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■24106 / inTopicNo.49)  人類学(人間学)
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/06/23(Thu) 18:57:04)
    人類学(人間学)のを読んでいろいろ考えてるんだけど、

    なんかおかしいのね。そこんところ、考えて見たんだけど、
    で、思ったのね。
    二つのテーマを同時に考えようとしてるんじゃないか、って。

    a.認識の2様式
    と、
    b.わたしはどのような世界で生きているのかしら?

    っていうこと。

    この二つがわたしのなかでは連関してない、っていうこと。

    aとbがどのように連関してるのか、知ってる人いたら、なんか言ってみて。





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■24017 / inTopicNo.50)  Re[44]: 野生と文明
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/06/19(Sun) 19:59:10)
    あ、floraさんには関係ない話しだったね。

    文明人として生きることを価値としてる見たいだから。

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■24014 / inTopicNo.51)  野生と文明
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/06/19(Sun) 19:23:43)
    ほら、「人類学(人間学)」で「文明人」っていうの出てくるから、
    ネットでちょっと調べて見たよ。

    「野生」は、
    〔動植物が自然に山野で育つこと〕


    「文明」は、
            ・・・・・・・・・・・・・・・
    日本大百科全書(ニッポニカ)「文明」の解説

    日本では明治初年、「文明」と「開化」ということばがほぼ並行して使われ始め、二つをあわせた文明開化は近代化・西欧化のスローガンとされた。両語とも、ラテン語のcivis(市民)やcivilis(市民の)、およびcivitas(都市)に由来するcivilizationの訳語である。明治中期から大正にかけて、文明開化から開化が除かれて文明になり、これと前後して、今日使用されている意味での文化cultureも広く使われるようになった。

     文明と文化ということばの使い方には二つの流れがある。第一は、文明と文化は連続したものであり、都市化、高度の技術、社会の分化、階層の分化を伴う文化を文明とする。各文化、各文明はそれぞれ独自な個別性と独自性をもちつつ地球上に多元的に存在し、地球上の部族文化は大勢として前近代的都市文明へ、さらに近代的都市文明へ移行したとされる。この考え方は、第二次世界大戦後に文化人類学が普及するにつれて日本でも一般化した。他方、第二は、戦前から日本に普及している考え方である。これは、文明と文化を連続したものではなく、かえって対立したものとしてとらえ、精神的所産を文化、物質的所産を文明とする。西欧では、古くからcivilizationが今日の「文明」と「文化」の両方をさしていたが、19世紀後半、ドイツの民族学者とイギリスの人類学者が第一の用法を提示して以来、人類学者の多くは第二の用法を避けている。第二の用法は、ドイツの哲学、とくに新カント学派の影響を強く受けている。これは、物質的・技術的文明が累積され発展するのに対して、精神的・価値的な文化は1回限りのものであり、進歩という尺度によっては測れないとする。
    ・・・・
              ・・・・・・・・・・・・・・・

    どうやらわたしが生きている世界は、西欧化された世界内存在者としての生のあり方みたい。
    言いかえると、わたしは、近代西洋の知のあり方に家畜化された人間の生のあり方のうちで、とも見れる。

    たしか近代西洋は、1500年ごろから、ヨーロッパ人による植民地の時代、自然科学の進歩、資本主義の発展、哲学者では、デカルト(1596−1650)、カント(1724−1804)。で、科学、客観、合理、資本、このような主義。

    こんど、日本で、選挙あるみたいじゃん。
    政治家さんになりたい人たちは、どんなことを言いうのかしらね。



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■23987 / inTopicNo.52)   ハンナ・アーレント
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/06/18(Sat) 15:50:10)
    ハンナについてはここニークラで知ったんだけど(ありがと)、ハイデガーが出てきたのでネットでちょっと調べて見たんだけど、彼女を哲学者名簿に入れることにした。

