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■17655 / inTopicNo.37)  Re[18]: 「私」と言語
  
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/17(Sun) 07:42:07)
    2021/10/17(Sun) 09:19:55 編集(投稿者)

    おはようございます、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No17644に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 同じでしょう。

    では鬼界氏がP.340で述べている『そこで我々が(そしてウィトゲンシュタインが)目にするものは、ある意味では予想に反し、そして予想通りに、独我論批判で別れを告げたはずの「私」である。』に同意されますか?

    パニチェは前期〜後期を通じてウィトゲンシュタインは〈私〉に関する新たな発見や出会いなどしていないと考えています。

    仮に鬼界氏の主張を肯定するとすれば『論考』の「私」と『確実性の問題』で目にした「私」は何がどのように違うと思われますか?

    >>あとこれは言えることと思いますが、何の但し書きもなく「我々」という主語で語られていることからして、鬼界氏が述べるところの「私」は独在的な〈私〉ではないでしょうね。

    > p402の5行目から
    > 「私」と言語の等根源に至るとは、こうした私的確実性が言語の根底において持っている特別な意味にたどりつくことに他ならない。
    > とあります。他のところでは、私的確実性は「私」という一個人にのみ関わるとしています。
    > この私的確実性が言語ゲームを根拠づけるということだと思います。

    言語ゲームを言語ゲームたらしめている主体が確実性をもったものであるという読解に異論を唱えているのではありません。

    それは個人的かつ確実な存在で語りえないものではありますが、自我とか自我意識とかコギトと言い換えても支障がない。私的確実性ではあるが、万人に共通する「私」です。

    ウィトゲンシュタインの読解で最も重要であると思うのは語りえない「私」をどのように読解しているのか、ということです。
    哲学界では鬼頭氏の読解が一般的なものかもしれませんがパニチェは永井均氏の〈私〉に隣接あるいは同じ主体であると考えています。

    この差は大きい、ということです。「確実性の問題」を再読してみますがこの部分が同意できないかぎり「ウィトゲンシュタインはこう考えた」のP.391『(2)「私」と言語の源』以降に同意できません。


    PS.『確実性の問題』についての解説は、やはり永井均著『ウィトゲンシュタイン入門 P.194最期』がパニチェにとって説得力があります。

引用返信/返信 削除キー/
■17644 / inTopicNo.38)  Re[17]: 「私」と言語
□投稿者/ knowing itself -(2021/10/16(Sat) 20:57:23)
    パニチェさん レスありがとうございます



    > >>おそらくここは鬼界氏のウィトゲンシュタインの独我論や語りえぬ「私」に関する鬼界氏自身としての置き換えができていないため、言語的に形成された「私」と〈私〉を混同しているための解釈であると想像します。
    >
    >>鬼界氏は「私」を言語的に形成されたものとはしていないと思います。例えば最終ページのp417です。
    >
    > よく分からないのは言語と等源である「私」と、P.417で述べれている魂を持った「私」は同じでしょうか?

    同じでしょう。

    > あとこれは言えることと思いますが、何の但し書きもなく「我々」という主語で語られていることからして、鬼界氏が述べるところの「私」は独在的な〈私〉ではないでしょうね。

    p402の5行目から

    「私」と言語の等根源に至るとは、こうした私的確実性が言語の根底において持っている特別な意味にたどりつくことに他ならない。

    とあります。他のところでは、私的確実性は「私」という一個人にのみ関わるとしています。

    この私的確実性が言語ゲームを根拠づけるということだと思います。





引用返信/返信 削除キー/
■17639 / inTopicNo.39)  Re[17]: 「私」と言語
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/16(Sat) 20:24:36)
    2021/10/16(Sat) 20:37:33 編集(投稿者)

    No17635に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 引用いただいたp396に先行する、p395の最終段落からの記述。個人的にはそれほど批判すべきだとは思えません。

    > 言語ゲームという発想を前面に出して、それを肯定的に捉えたら、「私」と言語の等根源というのはギリギリの線かなと。言語悪者、言語必要悪ではないのではないでしょうか。ここは汎言語ゲームというか、言語ゲームを人間の生の活動に拡張する立場であって(鬼界氏的な後期ウィトゲンシュタイン)、それらの侵食から守るべき「私」の聖域という二元論の立場ではないと思うんですよ。もちろん「私」(鬼界氏の使う意味での)そのものは言語化や対象化はできません、安直なそういうものは拒否していますが。

