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■24970 / inTopicNo.1)  Re[90]:  ルース・ベネディクトの
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/07/18(Mon) 18:50:25)
    10 『菊と刀』の政治性
    No24965のつづきの

    ***********

    日本において合衆国においても、地域や職種によって多様な習慣と多様な教育方針とが存在するはずだが、ベネディクトはそれには一向に構わない。彼女の関心はふたつの文化を比較対照し、その差異を強調することにあるからである。彼女は『菊と刀』の全編をあげてふたつの文化を対比させていくが、最終的に彼女が引き出す差異の極地は、「恥」と「罪」の対比である。すなわち、他者の目をつねに意識しつづける日本人と、内面化させた絶対者の目を意識しつづけるアメリカ人との決定的な差異であり、これが東洋と西洋、「未開」と文明のあいだの差異へと拡大してされていくのである。

    さまざまな文化の人類学的研究において重要なことは、恥を基調とする文化と、罪を基調とする文化を区別することである。道徳の絶対的標準を説き、良心の啓発を頼みする社会は、罪の文化と定義することができる。…‥真の罪の文化が内面的な罪の自覚にもとづいて善行を行うのに対して、真の恥の文化は外面的強制力にもとづいて善行を行う。恥は他人の批判に対する反応である。人は人前で嘲笑され、拒否されるか、あるいは嘲笑されたと思い込むことによって恥を感じる。いずれの場合においても、恥は強力な強制力となる。…‥日本人の生活において、恥が最高の地位を占めているということは、恥を深刻に感じる部族または国民がすべてそうであるように、各人が自己の行動に対する世評に気をくばるということを意味する。彼はただ他人がどういう判断を下すであろうか、ということを推測しさえすればよいのであって、その他人の判断を基準にして自己の行動の方針を定める。(ibid:257-259)

    罪を内面化させることのない「恥」の文化をもつ日本人(およびその他の人びと)は、おなじ文化的背景をもつ人びとのあいだでのみ闊達に振る舞うことができる。「かれら」はキリスト教の神のような絶対者も、それゆえ絶対的原則ももたず、状況に応じて振る舞い、体面のみを気にして生きているのだから、それを侵害しないように気を配りさえすれば、「私たち」が「かれら」を支配したり操作したりすることは容易である。ベネディクトは占領統治の基本として、「大すぎもせず、少なすぎもせず、…‥ちょうど適した量の、厳格さ」をもって日本人に臨むべきことをといている(ibid:348)。それはまさに、分別をわきまえた大人が、甘やかされて育ったしつけの悪い子どもに対するときの心得とほとんど変わらないものであった。

    『菊と刀』が政治的文書であるというのは、「文化人類学的理解」にもとづきながら合衆国の占領政策に提言をしているためでも、日本を非軍事化しておいた方が合衆国にとっては有利だと、その将来にわたる政策にまで踏み込んで提言しているためでもない。日本人とアメリカ人を比較対照しながら、両者のあいだに真の対話や相互批判の道を切り開こうとはせず、理解されるべき対象をそれを見下ろす理解する主体、特殊であるがゆえに操作されるべき国民と、それを統べるべき普遍的で絶対的な主体とを、無条件に分離し序列づけている点にこそ、この本が政治的文書である深い理由がある〈33〉。

    この本が書かれてすぐの1950年に『民族学研究』は特集を組み、柳田国男や津田左右吉、和辻哲郎といった錚々たるメンバーに書評を依頼している。そのうち私にとっても重要と思われるのは和辻の批判であるが、かれはベネディクトが自分の立論に都合のよいデータのみをとりあげ「反対のデータを細心に探し回るという努力」を放棄していること、そして一部の日本人の思考様式から、日本人一般のそれを引き出していることを批判している(和辻1950:285)。ここで批判された、データの反証可能性の問題、そして部分と全体の安易な同一視は、今日まで人類学に対して突きつけられている問題である。はたして今日の人類学は、それを脱却できたのか。それができないとすれば、和辻が『菊と刀』を評したように、「この書にもいろいろな価値はありましょうが、少なくとも学問的な価値だけはない」(ibid.:285)といわれてしまうのではないか。


