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■23257 / inTopicNo.13)  人類学
  
□投稿者/ 田秋 -(2022/05/14(Sat) 22:48:57)
    こんばんは、悪魔ちゃん

    今期、《総合人類学としてのヒト学》と《フィールドワークと民族史》という講義を取っています。その中で一番よく耳にする単語は多分「多様性」だと思います。

    昔は統合するために一度分類してみる(整理しなおす)みたいな感じがあったけど(今もそうかも)、(文化)人類学の講義聴いていると多様性をそのまま受け入れるみたいなところがあるような気がする。

    スイカの原産地って知ってる?アフリカ南部のカラハリ砂漠辺りなんだって。大阪の民族博物館にその辺りのスイカの種16種類が展示してあるのを授業でやってた。16種のうち野生は1種だけであとは栽培種。日本には野生のスイカはありません。
    あと日本のスイカの糖度は10度以上だけど、あちらのスイカは2度で、果物というより食料という感じ。
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■23253 / inTopicNo.14)  Re[84]:  『人類学的思考の歴史』
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/14(Sat) 19:24:26)
    レヴィ=ストロースについては、『人類学的思考の歴史』の中に「構造主義人類学」のなかに記されています。一部書き写して見ます。

                 ********

    p157−
    【色、かたち、匂い、味わい、生態環境など、人びとは五感を通じて事物を観察し、他の事物と対立させながらその特性を同定し、体系のなかにとりくんでいく。かくして「人間は、直接与えられているもの(感覚与件)のレベルでの体系化というもっとも困難な問題にまずとり組んだのである」(ibid.:16)。このような感覚レベルでの分類や体系化の作業をレヴィ=ストロースは「ブリコラージュ」と呼び、教育等を通じて与えられる「栽培された思考」に対する「野生の思考」の特徴と見なしている。そして、それは「未開」と称される人びとだけでなく、芸術家たちの創造活動のなかで強烈に生きられていることが示すように、現代にもあまねく存在すると主張するのである(ibid.:25-30)。
     世界各地の人びとの、それも過去から現在までの分類作業のしなやかさと精緻さを明らかにしたこの『野生の思考』は、多くの人類学者に新鮮な驚きを与えた。しかも、その感覚特性にもとづく分類作業は、「かれら」のもとだけでなく、「私たち」のあいだでも作用していることを明らかにしたことで、議論の射程を一気に広げたのである。それまで人類学が対象としていたのは主として異文化の「他者」の実践であり、西洋的な基準からすれば理解しがたいかれらの制度や思考様式に、いかなる原理が働いているかを明らかにしようとしてきたのであった。これに対し、レヴィ=ストロースがめざしたのは、現代西洋の人間を含めた世界中の人びとの行動や思考の多くの部分が、いくつかの単純な原理から出発することで説明できることを示すことであった。かれは感覚レベルでの分類作業という原理を立てることで、一方でトーテミズムを説明し、他方で芸術家たちの創造の秘訣を明らかにしてみせた(23)。そしてそれによってかれは、かれが人間の思考の基本的な営みと考える分類作業と、さまざまな宗教的実践や社会組織などとを、関係づけて議論することの可能性を示したのである。】

    注(23)〔レヴィ=ストロースは芸術家たちの創造と、かれらの作品の美的受容の経験とを、この感覚特性のレベルでの分類の原理によって説明している。「私が行っているタイプの分析は、まさに神話のうちに独自の本質をもつ対象(もの)…‥をあばき出そうという方向を取っているのですが、その対象はまさに、神話の物語りの中で、そして神話の物語りを通して行われる、感性的なものと…‥ほとんど数学的な方程式の形をとりうるような知性に把握されるメッセージとの合体において成立しているものなのです。われわれが感情とか感動とか呼んでいるものは結局のところ、つねにこれなのではないでしょうか?それが神話によって与えられるものではなくて、楽曲、画幅、あるいは彫刻によって与えられるものであったとしても、それは、ある感性に訴える布置の総体的な把握がわれわれに真向からおしつけるあの衝撃により、ある種の理解可能性への直接的参加であって、推論の入りくんだ路ではないのです」(レヴィ=ストロース1970(1974):274-275)。〕

