わりには、金銭的にも身体的にも最初に鉱山に入ったときより貧しくなり、すべてを失って故郷に戻るというのである。

    p318インディオたちが土地や農具などの生産手段を有していた過去の時代には、アンデスの自然の神々は、農作や家畜や生命や鉱石などの富と、死や不幸や病気などの破壊をもたらす両義的な存在であった。しかし、一切の生産手段を失ったかれらが今日恐れつつ崇敬するそれは、地下世界に追いやられて、破壊のみをもたらす悪魔とされた。このようにして、資本主義的な生産と交換のシステムに同化できない農民や鉱夫たちは、自然の循環から切り離され、もはや自分たちがコントロールできなくなった過去の神々と悪魔と見なすことで、それを忌避しつつ折り合いをつけてきた。その意味で、悪魔崇拝とは、過去の農民的な生活様式と賃労働を中心とした今日の資本主義様式とを媒介する。ある種の認識枠組だというのである(ibid.:17,37)。

    マルクス主義を柱とするタウシグは、賃労働と商品経済の浸透を破壊と見なすロマンチシズムを引きずっており、そのためその記述はある意味で一面的になり、人びとが商品経済の浸透のなかでつくりあげたであろう対抗や変形の実践を見えにくくさせている。

    これに対し、おなじボリビアの錫鉱山をとりあげながら、異なる解釈をしているのがオリヴィア・ハリスである。彼女によれば、農民たちは嫌々ながら貨幣経済に包摂されたのではなく、むしろみずから積極的にそれを望み、それをとりこむことで自分たちの経済と宗教生活を再組織化してきたという。その証拠とされるのが、農民たちが抱いている富と豊饒の神の観念である。

    たとえば農産物を実らせる豊穣の神パチャマナは、一般に「悪魔」ティオの妻と見なされ、祭祀や儀礼の対象となっている(Harris 1989:250)。またティオはカーニバルの中心的存在とされ、もっとも熱心な踊りが捧げられるのもそれである。このようにして、ティオとその妻は単に悪や不幸やカオスや死の根源であるだけでなく、適切な供物が捧げられたなら、富と繁栄を約束する存在でもある。その意味で、ここにはタウシグが述べたような、キリスト教と悪魔崇拝、生産の神と破壊の神の二分割は存在しなのであり、鉱山、農業、牧畜、貨幣等はいずれも富の根源としてアンデスの農民たちに評価されている。かれらはこのようにして商品経済をみずからの生に織り込みながら、自分たちの世界を組織してきた能動的な行為者だとして、タウジグの議論を批判するのである(ibid.:261)。

    註〈6〉
    とくにアンデスが産出した銀は、それまでの金に代わる世界貨幣として各地に流通し、世界の貨幣システムに大きな影響を与えた。工業的に中国やインドに遅れを取り、そのために通貨の地金になる金の流出に悩んでいたヨーロッパが、対アジア貿易で優位に立ち、領域内の農業と工業の発展に余力をまわせるようになったのは、ひとつにはこのアンデスの銀によるものであった(Braudel 1946, Watson 1967)。それはスペインが、最初の超大国として成立するのを助けたのである。

    註〈7〉
    近年では「インディオ」ということばは避けられる傾向にあるが、ここではタウシグの議論の力強さを引き継ぐべく、この語をそのまま用いることにする。

                    ************

    (*1)(*2)はわたし意味が分かんなかったので、ネットで調べてみました。

             ・・・・・・・・・・
    (*1)プランテーション農業plantation agriculture
    熱帯,亜熱帯で行なわれる栽植農業。欧米人が資本,技術を提供し,熱帯の労働に耐え得る先住民や移入労働者の安価な労働力を利用して,モノカルチャー経済を行なう企業的農業経営。

    (*2)贈与(文化人類学)
    一般に、人に物品を無償で与えることを意味する。人に物品を有償で与える場合には、それは売買、交換などとよばれ、贈与行為とは区別される。しかし、ある贈与行為に対して、受け手側から贈り手側に返礼としてなんらかの贈与が行われることも多い。その場合には、結果的にみて、こちらが相手方に与えた物品と、こちらが相手方から受け取った物品との交換が成立しており、最初にこちらが相手方に物品を与えた行為は無償の行為ではなかったと考えることもできる。したがって、無償であるか有償であるかは、かならずしも明確に区別できるわけではない。たとえ返礼を受けたとしても、贈り手がまったく返礼を期待していなかったならば、それは無償の行為であったとすることは可能である。
    人間の行為は,その対象が個人,集団,あるいは超自然的存在,そのいずれであっても,なんらかの応報を求めて行われる。ことに伝統的社会における制度には,人あるいは集団が相互に有形・無形のものを,特定の期待感や義務感をもって,与え,返礼しあうことによって成立しているものが多い。このような意味で,人間の行為の多くは相互的行為,あるいは一種の交換ということができよう。このような行為を動機づける観念,あるいはこの種の観念によって基礎づけられた社会関係を互酬と呼ぶ。
                   ・・・・・・・・・