    19世紀の末にボアズによって文化相対主義が提唱されたとき、それは「他者」を人類進化の一段階としか見なされない進化論的見方に抗して、かれらの文化の価値と独自性を承認する試みとして、きわめてヒューマニスチックな意味を有するものであった。しかし、ミードやベネディクトとともに「他者」研究が自己肯定のためにおこなわれるようになったとき、それは自己を頂点とする別の序列と排除のシステムのなかに「他者」を置き直しただけであった。そこではたしかに人類進化の階梯はとりはずされたが、一方には研究者の属する「主体的」な文化が置かれ、他方にはその研究「対象」たる「未成熟」な文化が置かれるという具合に、不均衡な力関係は温存されたままであった。文化相対主義が有効であるためには、たえざる自己の相対化と、それがもたらす自己批判にみずからをさらしつづける覚悟が必要なはずである。ボアズが具現していたその覚悟が失われたとき、異文化研究は姿をかえた「アメリカ文化論」になり下り、「他者」の理解は肥大した「自己」をやしなうための一手段にまで切り下げられたのである。
    **************
    注〈33〉
    『菊と刀』の政治性を批判するダグラス・ラミスは、ヴェトナム反戦運動に従事した活動家でもあったが、これについてつぎのように述べている。「『菊と刀』はいくつもの側面をもつ。これは米国の戦時情報局のために行った政策研究である。日本国民の振舞いをいかに予知し管理するかを示す操作のための社会科学でもある。アメリカ国民に向けて寛容の精神を説くという側面もある。日本文化の型を統一された芸術作品として描き出し、解釈をほどこす美術評論でもある。ある一定の政治制度の代価と利益とをはかる政治理論ともいえる。日本およびアジアにおけるアメリカの支配にイデオロギー的基盤を与える政治的プロパカンダ(propaganda:宣伝、宣伝運動。特に特定の思想や教義を強調した宣伝)の側面も無視できない。・・・われわれの課題にとってより重要な点・・・は、『菊と刀』においては文化の相対性という自己批判精神が完全に消えうせ、そのかわりに自信に満ちた征服者の態度つまり寛容が表面にでてきたという事実である。」(ラミス1981:148-152)。

    *************

    これで『人類学的思考』のルースの竹沢さんの物語りの一部抜粋は、
    ちょうどキリがいいところで、おしまいおしまい〜




引用返信/返信 削除キー/
■24969 / inTopicNo.2)  Re[89]:  ルース・ベネディクトの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/07/18(Mon) 18:40:37)
    はい、
    じゃつづきで〜す。

    *************

    10 『菊と刀』の政治性 

    「日本人はアメリカがこれまでに国をあげて戦った敵の中で、最も気心の知れない敵であった。大国を敵とする戦いで、これほどはなはだしく異なった行動と思想の習慣を考慮の中に迫られたことは、今までにないことであった」(ベネディクト1946(1967):5)。そのように「気心の知れない」、行動パターンを読めない「敵」と戦うためには、そして勝利したあかつきにかれらを統治し、占領政策を完遂するためには、かれらの性格や行動の基礎にあるものを理解することが不可欠である(ibid.:5)。このように『菊と刀』は、政治的目的をもって書かれた文書であることをいささかも隠していない。であれば、私たちにとっての課題は、日本を一度も訪れたことのない研究者が書いた「日本論」が、どの点において正確ないし不正確かを議論することでもなければ(川島1950)、ギアツのようにこれを文化人類学の書として救いだすことでもない(ギアツ1988(1996))。私たちが問題にすべきは、文化人類学の本であることと政治的文書であることとはどのようにして両立しうるかを、その内容に沿って尋ねることでなくてはないらないのである。

    『菊と刀』は、冒頭で読者につぎのように謎を投げかける。日本人のように理解しがたい国民が他に存在するか、それほど不可解な人びとをあなたは理解できるのかと、といかけるのである。

    日本人について書かれた記述には、世界のどの国についてもかつて用いられたことのない奇怪至極な「しかしまた」の連続が見られる。まじめな観察者が日本人以外の他の国民について書く時、そしてその国民が類例のないくらい礼儀正しい国民であるという時、「しかしまた彼らは不遜で尊大である」と付け加えることはめったにない。ある国の人びとがこの上なく固陋であるという時、「しかしまた彼らはどんな新奇な事柄にも容易に順応する」と付け加えはしない。・・・ところがこれらのすべての矛盾が、日本に関する書物のたて糸と横糸になるのである。・・・日本人は最高度に、喧嘩好きであると共におとなしく、軍国主義である共に耽美的であり、不遜であると共に礼儀正しく、頑固であると共に順応性に富み、従順であると共にうるさくこづき回されることを憤り、忠実であると共に不忠実であり、勇敢であると共に臆病であり、保守的であると共に新しいものを喜んで迎え入れる。彼らは自分の行動を他人がどう思うだろうか、ということを恐ろしく気にかけると同時に、他人に自分の不行跡が知られない時には罪の誘惑にまかされる。(ベネディクト1946(1967):5−7)