                 ********

    あと、竹沢さんは、
                 ********
    p160−
    【ところで、分類とは世界を理解するための第一歩であるから、分類されたものとは理解されたもの、秩序づけられたもののことなのである。これに対し、分類されないもの、分類秩序の外側にあるものとは、理解不能なもの、理解を超えたものである。ここから、分類外の要素は、ある場合には豚のように穢れた存在と見なされ、ある場合にはレレ社会のセンザウコウのように、並外れた力をもつ存在と考えられることになる。世界には、異質な身体的形状をした蛇をまつる蛇信仰は広く存在するし、ドラキュラの観念にしても、動物と鳥との中間的存在としてのコウモリに対するシンボリズムが背景にあるのは疑いない。分類とアノマリーという考え方は、ある特定の存在や事物がなぜ過大な象徴性を帯びることができるのかをうまく説明してくれるのである。
    メアリ・ダグラスのこの研究が出されて以来、多くの研究が提出されたが、その多くはその基本図式を反復したものであった(24)(リーチ1970(1971)、Bulmer1967,Sperber 1975,Morris1976)それはいまでは人類学の基本認識のひとつになっているが、その出発点は、人間はつねに感覚与件のレベルでの分類をおこなってきたというレヴィ=ストロースの主張にあったのである。】
    って言って。

    注(24)
    ダグラスはその後、シンボリズムがしばしば人間の身体を媒介として成立しているとし、身体と外部との境界領域に位置する、アノマリー的なものとしての髪の毛や爪、睡、血などに関心を寄せた。これらは穢れたものとして忌避されるものであるが、その反面卓越した生命力を有するものでもある(ダグラス1970(1983))。ケガレ論から出発する関根康正も、これらの要素がケガレとされる反面、創造性や生命力を付与されていることを主張している(関根2004:40)。

                  ********

    連休中に(つれずれなるままに)わたしが注目したところを書き写して見ました。

    「人類学」って、昔の人はこういう生活をしてたんだ、的なんじゃないかしら?
    ん〜ん「民族誌学」なやつ?わたしもそうだったけど、レヴィとメルポンのおかげで見方かわった。

    「人類学」って「人間学」なんだな〜って。

    「人類学(人間学)」についてのここまでの、わたしの、またつれずれのときにするつもり。
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■23252 / inTopicNo.15)  Re[83]:  「野生の思考」と「科学的思考」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/14(Sat) 18:55:32)
    No23248 のつづきで〜す。

                 ********

    野生植物を栽培種に、野獣を家畜にかえ、もとの動植物にまったく存在しないか、またはごく僅かしかみとめられない特性を発達させ食用にしたり技術的に利用したり、不安的で、壊れたり粉になったり割れたりしやすい粘土から、かたくて水のもれぬ土器をつくったり(そのための条件として、多数の有機物無機物の中から徐粘剤〔非可塑性剤〕としてもっとも適切なものをきめ、適当な燃料、焼成の温度と時間、効果的な酸化度をはっきりさせなければならない)、土のないところ(19-1)や水のない所で栽培する技術、毒性をもった種子や根を食品にかえる技術、逆にその毒性を狩猟や戦闘や儀礼に利用する技術、多くの場合ながい時間を要するこれらの複雑な技術を作りあげたりするために必要なのは、疑いの余地なく、ほんとうに科学的な精神態度であり、根強くてつねに目ざめた好奇心であり、知る喜びのために知ろうとする知識欲である。なぜならば、観察と実験(それら自体がまず第一に知識欲にはじまると考えるべきである)のなかで、実用に役立ちすぐに使える結果を生じうるものは、ごく一部にすぎなかったのであるから。青銅や鉄の精錬、貴金属の精錬、さらには精錬に数千年先だつ槌打ちによる自然銅の単純加工についてはここには述べなかったが、これらはいずれも、すでに非常に高度の技術的能力を必要とするものである。
    p20
    したがって、石器時代ないし歴史時代初期の人間は、長い科学的伝統の継承者である。しかしながら、彼らやその先人たちすべての精神が近代人の精神とまったく同じであるとするならば、新石器時代ないし歴史時代初期の人間が停止して、新石器革命と現代科学のあいだに長い停滞期間が、ちょうど階段途中の踊り場のように介在している事実はどのように理解すればよいのだろうか?この謎には答えは一つしかない。科学的思考は二つの様式が区別される。それらは人間精神の発達段階の違いに対応するものではなくて、科学的認識が自然を攻略する際の作戦上のレベルの違いに応ずるもので、一方はおおよそのところ知覚および想像力のレベルに狙いをつけ、他方はそれをはずしているのである。それはあたかも、新石器時代の科学であれ近代の科学であれ、あらゆる科学の対象である必然的関係に到達する経路が、感覚的直観に近い道とそれから離れた道と二つあるかのごとくである。

    訳注(19-1)
    サンゴ礁を砕いて行われる農業のことなどが考えられる。

               ********

    科学はその全体が偶然と必然の区別の上に成立した。その区別は出来事(28-1)と構造との区別でもある。科学がその誕生に際して科学性として要求した性質は、体験には属さず、あらゆる出来事の外にそれとは無関係なもののように存在する性質であった。