    長くなちゃたので、わたしのは後で。

引用返信/返信 削除キー/
■23580 / inTopicNo.78)  NO TITLE
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/29(Sun) 13:47:08)
    いろいろ調べて考えてるうちに、わたしなにを見えるようにしているのか分かんなくなちゃうのね〜。
    たまに始まりを思い起こさなくちゃならない、わたしのばあい。

    ん〜ん、

    「野生の思考」?
    すでに近代西洋の知のあり方(分類・秩序・体系化という仕方)に家畜化された思考になってる?わたしは、「野生の思考」っていうのがどんなのかを知りたいっていうこと?

    レヴィが見ているように、「野生の思考(原初的思考)」も一種の「科学的思考」ってしていること、
    人を〔支配/被支配〕と分けて見るばあいでも、けっきょく「人間の」よね、っていうこと?

    人類学のつづけます。

引用返信/返信 削除キー/
■23578 / inTopicNo.79)  Re[17]: 今日の講義から
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/29(Sun) 13:41:41)
    ■23569、田秋さん、ありがとございま〜す。
    社会科とか歴史のお勉強、わたし疲れる〜、でももうちょっと調べてく。

    >人類の歴史が始まって以来、人間は常に集団を作り、国家を作り、戦争を行ってきた。<
    人は昔から集団で生活してきたのは本当のことだと思う。
    でもここからいきなり
    >国家を作り、戦争を行ってきた。<
    にもっていくのがよくわかんない。

    「戦争」っていうのは国間で行われるのをそう呼んでるんだと思う。
    第二次世界大戦後、人類(人間)は反省して、戦争はやめましょう、ってなった“はず”よね。
    でも違った。
    こういうのって「国」(国民)っていう人間集団の括り方(分類の仕方)で見てるよね。
    そして、「戦争」っていうのは、いわゆる「強国(軍事的、経済的な勢力を有している国)」間のお話し。

    >「王様(実は人間)の本能」<
    土地を拡大したい、っていうのは王様(人間)の本能から来るものなのかもね。
    ある土地に、王様ひとりだけが住んでるわけじゃないよね。他にも人が住んでるよね。
    王様と他の人たちの関係性(ならしめてるもの)もわたし見ようとしちゃうのね。
    王様を支配者、他の人たちを非支配者ってして見ると、支配者の、じゃなくて、非支配者の、ね。
    どうしてその人間が王様であることが可能になってるのか、っていう感じかな。

    いまはわたし第一次世界大戦以前の人間(人と人との関係性)の集団的関係性について見てるところで、ここんとこもう少しつづけます。

引用返信/返信 削除キー/
■23569 / inTopicNo.80)  今日の講義から
□投稿者/ 田秋 -(2022/05/28(Sat) 22:57:36)
    こんばんは、悪魔ちゃん

    今期受講している《現代の国際政治》の講義が今日ありました。お題は「軍備と安全保障」。何か悪魔ちゃんの役に立つかも知れないと思い、教科書の冒頭を書き写してみます。

    人類の歴史が始まって以来、人間は常に集団を作り、国家を作り、戦争を行ってきた。暴力による領土の支配が統治の基礎にあり、他国による侵略から国土を防衛するために軍備を整えるが、それがしばしば他国を侵略する手段として用いられてきた。しかし、第一次世界大戦、そして核兵器が初めて使われた第二次世界大戦を経て、人類は戦争によって国際秩序を変更することを違法とし、戦争のない世界を目指すこととなった。

    引用オワリ

    この教科書には2021年12月の事項が書かれています。22年4月からの授業用の教科書なのでその辺りががギリギリのタイムリミットだったのでしょうが、講師並びにスタッフは(どうせ勃発するのなら)ロシアのウクライナ侵攻が原稿に間に合う時期に起こってくれたら!?と思ってるかもね。

    それはともかく、引用した箇所には、人間、集団、国家、戦争という言葉が出てきます。戦争というのは国家権力同士のぶつかり合いだとも言えます。

    王様は昔から自国の拡大願望がありました。秦の始皇帝、マケドニアのアレクサンドロス大王、モンゴルのチンギスハン、フランスのナポレオンなど。宗教も形態は違いますが世界制覇を狙っていた(いる)とも言えます。何故と問われれば、それなりの理由はあるのでしょうが、「王様(実は人間)の本能」と考えれるのが一番納得出来る気もします。
引用返信/返信 削除キー/
■23566 / inTopicNo.81)   善悪の彼岸
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/28(Sat) 20:12:47)
    No23565 のおわりのほうで言ったこと、