    あいかわらず見事な表現である。日本人の理解不能性を最大限に引っ張ることで、読者が食いついてくることを待つ仕掛けである。ベネディクトはすでに『文化の型』のなかで、他者の文化を印象的に対比させることが、文化に対する関心を読者にかきたてうることを学んでいた。この『菊と刀』においては、対比させられているのは、謎めいた日本人の国民性と、読者にとっては既知のアメリカ人のそれである。しかもここで両者は、ベネディクトの得意とする印象主義的な記述によって、デフォルモされ、誇張された姿であらわれている。日本人とアメリカ人の教育および自己鍛錬の違いについて、ベネディクトが書き分けているところを見て見よう。

    日本では人は上手な競技者となるために自己訓練をする。そして日本人の態度は、ブリッジをする人間と同じであって、全然犠牲の意識をともなわずに訓練を受ける。むろん訓練は厳格である。がしかしそれは事柄の本質に根ざしたことであって、厳格なのが当たり前である。生まれながらの幼児は幸福であるが、「人生を味わう」能力をもたない。精神的訓練…‥を積んで始めて人は充実した生活をし、人生の「味をかみしめる」能力を獲得する。(ibid.:269)

    [アメリカでは]子供は一定の時間がくれば「寝なければならない」。しかも彼は両親のそぶりから、寝ることが一種の抑圧であることをさとる。…‥彼の母親はまた彼がどうしても食べ「なければならない」ものを定める。それはオートミールであることもあるし、ほうれんそうであるあることもあるし、パンであることもあるし、オレンジ・ジュースであることもあるが、アメリカの子供は、彼が食べ「なければならない」食べものに逆らうことを覚える。彼は「からだによい」食べものは、おいしい食べものではないときめてかかる。(ibid.:266-267)

    **********

    10は長いから、このつづきは後で。

    当時の、日本人は、アメリカ人は、っていうことなのかな。

引用返信/返信 削除キー/
■24965 / inTopicNo.3)  Re[88]:  ルース・ベネディクトの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/07/18(Mon) 17:49:40)
    今日中にルースのを、

    *************

    10 『菊と刀』の政治性 

    「日本人はアメリカがこれまでに国をあげて戦った敵の中で、最も気心の知れない敵であった。大国を敵とする戦いで、これほどはなはだしく異なった行動と思想の習慣を考慮の中に迫られたことは、今までにないことであった」(ベネディクト1946(1967):5)。そのように「気心の知れない」、行動パターンを読めない「敵」と戦うためには、そして勝利したあかつきにかれらを統治し、占領政策を完遂するためには、かれらの性格や行動の基礎にあるものを理解することが不可欠である(ibid.:5)。このように『菊と刀』は、政治的目的をもって書かれた文書であることをいささかも隠していない。であれば、私たちにとっての課題は、日本を一度も訪れたことのない研究者が書いた「日本論」が、どの点において正確ないし不正確かを議論することでもなければ(川島1950)、ギアツのようにこれを文化人類学の書として救いだすことでもない(ギアツ1988(1996))。私たちが問題にすべきは、文化人類学の本であることと政治的文書であることとはどのようにして両立しうるかを、その内容に沿って尋ねることでなくてはないらないのである。

    『菊と刀』は、冒頭で読者につぎのように謎を投げかける。日本人のように理解しがたい国民が他に存在するか、それほど不可解な人びとをあなたは理解できるのかと、といかけるのである。

    日本人について書かれた記述には、世界のどの国についてもかつて用いられたことのない奇怪至極な「しかしまた」の連続が見られる。まじめな観察者が日本人以外の他の国民について書く時、そしてその国民が類例のないくらい礼儀正しい国民であるという時、「しかしまた彼らは不遜で尊大である」と付け加えることはめったにない。ある国の人びとがこの上なく固陋であるという時、「しかしまた彼らはどんな新奇な事柄にも容易に順応する」と付け加えはしない。・・・ところがこれらのすべての矛盾が、日本に関する書物のたて糸と横糸になるのである。・・・日本人は最高度に、喧嘩好きであると共におとなしく、軍国主義である共に耽美的であり、不遜であると共に礼儀正しく、頑固であると共に順応性に富み、従順であると共にうるさくこづき回されることを憤り、忠実であると共に不忠実であり、勇敢であると共に臆病であり、保守的であると共に新しいものを喜んで迎え入れる。彼らは自分の行動を他人がどう思うだろうか、ということを恐ろしく気にかけると同時に、他人に自分の不行跡が知られない時には罪の誘惑にまかされる。(ベネディクト1946(1967):5−7)