    ネットで調べたのを少し写して見ます。

                ・・・・・・・・・・・・
    ハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906年10月14日 - 1975年12月4日)は、ドイツ出身の哲学者、思想家である。ユダヤ人であり、ナチズムが台頭したドイツから、アメリカ合衆国に亡命した。のちに教鞭をふるい、主に政治哲学の分野で活躍し、全体主義を生みだす大衆社会の分析で知られる。「アーレント」は「アレント」とも表記する。
    ・・・・
    *大学時代
    1924年の秋、マールブルク大学でマルティン・ハイデッガーと出会い、アーレントは哲学に没頭する。本人はこの哲学へののめりこみを、「初めての情事」という形で表現している。なお、当時既婚であったハイデッガーとは一時不倫関係にあった。また、ここで出会ったハンス・ヨナスとは終生の友人となり、同大学において共にルドルフ・ブルトマンの新約聖書のゼミを受講する。
    ・・・・
    1951年に『全体主義の起源』を著し、全体主義について分析した。その後も、みずから経験した全体主義およびそれを生み出すにいたった西欧の政治思想を考察した。
    ・・・・
    *思想
    アーレントは、身をもって経験した全体主義の衝撃―「起こってはならないことが起こってしまった」―から、政治についての思索を開始するに至った。1945年、以下のような発言をしている。

    「リアリティとは、『ナチは私たち自身のように人間である』ということだ。つまり悪夢は、人間が何をなすことができるかということを、彼らが疑いなく証明したということである。言いかえれば、悪の問題はヨーロッパの戦後の知的生活の根本問題となるだろう…」

    彼女の政治哲学の原点は「人間のなしうる事柄、世界がそうありうる事態に対する言語を絶した恐れ」であった。なぜ人間にあのような行為が可能であったのかという深刻なショックと問題意識から、彼女は政治現象としての全体主義の分析と、その悪を人びとが積極的に担った原因について考え続けることになる。

    *活動的生活
    アーレントは、人間の生活を「観照的生活」(vita contemplativa)と「活動的生活」(vita activa)の二つに分ける。

    観照的生活とは、プラトンの主張するような永遠の真理を探究する哲学者の生活である。
    活動的生活とは、あらゆる人間の活動力を合わせたものである。
    活動的生活は主として、活動(action/Handeln)、仕事(work/Herstellen)、労働(labor/Arbeiten)の三つに分けることができる。
    「活動」は、人間が関係の網の目の中で行う行為であり、平等かつお互いに差異のある人間たちの間にのみ存在しうる。個々人は自発的に「活動」を開始し、その行為の結果として自身が何者(who)であるかを暴露する。それはちょうどギリシアにおけるダイモーン(守護霊)のように、自身には決して明らかにはならないが他者には明白ななんらかの徴である。
    「仕事」は、職人的な制作活動に象徴される目的−手段的行為をさす。ある特定の目的の達成をめざして行われる行為はアーレントにとって「仕事」であった。「活動」はその結果として語り継がれる物語以外の何物をも残さないが、「仕事」はその達成された目的の証としての最終生産物を残す。最終生産物の産出に示される「仕事」の確実性は古来より高く評価されており、それ故にギリシア人は本来「活動」そのものであった政治を「仕事」によって行われるよう置き換えることを試みた、とアーレントは指摘している。
    「労働」は人間のメタボリズム(?)を反映した行為であり、生存と繁殖という生物的目的のため、産出と消費というリズムにしたがって行われる循環的行為である。「活動」や「仕事」と異なり、人間は生存に伴う自然的な必要を満たすために「労働」を強いられる。それゆえ古来より労働は苦役であり続けたが、アーレントによればマルクスによって人間が行うもっとも生産的な行為として位置づけられた。
    ・・・・
    ほかにも革命家のヒロイズムにごまかされることなく、彼らが「人間のリアリティに対して無感覚になった」ことをみるべきだとして、批判している。
              ・・・・・・・・・・・・・

    わたしが特に気になったのは、

    (1)〔リアリティとは、『ナチは私たち自身のように人間である』ということだ。つまり悪夢は、人間が何をなすことができるかということを、彼らが疑いなく証明したということである。言いかえれば、悪の問題はヨーロッパの戦後の知的生活の根本問題となるだろう…〕 っていうところ。