    「悪人がいるっていうことを示すことじゃない」っていうの、

    ニーチェの、にもからまるよね? パニさん。
引用返信/返信 削除キー/
■23565 / inTopicNo.82)   「権力」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/28(Sat) 18:47:50)
    No23493のネットの「政治」のなかに、
    〔政治を政策(意思)決定という角度からみる場合、そこに当然「権力」の問題が関連してくる。なぜなら「権力」はラスウェルによれば、「意思決定への参加」にほかならないからである。〕ってあった。

    〔「権力」はラスウェルによれば、「意思決定への参加」にほかならないからである〕っていうのはわたしどうかと思うけど、
    〔政策(意思)決定〕っていう面では「権力」とは無関係とはわたし思わない。

    で、「権力」っていうのをネットで調べたら、つぎのようなことが書いてあった。

              ・・・・・・・・・・・
    ある人間(集団)が自己の意思に沿って他人(他集団)を行動させるとき,その人間(集団)が権力をもつという。
    実際は,権力は、
    (1)他人をその意に反しても実力で強制させるさまざまな形の〈強制力〉
    (2)他人に利益を分配する〈価値賦与〉
    (3)他人の内面的な服従をかちとる〈権威〉
    (4)他人を意識させずに服従させる〈操縦〉
    などという多元的な側面からなる。
    近代国家権力はまず強制力とりわけ暴力の集中として始まったが,現代国家においては,権威による服従の獲得と大衆操作が重要な権力手段となる。
                ・・・・・・・・・
    っていうことみたいよ。

    他者を支配したいと思ってる人はこういう手口があるっていうことは参考になるんじゃないかしら?
    被支配されたくない人だったら、こういう手口がある、っていうのを知ってた方がいいかも。

    他者を支配したい人にとって、(1)が顕著に顕れた人間の過去の事例があるみたい。植民地の人-間のように。

    ん、今もあるのかな?ロシア国人みたいに。

    でも、「人類学」っていうの、「悪人がいるっていうことを示すことじゃないことをしてるんだって、わたし見てる。

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■23531 / inTopicNo.83)   ある人間たちの所業
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/27(Fri) 19:51:45)
    「人類学」と連関する、「国」と「民族」について考えてるんだけど、「国(国民)」とか「民族」ってどちらも〈人間の集団〉を意味してて、それって、人-間の1つの括り方(分類の仕方)って見てる。

    たしか人類学って
    No22811によると、
    〔近代西洋の知のあり方に対する異議申し立てとして成立したのであった〕
    ってある。
    西洋人の歴史のお勉強もしなくちゃならなくなってる。ネットでいろいろ調べてるんだけど、歴史や政治を見てると、な〜んか暗い気持ちになる。

    いまは「植民地」について。

    コトバンクからのを一部写して見ます。

               ・・・・・・・・・
    16、17世紀以降、ヨーロッパ諸国はヨーロッパ以外の地域を征服して、経済的収奪や政治的支配の対象とし、それらの地域を植民地とよんだのである。ここに植民地は単なる集団的移住地とは異なった異民族支配の地域、宗主国に従属する地域を意味するようになったのである。 

    いわゆる大航海時代の16世紀、中・南アメリカにおいては植民地収奪の惨憺(さんたん)たる光景が進行した。スペインの植民地経営は略奪政策の典型であり、先住民(インディオ)は奴隷化され、労働を強制された。強制労働による死亡や自殺、反乱の失敗による殺害などによって、植民地における先住民の人口は急速に減少した。この人口の激減に対する措置としてとられたものが、アフリカからの黒人奴隷の輸入である。黒人奴隷の輸入と使用は15世紀末ごろからポルトガルなどで行われていたが、16世紀前半、スペインのカルロス1世は年間4000人の黒人奴隷を供給する特権をフランドル人に与えた。ここに近代植民地奴隷制の起源がある。スペインとポルトガルの中・南アメリカ支配に伴って植民地奴隷制が発展したが、17世紀に入ると、オランダ、フランス、イギリスに覇権が移り、奴隷貿易が盛んとなった。
     
    黒人奴隷はアフリカで捕らえられ、「奴隷海岸」などからアメリカ大陸や西インド諸島へ送られ、売買された。16世紀以降、全体としてどれほどの黒人が西半球へ送られたかは正確にはわからないが、輸送中に約3分の1が死に、西半球に着いたのは3分の2程度であったといわれ、合計約2000万人がアフリカから流出したという計算がある。フランス革命の影響などによって19世紀中葉には植民地奴隷制はほぼ廃止された。しかし、奴隷制廃止による新しい労働力の必要と、さらにヨーロッパ資本主義の発達によるインド・中国における窮乏農民の流出などの事情によって大量の人口移動が行われた。かくて、とくに19世紀後半において世界の民族分布は大きく変貌した。
     