    『すなわちあらゆる言語ゲームを言語ゲームたらしめている根本的な条件を探ることである。その中に必ず「私」が果たす重要な機能があるはずであり、それこそ「私」の根源と呼びうるものであろう。同時にそれは言語を言語たらしめている条件の核をなすものであるから言語の根源でもある、それは「私」と言語がとのっみそこから生まれる場としての「私」と言語の等根源なのである。(P.396)』

    上記のように鬼界氏が考えたのは「確実性の問題」のどのウィトゲンシュタインの文を元にしているのか聞きたいですね。
    もしウィトゲンシュタインの語りえない「私」が永井氏の〈私〉と同類であるなら、〈私〉には言語ゲームを言語ゲームたらしめる重要な機能はありえません。
引用返信/返信 削除キー/
■17636 / inTopicNo.40)  Re[16]: 「私」と言語
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/16(Sat) 19:48:28)
    2021/10/16(Sat) 20:04:15 編集(投稿者)

    レスありがとうございます。

    No17634に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 鬼界氏は「私」と〈私〉を区別する用語法を使わないので、永井氏とどこまで親和性があり、どこまで違うのか、個人的にはまだよくわからないですね。探求中です。

    了解しました。

    >>「私」の階層が違うし、語りえない〈私〉をスルーしたままである。
    > 鬼界氏も「私」そのものは語りえないとしていると解せませんか?

    これ書き方が悪かったですね。
    「語りえない」の方ではなく、永井均氏も用いている〈私〉という表記にしているところの〈私〉をスルーしているという意味でした。

    >>おそらくここは鬼界氏のウィトゲンシュタインの独我論や語りえぬ「私」に関する鬼界氏自身としての置き換えができていないため、言語的に形成された「私」と〈私〉を混同しているための解釈であると想像します。

    > 鬼界氏は「私」を言語的に形成されたものとはしていないと思います。例えば最終ページのp417です。

    よく分からないのは言語と等源である「私」と、P.417で述べれている魂を持った「私」は同じでしょうか?

    あとこれは言えることと思いますが、何の但し書きもなく「我々」という主語で語られていることからして、鬼界氏が述べるところの「私」は独在的な〈私〉ではないでしょうね。

    言語とともに生じる語りえない「私」ではないでしょうか。
    また、魂という表記は以下で既に登場しますので、ウィトゲンシュタインが最終的に見出したのが魂を持った「私」という鬼界氏の主張は違和感があります。

    『私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ私の魂と称する。そして私が他人の魂と称するものも専らこの世界霊魂として把握するのである。(ウィトゲンシュタイン「草稿1915.5.23」より)』
引用返信/返信 削除キー/
■17635 / inTopicNo.41)  Re[16]: 「私」と言語
□投稿者/ knowing itself -(2021/10/16(Sat) 19:40:56)
    引用いただいたp396に先行する、p395の最終段落からの記述。個人的にはそれほど批判すべきだとは思えません。

    言語ゲームという発想を前面に出して、それを肯定的に捉えたら、「私」と言語の等根源というのはギリギリの線かなと。言語悪者、言語必要悪ではないのではないでしょうか。ここは汎言語ゲームというか、言語ゲームを人間の生の活動に拡張する立場であって(鬼界氏的な後期ウィトゲンシュタイン)、それらの侵食から守るべき「私」の聖域という二元論の立場ではないと思うんですよ。もちろん「私」(鬼界氏の使う意味での)そのものは言語化や対象化はできません、安直なそういうものは拒否していますが。
引用返信/返信 削除キー/
■17634 / inTopicNo.42)  Re[15]: 「私」と言語
□投稿者/ knowing itself -(2021/10/16(Sat) 19:21:21)
    パニチェさん こんばんは。

    > 「ウィトゲンシュタインはこう考えた」のP.391「(2)「私」と言語の源」以降に書かれている内容については(例えウィトゲンシュタインがそのように考えていたとしても)パニチェは全く同意できません。
    >
    > そもそも『それは「私」と言語がともにそこに生まれる場としての「私」と言語の等根源なのである。(ウィトゲンシュタインはこう考えたP.396)』を前提としていることが大間違いだと思う。言語学習する主体〈私〉なくして何故普遍文法も含めた言語習得が可能となるのかは答えられないだろうし、鬼界氏がここで言うところの「私」は言語習得とともに物心がついた万人に共通する「私」であって、ウィトゲンシュタインや永井氏が探究していた〈私〉ではありえないということです。

    鬼界氏は「私」と〈私〉を区別する用語法を使わないので、永井氏とどこまで親和性があり、どこまで違うのか、個人的にはまだよくわからないですね。探求中です。

    > 「私」の階層が違うし、語りえない〈私〉をスルーしたままである。

    鬼界氏も「私」そのものは語りえないとしていると解せませんか?