    あのような酷いことをした人-間も「同じ人間」って見てるのね。
    自称文明人も未開人も、同じ人間って見るのと似てる。
    「野生の思考」では”悪さ”を〈させるもの〉――超自然を想像したのよね。
    そしてハンナは「悪の問題はヨーロッパの戦後の知的生活の根本問題となるだろう」って言ってる。

    (2)〔活動的生活〕を見ているところ。
    現象学では「生活世界」を問題としてる。

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■23964 / inTopicNo.53)  「野生の思考」のわたしの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/06/17(Fri) 18:32:00)
    っていうことで、
    No23860
    【「悪い男が哀れな子どもを殺した」がチヌーク語では、「男の悪さが子供の哀れさを殺した」となる。】
    を見て見ます。

    「野生の思考」においては、「その男は悪人だ」とは見てないっていうこと。その男の「人」が「悪」ではなくて、その「人」に〈そうさせるもの〉があって、〈そうさせるもの〉がその男の人に悪いことをさせた、って見てるんじゃないかしら?

    「野生の思考」にも、“悪さ”はあるんだけど、「悪人」っていう見方は“なかった”のかも。

引用返信/返信 削除キー/
■23884 / inTopicNo.54)  (間奏) 根本的な問い
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/06/12(Sun) 20:32:07)
    ふと思ったんだけど、

    カントやニーチェ、

    「結局、人間とはなんであるのか?」

    っていう問いに応じようと探究してたんじゃないかしら?

    って。
引用返信/返信 削除キー/
■23879 / inTopicNo.55)     「野生の思考」のわたしの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/06/12(Sun) 15:46:34)
    まだ
    No23860のつづきね

    No23582(タウシグによれば)の、
    「スペイン人が到来する以前、アンデスの農民たちがおこなっていた自然の崇拝は、スペイン人神父にとって悪魔崇拝として禁止された。後者はその祭壇を破壊し、祭祀に用いられていたミイラや儀礼的道具を解体したため、インディオたちはそれを集めて祭壇のようにし、崇敬のためにその上に十字架を立てた。しかしそれを発見した神父たちは、それを暴いて粉々に粉砕したので、インディオたちはその破片を集めて地中に埋めることを余儀なくされた。スペイン征服以前には悪魔の観念はアンデスには存在しなかったが、人間によって祀られなくなった自然の神々は、これらの祭祀の破片がそうであるように、地下で再生する破壊と飢えと血を求める悪魔みなされるようになったというのである。」
    というところを見て、

    スペイン人神父はキリスト教神父のことだと思うけど、「悪魔」っていう観念はキリスト教が生み出したのかな?スペイン人神父がインディオたちの「自然崇拝」を「悪魔崇拝」として、祭壇を破壊し、祭祀に用いられていたミイラや儀礼的道具を解体したり粉々に粉砕しちゃったのね。
    それまでのインディオたちには「悪魔」という観念がなかったようだけど、インディオたちは、そういうことを〈させるもの〉を「悪魔」とスペイン人は呼んでるんだな、って思ったんじゃないかしら?

    スペイン「人」が、じゃなくて、「悪魔」が、かれらに〈そうさせてる〉、って。


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■23878 / inTopicNo.56)  Re[38]: 「野生の思考」のわたしの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/06/12(Sun) 15:06:19)
    ■23866、
    マジモンさん、
    なるほど、
    <ミクロ世界(小視化)>と<マクロ世界(巨視化)>って言いうんで区別する、っていうのもありかも。

    わたし「科学」っていうの、〈科に分けて学ぶ〉って、簡単に見てる。
    だから科学者は世界を科に分けられたある”一つ”を専門にしてる、っていうことで、それから”すべて”を見られるわけじゃないって思ってる。

    わたし、いろんな専門家を寄せ集めてみたところで全体が見えてくるとは思えないし、たしかに専門家(科学者)は知的能力がすごいのかもしれないけど、当の科学者だって〈世界における(への)存在として人間〉っていうことにはかわりない気がしてる。

引用返信/返信 削除キー/
■23866 / inTopicNo.57)  Re[37]: 「野生の思考」のわたしの
□投稿者/ ギアッチョ -(2022/06/11(Sat) 21:17:26)
    >「その男の人で、その時で、その場所で、穀物倉が崩れ落ちて、死んでしまった、のは、どうして?」
    >この問いに、人間の科学や理性はどのように説明してくれるのかしら?