    あいかわらず見事な表現である。日本人の理解不能性を最大限に引っ張ることで、読者が食いついてくることを待つ仕掛けである。ベネディクトはすでに『文化の型』のなかで、他者の文化を印象的に対比させることが、文化に対する関心を読者にかきたてうることを学んでいた。この『菊と刀』においては、対比させられているのは、謎めいた日本人の国民性と、読者にとっては既知のアメリカ人のそれである。しかもここで両者は、ベネディクトの得意とする印象主義的な記述によって、デフォルモされ、誇張された姿であらわれている。日本人とアメリカ人の教育および自己鍛錬の違いについて、ベネディクトが書き分けているところを見て見よう。

    日本では人は上手な競技者となるために自己訓練をする。そして日本人の態度は、ブリッジをする人間と同じであって、全然犠牲の意識をともなわずに訓練を受ける。むろん訓練は厳格である。がしかしそれは事柄の本質に根ざしたことであって、厳格なのが当たり前である。生まれながらの幼児は幸福であるが、「人生を味わう」能力をもたない。精神的訓練…‥を積んで始めて人は充実した生活をし、人生の「味をかみしめる」能力を獲得する。(ibid.:269)

    [アメリカでは]子供は一定の時間がくれば「寝なければならない」。しかも彼は両親のそぶりから、寝ることが一種の抑圧であることをさとる。…‥彼の母親はまた彼がどうしても食べ「なければならない」ものを定める。それはオートミールであることもあるし、ほうれんそうであるあることもあるし、パンであることもあるし、オレンジ・ジュースであることもあるが、アメリカの子供は、彼が食べ「なければならない」食べものに逆らうことを覚える。彼は「からだによい」食べものは、おいしい食べものではないときめてかかる。(ibid.:266-267)

    **********

    10は長いから、このつづきは次に、

    当時の、日本人は、アメリカ人は、っていうことなのかな。

引用返信/返信 削除キー/
■24962 / inTopicNo.4)  Re[87]:  ルース・ベネディクトの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/07/18(Mon) 16:30:39)
    つづき

    ***********

    9 文化批判としての人類学 
    ・・・・
    やがて第二次世界大戦がはじまると、多くの人類学者に先んじて、ミードとベネディクトは合衆国軍に協力して、「国民の士気高揚を目的として設けられた」戦時情報局で働き始めた(ミード1942(1986):25)。資金も十分に与えられ、講義などの大学業務から解放されたことで、時間も自由に使うことができた。そこから生まれたのが、アメリカ人の国民的性格を分析したミードの『火薬をしめらせるな』(1942年)であり、ベネディクトによるルーマニアや日本の国民性研究であった(ベネディクトの研究対象は、ドイツも含めて画集国の敵国であったことに注意したい)。ミードはその著作のなかで臆面もなくつぎのように書いているが、彼女やベネディクトが戦後に熱を上げる「国民性研究」が、どのような観点からなされていたかを如実に示すことばである。

    わが国の軍司令官や政治家が、われわれの国民性に備わっている長所が発揮できないような国際的な脅威や対応に捲きこんだりすれば、やはりわが国は敗れてしまうだろう。勝つためには自分たちの資産の正確な目録をつくっておくことが必要である。そしてこの目録に載せるべきものは、単に銅やアルミの量、熟練工やパイロット要員の数だけではない。アメリカ人としてのわれわれ自身の性格を目録化することも、同様に重要なのである。われわれはアメリカ人としてこの戦争を戦い、勝利しなければならない。ドイツ人や日本人を性急かつ拙速(せっそく)に真似てもだめである。アメリカ人にナチの兵士の真似をさせても、本物より一段と劣ったまがいものができあがるだけでしかない。(ibid.:58)。

    ミードの関心は、そのままベネディクトの関心でもあった。戦時中には多くの日本研究や日本出身者が集められて、反日的キャンペーンの遂行や、戦後の占領政策のための参考意見の聴取がくり返された。しかし、戦時情報局が特別レポートの作成を依頼したのは、狭い専門領域を日本研究の専門家ではなく、ドイツ研究やルーマニア研究に従事していたベネディクトであった。彼女は約一年間の準備ののち、レポート『日本人の行動バターン』を1945年に提出する(ベネディクト1945(1997))。それをもとにして「できるだけヒューマンリー」(福井1997:161)に書いたのが、翌46年に出版され、彼女の業績の頂点を構成することになる『菊と刀』であった。それは合衆国のみならず、日本でも大評判となり、今日まで増刷をつづけている。と同時に、それは画集国の占領政策にも大きな影響を与えた。この作品が軍部に歓迎されたことは、主に海軍の資金を用いて、1947年にはじまる「コロンビア大現代文化研究」に総計25万ドルもの巨費が投入されたという事実が示すとおりである(ミード1974(1977):112)。