    > おそらくここは鬼界氏のウィトゲンシュタインの独我論や語りえぬ「私」に関する鬼界氏自身としての置き換えができていないため、言語的に形成された「私」と〈私〉を混同しているための解釈であると想像します。

    鬼界氏は「私」を言語的に形成されたものとはしていないと思います。例えば最終ページのp417です。

引用返信/返信 削除キー/
■17625 / inTopicNo.43)  Re[14]: 「私」と言語
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/16(Sat) 17:57:26)
    こんばんは、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No17534に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 最近、「哲学探究」新訳を出した鬼界彰夫氏の「ウィトゲンシュタインはこう考えた」。この中の特に
    > 第五部 「私」と言語 ー ウィトゲンシュタインの最後の思考
    > ウィトゲンシュタインの言語ゲームの拡張については、ここに書かれていることに基本的に同意できます。

    鬼界氏の「確実異性の問題」の読解が正しいかどうかは再度「確実性の問題」の訳本を読み直す必要があるので、これは同時並行で行うとして。。。

    「ウィトゲンシュタインはこう考えた」のP.391「(2)「私」と言語の源」以降に書かれている内容については(例えウィトゲンシュタインがそのように考えていたとしても)パニチェは全く同意できません。

    そもそも『それは「私」と言語がともにそこに生まれる場としての「私」と言語の等根源なのである。(ウィトゲンシュタインはこう考えたP.396)』を前提としていることが大間違いだと思う。言語学習する主体〈私〉なくして何故普遍文法も含めた言語習得が可能となるのかは答えられないだろうし、鬼界氏がここで言うところの「私」は言語習得とともに物心がついた万人に共通する「私」であって、ウィトゲンシュタインや永井氏が探究していた〈私〉ではありえないということです。

    「私」の階層が違うし、語りえない〈私〉をスルーしたままである。

    おそらくここは鬼界氏のウィトゲンシュタインの独我論や語りえぬ「私」に関する鬼界氏自身としての置き換えができていないため、言語的に形成された「私」と〈私〉を混同しているための解釈であると想像します。

    ウィトゲンシュタインが「確実性の問題」で本当にそのようなことを述べているのかどうかについては、再読してからレスしてみます。

    No17582に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 「語りえない」から倫理は無意味だとか、そもそも倫理はない、倫理とは関わりなく生きろ、などとはならないのがウィトゲンシュタインだと思います。

    同意します。

引用返信/返信 削除キー/
■17582 / inTopicNo.44)  Re[13]: 「私」と言語
□投稿者/ knowing itself -(2021/10/15(Fri) 17:24:38)
    パニチェさん レスありがとうございます。

    >>ウィトゲンシュタインは、倫理や神の属性などは「語りえない」とする一方、神に激しく語りかける・祈ることは晩年に至るまでやめなかった人らしいですね。
    >
    > そうみたいですね。
    > ウィトゲンシュタインは自分がホモセクシュアルであることに対して後ろめたい気持ちを生涯背負ってたのかもしれません。

    「語りえない」から倫理は無意味だとか、そもそも倫理はない、倫理とは関わりなく生きろ、などとはならないのがウィトゲンシュタインだと思います。


引用返信/返信 削除キー/
■17541 / inTopicNo.45)  Re[12]: 「私」と言語
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/14(Thu) 20:33:19)
    こんばんは、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No17532に返信(knowing itselfさんの記事)
    > ウィトゲンシュタインは、倫理や神の属性などは「語りえない」とする一方、神に激しく語りかける・祈ることは晩年に至るまでやめなかった人らしいですね。

    そうみたいですね。
    ウィトゲンシュタインは自分がホモセクシュアルであることに対して後ろめたい気持ちを生涯背負ってたのかもしれません。


    No17534に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 最近、「哲学探究」新訳を出した鬼界彰夫氏の「ウィトゲンシュタインはこう考えた」。この中の特に