    はい、こんばんわ、悪魔ちゃん

    なにか、ミクロ世界とマクロ世界が浮かんだな。

    ミクロ世界(小視化)は入口と出口がある。
    マクロ世界(巨視化)は入口と出口がない。
    よってミクロ世界とマクロ世界は一致しない。

    ミクロが科学的思考で、マクロが野性的思考ではなかろうか?
引用返信/返信 削除キー/
■23862 / inTopicNo.58)  Re[36]: 「野生の思考」のわたしの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/06/11(Sat) 18:31:44)
    No23860 のつづきね。

    No23070
    「穀物倉が崩れ落ちてある男の人が死んでしまった」、この出来事において、
    「その男の人で、その時で、その場所で、穀物倉が崩れ落ちて、死んでしまった、のは、どうして?」
    の因果性を考えるとき、「野生の思考(呪術的思考)」ではそこに「妖術」をもちだしているのよね。

    「妖術」っていうのは、〔ある人間が超自然的能力によって、他者に傷、病、死などの不幸、災害を与えること、およびその儀礼的手段〕、
    「呪術」っていうのは、〔超自然的な存在に訴えることによって、病気治療、降雨、豊作、豊魚などの望ましいことの現実を目ざした行為〕、
    だった。

    「超自然」をネットでしらべたら、
    〔自然界の法則や日常の経験をこえて存在し、理論的に説明のつかない神秘的なもの。〕
    ってあった。
    〔自然の法則〕を人間の科学的思考によって見つけられたもの、〔理論〕を人間のいわゆる理性によるもの、って見たとき、でもそれでは説明のつかないこと、っていうものを「超自然(神秘的なもの)」って呼んでる、って見られる。
    こう見たとき、
    「野生の思考」は、人間の科学的思考や理性で、すべての出来事を説明できる、とは思ってない、っていうこと。「超自然は存在する」って見ているんじゃないかしら。
    いいかえると、
    人間の科学的思考や理性からだけでは、すべての出来事の因果性を説明できない。
    こういうことを「野生の思考」は”認めてる”んだと思う。

    「その男の人で、その時で、その場所で、穀物倉が崩れ落ちて、死んでしまった、のは、どうして?」
    この問いに、人間の科学や理性はどのように説明してくれるのかしら?

    「出来事」において、人間の科学や理性では説明がつかないものでも、〈そうさせるもの〉の存在を想像し、すなわち「超自然的存在」を想像し――妖術とか呪術という名をつけ――因果性を説明しようとする。

    このように、「出来事」を包括的・全体性のうちに見ようとするのが「野生の思考」なのかもしれない。

引用返信/返信 削除キー/
■23860 / inTopicNo.59)  「野生の思考」のわたしの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/06/11(Sat) 14:07:43)
    「野生の思考」に戻ろっと、

    No22989に、
    【「悪い男が哀れな子どもを殺した」がチヌーク語では、「男の悪さが子供の哀れさを殺した」となる。また、女の使っている籠が小さすぎることを述べるのに、「女は、はまぐり籠の小ささの中にエゾツルキンバイの根を入れる」という。】
    ってある。

    「悪い男が哀れな子どもを殺した」じゃなくて、「男の悪さが子供の哀れさを殺した」っていうチヌーク語での言い方、翻訳のせいかもしれないけど、
    わたしには奇妙な言い方(考え方)だな〜、って感じてる。

    「野生の思考」におけるこのような言い方(考え方)がどのようなものなのかを、考えていって見ることにします。

引用返信/返信 削除キー/
■23832 / inTopicNo.60)  Re[34]:  人-間
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/06/09(Thu) 21:42:12)
    ■23829、田秋さん、
    了解で〜す。

    わたしも似たようなところがあるかも。

    「知識」、その知識が、本当のことかどうか、信じられるものかどうか、疑いの余地のないものなのかどうか、っていう、信憑性の問題もあるけどね。




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