    ***********

    わたし『菊と刀』読んでない。
    でも、題名だけで魅かれるところある。

    ここ見てる人の中で『菊と刀』読んだことある人いたら挙手してもらいたいな〜


引用返信/返信 削除キー/
■24957 / inTopicNo.5)  Re[86]:  ルース・ベネディクトの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/07/18(Mon) 11:27:38)
    つづきです

    **********

    8 ベネディクトとマーガレット・ミード
      
    ベネディクトは『文化の型』の最終章で、合衆国の文化のある種の側面を批判している。彼女の見方によれば、合衆国の文化はとりわけエゴイズムによって特徴づけられており、文化的多様性を許容することができず、幼児期から宗教的罪悪感を植えつけようとする側面をもつなど、いくつかの問題を含むというのである(ベネディクト1934(1973):383sq)。しかし、複数の社会の民族誌にもとづきながら、文化相対主義の有効性を提示することを目的としたこの著作が、なぜ最後にこのような自分化批判をおこなっているのか。ここには、なかば偶然からベネディクトとミードがつくりだしたひとつの戦略があった。そしてそれによって、彼女らの文化人類学は、ナショナル。アイデンティティの確立が課題であった1930年代の合衆国社会の要求に応えうる学問へと変質したのである。とはいえ、成功は一般に代償を必要とする。ベネディクトとミードによってつくり変えられた人類学は、ボアズがめざした精微な科学であることを止め、文化批判の衣をまとった政治的言説へと変化していったのである。
    ・・・・
    ***********

    ミードについても書かれてあるけど、ここでは省略。


引用返信/返信 削除キー/
■24913 / inTopicNo.6)  Re[85]:  ルース・ベネディクトの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/07/17(Sun) 17:40:56)
    つづきです

    **************

    7 「文化の総合形態」と文化研究の定式化

    1927年のピマ社会での調査の途中で、ベネディクトはズニに代表されるプエブロ諸社会の文化と、ピマをはじめとする周囲の諸社会の文化とのあいだに「もっとも峻厳な文化的断絶」(Benedict 1930(1959):260)が存在することに気がついた。後者の諸社会では幻覚剤やその効果をもつ飲料の使用が盛んであり、われを忘れた興奮と熱狂の儀礼をとりおこない、恍惚状態のなかで将来のヴィジョンを得ることに主たる関心が置かれている。ところが、それに隣接し、自然の障壁によって隔てられているわけではないプエブロの諸社会では、幻想も熱狂も幻覚剤の使用も存在しない。隣接したふたつの文化のあいだのこうした「峻厳たる断絶」をどう考えたらよいのか。それが、ベネディクトが自問したことであった。

    前々節で見たように、ボアズの関心は諸民族の文化的接触と相互影響を歴史的に再構成することにあったため、この前提にしたがうかぎり、隣接する諸社会のあいだにこれほどの文化的断絶が存在することを説明できなかった。そこでベネディクトが考えたのは、個々の文化は独自の総合形態(configuration)ないし固有のパターン(pattern)をもっており、それを基準として、外部からやってくる諸々の要素を取捨選択しているのではないかということであった。

    他の地域からの影響を描こうとする私たちの努力のすべては、ディテールの断片性を強調した。私たちは文化の縦糸や横糸の断片を発見しただけで、そのパターンにいたる有意な鍵を見つけていない。この鍵は、この論文の観点からするなら、文化が疑いなく何世紀もかけてつくりあげてきた基本的な心理セットのうちに見つけられるべきである。(ibid.:261)

    ベネディクトは学生時代に親しんでいたニーチェに倣ってプエブロの文化の「基本的な心理セット」(これはつぎの論文では「文化の総合形態」と呼ばれるようになる(Benedict 1932)を「アポロ型」、周囲の諸社会のそれを「デュオニソス型」と名づけることで、個々の文化の基本形式の差異を強調したのである。

    1920年代の後半に書かれた論文ではおずおずと提起された「文化の総合形態」、「パターン」、「心理セット」などの用語は、1934年に出版され、ベネディクトの名を一躍高めた『文化の型』においては中心的な位置を占めるにいたっている。彼女はいまや、文化が「思想と行動のともかくも一貫したパターン」であること(ベネディクト1934(1973):83)、「文化的行為の個別的分析」に終始していた従来の文化研究を、「個人の思考や情緒を条件づけている文化総合の問題」へと転換すべきこと(ibid.:85,94)、を主張するのに躊躇しない。というのも「文化はその特徴の寄せ集め以上のもの」(ibid.:84,原文を参照して訳を若干変えてある)であり、「部分の組みあわせとその相互関係が、あたらしい全体をその結果としてつく」っているのだから(ibid.:83)、文化研究をおこなうころは全体のパターンの研究、総合形態の研究でなくてはならないというのである。