    スペイン、ポルトガルにかわって、オランダ、イギリス、フランスが新たに植民地争奪戦に登場した。これらの国々はどれも東インド会社を設立し、貿易の独占権を与え、東インド会社を通じて植民地を獲得した。各国の間に激しい植民地の争奪戦が展開したが、結局、七年戦争(1756〜63)後イギリスが圧倒的な勝利を収め、フランスの北アメリカ植民地は失われ、制海権はイギリスに帰した。かくてイギリスは広大な植民地を支配し、その「世界の工場」としての優越を誇るようになった。

    19世紀において資本主義の発達は著しく、工業の発達による生産力の増大はいよいよヨーロッパ列強と後進的諸地域との格差を広げ、後進的諸地域はますます従属化していった。

    ヨーロッパ資本主義が発展するにつれて植民地諸地域ではモノカルチュアが形成された。キューバの砂糖やブラジルのコーヒー、メキシコの綿花のように世界市場に輸出するために単一の作物を栽培し、それがその地域のおもな部門になっているものをモノカルチュアとよんでいる。これらの地域では経済の諸部門が直接的、有機的に連携しているのではなく、世界市場を媒介として絡み合っているのであり、その地域の経済は植民地の宗主国あるいは有力な資本主義国の利害に左右されざるをえない。たとえばブラジルは形式的には独立国であるものの、実際上はコーヒー栽培に特化され、その輸出を握るイギリス、のちにアメリカ合衆国に経済的に従属する半植民地的な状態にあったのである。

    1870年代から第一次世界大戦に至る時期は「帝国主義」の時代とよばれる。この間にヨーロッパの強国は競って海外領土の獲得に乗り出し、遅れて日本、アメリカ合衆国もこの競争に加わった。とくに「暗黒大陸」とよばれ、無主地とみられたアフリカは、その奥地の事情が知られるにつれて、好個の領土的分割の対象とされた。20世紀初めにはアフリカはほとんどヨーロッパ諸国の領有するところとなった。ここに設定された人為的な国境は、今日のアフリカにおいて深刻な問題を引き起こしている。 …‥
                ・・・・・・・

    「強国」っていうの、「特に軍事的、経済的な勢力を有している国」ってあった。

    こんなこと知ってるよ、いまさら何言ってるの、バカじゃない、って言われそうだけど、ここでのお喋りもわたし用ね。

    「野蛮人」と呼ばれるべきはどっちなのかしら。

    「国」っていうのはこういうことなのかもしれない。
    で、わたしこうして見た、「国」っていうのは、
    〈地球上の土地とそこで生活している人たちの支配の線引き〉
    って。
    相互人間集団の支配/被支配の関係は、国内におけるものと、植民地のように国外とにおけるものとに分けられると思う。

    ふと思ったんだけど、
    「民族」としての人-間には、ひょっとしたら「国」という概念がなかったんじゃないかしら?
    って。

引用返信/返信 削除キー/
■23530 / inTopicNo.84)   テロリズム
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/27(Fri) 19:38:02)
    ウィキで「テロリズム」を調べたら、

    〔テロリズム(英語: terrorism)とは、政治的な目的を達成するために暴力および暴力による脅迫を用いることを言う。「テロ」と略される。

    概要
    『日本大百科全書』によると、テロリズムとは「政治的目的を達成するために、暗殺、殺害、破壊、監禁や拉致による自由束縛など過酷な手段で、敵対する当事者、さらには無関係な一般市民や建造物などを攻撃し、攻撃の物理的な成果よりもそこで生ずる心理的威圧や恐怖心を通して、譲歩や抑圧などを図るもの」とされている。

    政治的目的の存在
    政治的目的をもつという点で、テロリズムは「単なる暴力行為」とは異なる。

    その「政治的目的」にはさまざまなものがあり、たとえば政権の奪取や攪乱・破壊、政治的・外交的優位の確立、報復、活動するための資金調達、自己宣伝などがある。そうした「政治的目的」のためにハイジャック、暗殺、無差別殺人、粛清、拉致、誘拐、爆破、自爆などの手段がとられ、心理的な効果をねらって多くの市民が行き交う公共の場や、経済的・政治的な要地が攻撃の対象とされることが多い。〕

    ってあった。

    「政治」っていうのがキモになってるよね。
    「政治」っていうのは「集団の政策(意思)決定過程」だった。

    ロシア国民が今行てる行為、なんか似てるきがしない?

    ん〜ん、アメリカのあるビルに飛行機が突っ込んだことあったのをニュースで聞いたことある。「それはテロである」、って言ってるのはアメリカ国民よね。

    テロ行為を最初に始めたのは誰らかしらね。



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