| 『人類学的思考の歴史』の、 第一章 進化論人類学――近代人類学の出発点 1近代人類学誕生の前夜
のなかにこんなことが書いてあります。全部はむりだから、一部ね。
******* ‥‥ エドワードもプリチャードも本業は医師であり、「人種」とも「民族」とも訳すことのできるraceの語を中心に研究を進めた。かれらの主たる関心は、「パリ民族学協会」の規約が明示していたように、「身体組織、知的・論理的性格、言語、歴史的伝統」によって規定される人間の諸集団(race)を分類し、その起源を明らかにすることにあった(Dais1991:20)〈3〉。ここではraceの語が、身体組織から言語、歴史までをカバーする幅広い意味内容をもって用いられていることに注意したい。それは今日の語感でいうと、「人種」より「民族」に近いことばであり、それだからこそかれらは「民族学協会」と名乗っていたのである〈4〉。このとき、これらの協会に属した研究者や社会活動家の多くは敬虔なキリスト教徒であり、かれらの主たる関心は、聖書の伝える神による人間の創造(=人間の単一性)と、観察から引き出される人間の多様性をどう調停するかという点にあったのである(stocking Jr.1987:44,Blanckaert1988)。
これらの民族学者が19世紀前半の知的配置図のなかでいかなる地位を占めていたかは、同時代の知的主流としての博物学と比較することで明らかになる。18世紀から19世紀前半にかけては「探検博物学の時代」(西村1999)と呼ばれる時代であり、多くの科学者が地球上の各地に散って、さまざまな動植物を収集し、人間の慣行や制度についても多くの情報を獲得していた。西洋の影響圏の拡大にともなって得られた、人間を含めた動植物に関する増加しつつある知識を整理し秩序づけることこそ、この時代の科学者たちがみずからに引き受けた課題であり、そこでのキーワードはミシェル・フーコーが明らかにしたように「分類」にあった(フーコー1966(1974)〈5〉)。このとき「分類」とは、18世紀なかばに『自然の体系』を著したカール・リンネが、生殖器官の形状をもとに植物学を分類しことに示されるように、形態上の特徴に沿ってつくられた階層的カテゴリーのなかに諸存在を組み込むことにあった。人間もまた、もっとも目につく差異として肌の色によって分類され、それに人体的特徴や精神的特徴が結びつけられた。たとえば、時代を代表する博物学者リンネによる人間集団の分類はつぎのようなものであったという。
白いヨーロッパ人――創意的性に富む、発明の才に富む…白い、多血質…。法律にもとづいて統治されている。赤いアメリカ人――自己の運命に満足し、自由を愛している…。赤銅色、短気…、習慣に従って自らを統治している。蒼いアジア人――高慢、貧食‥‥黄色っぽい、憂鬱‥‥。世論によって統治されている。黒いアフリカ人――狡猾、なまけもの、ぞんざい‥‥黒い、無気力‥‥。自分の主人の恣意的な意志に基づいて統治されている。(ポリアコフ1985:214に引用)
白、赤、蒼、黒という肌の色が、そのまま体質の違いや知的能力や統治能力の差に結びつくとする知的怠慢には驚く他ない。18世紀に全盛をきわめたリンネ博物学がこうした粗野な知識で満足していたのと比べると、そのやく一世紀後に活躍したエドワールやブリチャードの理解は、格段に進んだものであった。かれらはみずからさまざまな人びとを観察し計画し、世界各地の多様な集団についてのデータを集め、かれらの専門である解剖学や生理学に加え、動物学、歴史学、言語学、考古学、文献学といった当時の最新諸科学を総動員することで、総合の学としての「民族学」の確立に尽力していた(Dias 1991,Stocking Jr.1987.Stocking Jr. ed.1988)。かれらの民族学は、自然科学から人文科学までを包括する総合の学として規定されていたからこそ、博物学に対抗して独自の学であることを主張しえたのであり〈6〉、それゆえにかれらのつくった協会は、著名な生物学者であるトマス・ハクスレーやタイラー、考古学者のジョン・ラボックなど、時代を代表する一流の研究者を擁しえたのである(Stocking Jr.1971:381)。
注〈3〉 プリチャードも、民族学の目的をつぎのように規定していた。「われわれの探究がたどれるかぎり遠くの時代まで、人間の部族や人種の歴史をあとづけ、それらの相互の関係を発見し、確実であれ推測によるものであれ、起源の親縁性や多様性に関する結論に達すること」(Stocking Jr. 1987:52に引用)。 ‥‥
注〈4〉 パリ民族学協会の活動方針は、つぎのようにもいっている。「個々のraceにおいて、その広がりと発展の諸段階を決定する秘密を同定することが重要である。法、慣習、制度などはこの秘密にぞくしており、それらは社会の形態学を構成している」(Blanckaert 1988:43に引用)。このようにこの時代のraceとは、法、慣習、制度などと関係する概念であり、その意味では「民族」と訳すべき概念なのである。しかしその後、大脳半球の機能分化の発見者であり、解剖学者であったポール・ブロカに率いられた形質人類学が優越し、その影響がフランスのみならずヨーロッパ中に広まるにつれて、raceは形質人類学の基礎概念として、今日でいう「人種」の意味に限定されるようになっていった。(竹沢2001,2005)。
注〈5〉 博物学者である西村三郎は、この時代の博物学の位置についてつぎのようにいっている。「ヨーロッパ18世紀、すくなくともその前半期においては、‥‥博物学は時代の要請する新しい学問であり、わけても、そのなかの分類学――自然物の種類を正しく見分け、一定の秩序のもとに整然と配列する学問――は、他のすべての学問分野のうえに君臨する最高の学問‥‥と考えられていた」(西村 1989:17)。
注〈6〉 プリチャードは、1846年にイギリス学術振興連盟が、民族学を動物学や植物学からなる第4セッションに加えたことに抗議して、民族学は「自然科学より歴史学に近い」とする文書を送ったほどである(Stocking Jr. 1987:52)。
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ひとまず書き写しておきます。
人類(人-間)――諸集団――の分類の仕方を問題としてるのかな。
わたし人-間の多様性と普遍性についても考えてる。わたしのばあいどちらかって言うと普遍性の方に興味あるかな。
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