    ベネディクトが打ち出したこうした文化の総合論的な見方は、なにに由来していたのだろうか。ベネディクトはみずからの視点を補強するべく、以下のものを上げている。20世紀初頭以来急速な進展を見ていたゲシュタルト心理学、歴史哲学者のウィルヘルム・ディルタイ、美学のウィルヘルム・ヴォリンガー、『西洋の没落』を書いたオスヴァルト・シュペングラー、そしてマリノフスキーなど、彼女が親しんでいたドイツ系の、とくにロマン主義的な学風をもつ学者の文献である。これらの引用について、ベネディクトの学生であったヴィクター・バーノウは、「ボアズはかなり以前からドイツの人文科学や哲学の「深遠な」直観的洞察をしりぞけていた。しかし、このおなじ怪しげな源泉の中に、いまルース・ベネディクトは霊感をみいだした」と書いて(ミード1974(1977):78に引用)、ベネディクトのオリジナルであったとする。一方ミードは、これらの参照はボアズの指示のもとにおこなわれていたとして、バーノウのことばを批判している(ibid.:78)。しかし、すべてを自分の思い通りにしなくては気がすまないミードのことであるから、割り引いて考えたほうがよいであろう。おそらくバーノウのことばが正確なのである。

    人間はだれも、世界を生まれたままの目で見てはいない。人間は習慣や制度や信じ方の、あるきめられた一組によって編集された世界を見ているのである。‥‥個人の生活史は、かれのコミュニティが伝統的に継承してきた形式と規準の、最も明白な適応である。生まれたときから、その生まれおちた場所の習慣が人間の経験や行動を形成してゆく。話ができるようになったとき、‥‥習慣のくせがかれのくせとなり、習慣の信条がかれの信条となり、習慣にとって不可能なことはかれにとっても不可能なことになる。・・・このような習慣の役割ほど、理解の必要な大切な社会的な問題にはほかに存在しない。(ベネディクト1934(1973):5−7)

    文化とはなんであり、文化によって諸個人の思考や行動がどのように規制されているかを要約して示した『文化の型』の冒頭の見事な文章である。ベネディクトの文章には、ここでの「編集された世界」や「世界を生まれたままの目で見」るという表現、さらにはニーチェからとった「アポロ型」や「デュオニソス型」(のちの「菊」と「刀」の語りもそうである)などの語に見られるように、メタファーの使用に類を見ない冴えがある。よいフィールドワーカーではなく、すぐれた理論家でもなかった彼女を人類学史において卓越させているのは、このようなレトリックの力であり、多様で混乱したデータを整序する技量であった。

    『文化の型』で彼女がとりあげたのは、彼女の調査地でもあるプエブロと、レオ・フォーチュンによるメラネシアのドブ島、ボアズによるクワキウトゥルの三つの社会であり、この三つを彼女は、プエブロは中庸を重んじるので「アポロ型」、妖術と妬みと敵対に溢れるドブをいわば「悪魔型」、恍惚となっておどりつつ食人をおこなうクワキウトゥルを「デュオニソス型」に分類している。これら三つの文化が、彼女のいうようにそれほど異なっているとすれば、読者は文化がそれぞれ異なった仕方で組織されていることを、それゆえ文化の相対性に対する理解と文化の総合論的な見方が必要なことを承認するであろう。それがベネディクトが狙っていたところであり、この本が人類学の内外で大好評をもって迎えられたことを見ても、その目論見は成功したのである。

    もっとも、この本が多くの問題を含んでいることも事実である。文化に対する異なるアプローチを採用していたボアズは、序文でこの本が「文化の全体性」に焦点を合わせていることを歓迎する一方で、「著者が主張するよううには、個々の文化が支配的性格によって特徴づけられているわけではない」と一定の留保をつけている(Benedict 1934:x)。ベネディクトのように整理したなら、多様性でときに矛盾するデータがこぼれおちていくことを危惧していたのである。その他、ベネディクトが自分の立論に合わせてデータの一部を排除していることや、文化間の差異にアクセントを置くあまり他の側面が軽視されていること、彼女の解釈があまりに主観的で実証性を欠いていること、などがあいついで批判されたのである(カフリー1989(1993):314sq)。