    > 第五部 「私」と言語 ー ウィトゲンシュタインの最後の思考

    > ウィトゲンシュタインの言語ゲームの拡張については、ここに書かれていることに基本的に同意できます。

    土曜日に第五部を読みなして返信させてもらいます。
引用返信/返信 削除キー/
■17534 / inTopicNo.46)  「私」と言語
□投稿者/ knowing itself -(2021/10/14(Thu) 19:39:24)
    最近、「哲学探究」新訳を出した鬼界彰夫氏の「ウィトゲンシュタインはこう考えた」。この中の特に

    第五部 「私」と言語 ー ウィトゲンシュタインの最後の思考

    ウィトゲンシュタインの言語ゲームの拡張については、ここに書かれていることに基本的に同意できます。



引用返信/返信 削除キー/
■17532 / inTopicNo.47)  Re[10]: 維摩の一黙雷の如し
□投稿者/ knowing itself -(2021/10/14(Thu) 18:58:22)
    パニチェさん レスありがとうございます。

    >>そういえばウィトゲンシュタインの後期に「言語ゲーム」があった。彼の「語り得ないもの」は前期の論理についての研究にあるものではあるが、ウィトゲンシュタイン哲学を彼の思索人生全体をフォローせずに、「語り得ないもの」だけを東洋思想的な沈黙礼讃のように理解する傾向が、ないとはいえないと思う。
    >
    > 同意です。論考の「語りえぬことについて人は沈黙せねばならない」は、仏教者や仏教徒が読むとどうしても維摩経の不二の法門「維摩の一黙雷の如し」とかぶらせて解釈することが多いでしょうね。
    >
    > 死後40年経って発見された日記、2005年に刊行された『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』を読めば彼が敬虔なクリスチャンであることが分かります。
    >
    > 論考の写像理論「5.6私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」を前提とすれば世界内に含まれない対象は「語りえない」ものであり、形而上学や神や倫理も含まれることからして、沈黙礼讃のような読解だけでは不十分だと思います。

    ウィトゲンシュタインは、倫理や神の属性などは「語りえない」とする一方、神に激しく語りかける・祈ることは晩年に至るまでやめなかった人らしいですね。

    > 但し、論考の多くのページが(解説書の表現を借りれば)哲学的自我(形而上学的主体)、パニチェの言葉に換言すれば「比類なき先言の<私>」に割かれていること、また独我論は前期後期を通じてウィトゲンシュタイン哲学のメインにもなりるテーマであることからしても、語りえない主役は仏道の探究対象でもある自己とかぶるところは大きいと思います。

    仏道の探求対象でもある自己とかぶるところが大きいというのは同意します。
引用返信/返信 削除キー/
■17510 / inTopicNo.48)  維摩の一黙雷の如し
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/13(Wed) 20:44:40)
    2021/10/14(Thu) 07:00:27 編集(投稿者)

    こんばんは、knowing itselfさん。横レス失礼します。

    No17503に返信(knowing itselfさんの記事)
    > そういえばウィトゲンシュタインの後期に「言語ゲーム」があった。彼の「語り得ないもの」は前期の論理についての研究にあるものではあるが、ウィトゲンシュタイン哲学を彼の思索人生全体をフォローせずに、「語り得ないもの」だけを東洋思想的な沈黙礼讃のように理解する傾向が、ないとはいえないと思う。

    同意です。論考の「語りえぬことについて人は沈黙せねばならない」は、仏教者や仏教徒が読むとどうしても維摩経の不二の法門「維摩の一黙雷の如し」とかぶらせて解釈することが多いでしょうね。

    死後40年経って発見された日記、2005年に刊行された『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』を読めば彼が敬虔なクリスチャンであることが分かります。

    論考の写像理論「5.6私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」を前提とすれば世界内に含まれない対象は「語りえない」ものであり、形而上学や神や倫理も含まれることからして、沈黙礼讃のような読解だけでは不十分だと思います。

    但し、論考の多くのページが(解説書の表現を借りれば)哲学的自我(形而上学的主体)、パニチェの言葉に換言すれば「比類なき先言の<私>」に割かれていること、また独我論は前期後期を通じてウィトゲンシュタイン哲学のメインにもなりるテーマであることからしても、語りえない主役は仏道の探究対象でもある自己とかぶるところは大きいと思います。

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