    なかでもおそらく一番の問題は、彼女が「パターン」といい「総合形態」といっているものが明確にされていないことであった。それは、どのようにしてかたちづけられているのか。どのようにして変化しうるのか。また、どのようにして諸個々人に作用しているのか。これらの問いは少しも明らかにされなかったのである。ベネディクトの著書は、簡潔な文体を用いて、個々の文化の差異を印象主義的に描いており、その点にこそこの本が人類学の本としては「例外的に売れた」理由があった(Modell 1983:208-218)。しかしそれは、いまの時点でいえば「文化資本主義」との批判を免れることはできない。それは、諸文化を対照させることで文化的差異を強調するあまり、それぞれの文化を均質的なものとし、内部に差異や多様性があったとしても結局は文化統合が優先し、人びとの思考と行動を超越的な仕方で律するある種の本質をもったものとして描いているからである。

    **********

    なんか、ニーチェ出てきてる。

引用返信/返信 削除キー/
■24907 / inTopicNo.7)  Re[84]:  ルース・ベネディクトの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/07/17(Sun) 14:01:49)
    づづきです。

    *********

    6 ベネディクトの自己形成
    ・・・・・・・
    のちにルース・ベネディクトになるルース・フルトンは、1887年にニューヨーク市で生まれている。父親は将来を嘱望された外科医であったが、ルースが生まれてまもなく手術による感染症を発病して、彼女が1歳九ヵ月のときに亡くなっている。その死に際して、母親は泣き叫びながら、赤ん坊のルースに父親のことを記憶づけるよう命じたという。これ以降、彼女はふたつの世界を生きることになる。「父の美しい死の世界と、混乱した[母]の叫喚の世界」である(Benedict 1935(1959):99)。ルースは「父の死のカルトをとりおこな」う(ibid.:98)母親を忌避し、なかば空想の世界に生きるようになっていく。幼いときに難聴になったこともあり、彼女は自分の世界に閉じこもりがちな子どもであった。ロマン主義の文学を好み、アン・イーグルトンの名で詩を書いていた彼女は、成人したのちも自分の情熱や苦悩と、社会的に付与される自我とのあいだで葛藤をつづけていた。

    奨学金を得て名門のヴァッサー女子大を卒業した彼女は、女子高校で英語の教師をつとめるうち、科学者であるスタンレー・ベネディクトと出会い、恋に落ちる。二人は1914年に結婚したが、ルースに子どもができなかったこともあり、蜜月は長くはつづかなかった。彼女は慈善事業等に参加すると同時に、詩を書きつづけ、社会的承認を得るべく伝記その他の著者を書いたが、いづれも出版されることはなかった。

    自分の道を探していたベネディクトは、1919年にニューヨークのニュースクルールで人類学の講義を受け始め、ゴールデンワイザーの勧めによって、1921年の春からコロンビア大のボアズの研究室に出入りするようになる。しかし、対人関係が不器用なベネディクトは、難聴だったこともあり、大家族のような研究室に入っていくことは困難であった。この頃のベネディクトを、ボアズの秘書はこう語っている。「打ち解けず、何か[人の]言っていることに頷いて同意を示したり、当惑して微笑んだり、控えめな態度で口数の少ない人であった」(カフリー1989(1993):147)。のちに長期にわたる同性愛の関係になるマーガレット・ミードの第一印象も、おなじようなものであった。「きれいなネズミ色の髪をきちんとピンでとめたこともない、内気で、なにをやるにもうわの空、わたしたちはそんな中年女だと彼女のことをみていた。毎日毎日やぼったい帽子をかぶり、くすんだ色のドレスを着ていた」(ミード1974(1977):11)。ベネディクトの「美しさ[は]伝説的」(ibid:11)でさえあったが、人に対して容易に心を開くタイプの人間ではなかったのである。

    コロンビア大でようやく自分にふさわしい場所を見つけたベネディクトは、おそらく必死に勉強したのであろう。1923年に博士論文を完成させている。はじめた人類学の講義に出たのが三年と少し前であったことを考えれば(しかも最初の二年間は聴講生であった)、ボアズの学生に対する評点が甘い傾向にあったとはいえ、驚くべき進歩であり精進であった。博士論文を終えた彼女は、ボアズが教えていたバーナード大で講義する一方で、1923年の夏にはセラノ会社の調査を実施し,24年と25年にズニ社会、27年にはピマ社会で調査をおこなった。とはいっても、ベネディクトのフィールドワークは夏休みの期間中におこなわれたものであり、大半は英語を話せるインフォーマントを差しむかいで記録をとるといったかたちのものであった。ベネディクトは難聴であったし、生来の人見知りもあって、フィールドワークを苦手としていた。彼女が得意としていたのは、ミードが語るつぎのような作業である。

    ルース・ベネディクトの初期の仕事は図書館資料を相手にしたものだった。滅亡した文化や消えゆかんとする文化についての、ばらばらに分散した、しかも偏った記録を整理しながら、断片をつなぎあわせ、脱落した文章を埋め、類似と一貫性を発見する、こみいった作業のすべてが彼女を魅了した。彼女はこの種の謎解きには、すっかり夢中になった。生涯を通じて彼女は、自分でフィールドワークをしたり、あるいは現存文化を研究する人類学者たちの完成された著作を読むよりも、不完全な資料から文化のイメージを作りあげる複雑な仕事のほうに大きな喜びをみいだした。(ibid.:49)

    ***********

    ルース・ベネディクトは、1887−1948だから、戦争があった時代ね。
    彼女は、アメリカ合衆国の文化人類学者のようです。

引用返信/返信 削除キー/
■24906 / inTopicNo.8)   ルース・ベネディクトの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/07/17(Sun) 11:24:17)
    この連休は、やっぱコロナもあるし、ひきこもって、読書とタイピング。

    竹沢尚一郎著『人類学的思考の歴史』のなかで、わたしが気になったところを書き写していこうと思います。

    **********

    第7章 文化人類学の誕生――「文化」概念と文化人類学の成型 
    1合衆国人類学における文化の位置
    この章とつづく第8章では、アメリカ合衆国における文化人類学の制度化と、その後の発展および課題をとりあげていく。社会人類学を称し、フランス社会学年報派の成果を吸収しながら発展したイギリス・フランスの人類学とは異なり、合衆国の人類学は「文化」概念を中心に独自の発展を実現した。合衆国においても初期の人類は19世紀の支配的思想としての進化論的発想によって支配されていたが、1880年代以降フランツ・ボアズが「相対主義」の概念をもってこれに戦いを挑み、みずから多くの学生を育成することで、独自の人類学の形成に成功した。・・・・・

    **********

    っていうところのなかの、学生だったルース・ベネディクトのを中心に、何回かに分けて。

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■24905 / inTopicNo.9)  Re[82]:  国葬
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/07/17(Sun) 11:20:13)
    ■24896、マジモンさん、
    >逆に、国葬じゃダメな理由ってある?<
    ん〜ん、ダメ、っていうんじゃなくて〜、

    「国葬」って、
    〔国費をもって行われる葬儀〕で、〔国費〕って税金でしょ。
    ようするに、税金を払ってる人たちがあの人の葬儀代を負担する、っていうことだと思うのね。

    だから、
    「彼は〔国家に功労のあった人〕である」と、何を基準に誰が判断するんかな?
    を知りたいだけ。
引用返信/返信 削除キー/
■24896 / inTopicNo.10)  Re[81]:  国葬
□投稿者/ マジカルモンキー -(2022/07/16(Sat) 21:34:12)
    2022/07/16(Sat) 21:59:25 編集(投稿者)

    悪魔ちゃんへ

    逆に、国葬じゃダメな理由ってある?
    安倍ちゃんは結構功績大きいと思うけどね。

    【 追加 】

    50年後の日本史のための国葬だろうね。
    安倍ちゃんは長期政権だったし、国際社会に名が通っているから。
引用返信/返信 削除キー/
■24895 / inTopicNo.11)  Re[80]:  国葬
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/07/16(Sat) 20:26:28)
    ■24893 、田秋さん、
    わたしもそう思います。
    だから、
    「彼は〔国家に功労のあった人〕である」と、何を基準に誰が判断するんかな?
    って思ったのね。

    いろんな問題が顕在化してきてるんじゃないかしら?

    こういう意味で、彼、”すごいこと”をしたんだと思う。




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■24893 / inTopicNo.12)  Re[79]:  国葬
□投稿者/ 田秋 -(2022/07/16(Sat) 20:09:24)
    こんばんは、悪魔ちゃん

    安部さんの国葬問題は色々な意見が噴出すると思う。

    今は国葬法というものがないから基準はない。国葬を国の儀式と解釈すれば閣議決定で実施可能らしい。

    ボクが思ったのはもし安部さんが凶弾に倒れることなく人生を普通に終えたら、森友問題とかウソの国会答弁とかしてるから、国葬という話は出てこなかったんじゃないかな。内閣・自民党合同葬というのはあるね。

    凶弾に倒れたから国葬にしようという流れがあるんじゃないかな。

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