    訳注(28-1)
    出来事évémnement――日常的な使い方のほか、人によってとくに「物」に対立させたり、「予期される事象」に対立させたりして用いられているが、レヴィ=ストロースにおいてはとくに「構造」に対比して用いられる。「構造」の意味をはじめ、レヴィ=ストロースの思想の理解には重要な概念(構造/出来事の対立は、構造/歴史、必然/偶然、民族学/歴史学の対立に結びつく)。本章には両者の関係が説明されているが、そのほか『構造人類学』28-29項、132項、224項、Du miel aux cndres, p.408などに彼の「出来事」観がうかがわれる。

                 ********

    以上がわたしに見つけられた、レヴィの「野生の思考」と「科学的思考」の違いについて記してあるところです。

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■23248 / inTopicNo.16)  Re[82]:  「野生の思考」と「科学的思考」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/14(Sat) 14:35:15)
    レヴィは、「野生の思考」を【具体の科学】とか【原始的科学というより「第一」科学】って言ってるから、「野生の思考」も「科学的思考」って見てるのかもしれない、というのをふまえたうえで、

    ここからは、レヴィが、「野生の思考」と「科学的思考」の違いについて記述しているところを書き写していってみます。

    No23070では、

                ********

    呪術と科学の第一の相違点は次のようなものになろう。

    呪術が包括的かつ全面的な因果性を公準とするのに対し、

    科学の方は、まずいろいろなレベルを区別した上で、そのうちの若干に限ってのみ因果性のなにがしらの形式が成り立つことを認めるが、ほかに同じ形式が通用しないレベルもあるとするのである。

    呪術的思考や儀礼が厳格で緻密なのは、科学的現象の存在様式としての因果性の真実を無意識的に把握していることのあらわれであり、したがって、因果性を認識しそれを尊重するより前に、包括的にそれに感づき、かつそれを演技しているのではないだろうか?そうなれば、呪術の儀礼や信仰はそのまま、やがて生まれ来るべき科学に対する信頼の表言表現ということになるであろう。

    この先駆けは、その性質から言ってときに成功することもあるが、それにとどまらず、さらに二重の先駆けとなりうる。
    一つは科学に対してであり、もう一つは、科学が相当に発達した段階に至らなければ自分のものとなし得ない方法および結果に対してである。

    すなわち人間は、感覚に直接与えられもの(感覚与件)のレベルでの体系化というもっとも困難な問題にまずとり組んだのである。科学はそれに対して長らく背を向けていたが、いまようやくそれを展望の中に取り入れはじめている。科学的思考の歴史においても、この先駆現象は何度も繰り返して発生している。…‥

                ********

    だった。
    わたし、「呪術的思考」を「野生の思考」って見てます。

    このつづきに、こう書いてあります。


                ********

    P17【だからといってわれわれは、呪術を科学の片言とする俗説(もっとも、それが位置する狭い展望の範囲では容認しうるものであるが)に戻るつもりはない。なぜならば、呪術を技術や科学の発達の一時期、一段階にしてしまうと、呪術的思考を理解する手段をすべて放擲することになるからである。呪術は本体的に先立つ影のようなものであって、ある意味では本体と同様にすべてがととのい、実質はなくても、すぐあとにくる実物と同じほどに完成され、まとまったものである。呪術的思考は、まだ実現していない一つの全体の発端、冒険、下書き、ないし部分ではない。それ自体で諸要素をまとめた一つの体系を構成しており、したがって、科学という別の体系とは独立している。この両者が似ているのはただ形の類似だけであって、それによって呪術は科学の隠喩(18−1)的表現とでもいうべきものになる。それゆえ、呪術と科学を対立させるのではなくて、この両者を認識の二様式として並置する方がよいだろう。それらは、理論的にも実際的にも成績については同等ではない(呪術もときには成功するので、その意味で科学を先取りしてはいるけども、成績という点では科学が呪術より良い成績を上げることは事実であるから)。しかしながら、両者が前提とする知的操作の種類に関しては相違がない。知的操作の性質自体が異なるのではなくて、それが適用される現象のタイプに応じてかわるのである。】

    訳注(18−1)
    〔隠喩(métaphore)――あるものを類似の属性をもった別のもので置きかえる比喩の基本形式。たとえば水泳に関して「金槌」や「トビウオ」、人間の性質について「コウモリ」や「狼」、ピチピチした少年たちを「若鮎」というの類。ここでは「一つのものの全体を他のものの全体で置きかえる」という点で、換喩(隣接性に基づき、たとえば原因で結果を、容器で内容を、部分で全体を示す形式)と対比されている、なお隠喩/換喩と、記号行動の基本的二軸である範例/統合との関係については訳注31−1参照。〕

    訳注(31−1)
    〔換喩métornymie――結果を原因で、内容を容器で、心を表情で、全体を部分で、というように、関連する他のものに置き換えて表現する比喩の形式。たとえば「筆一本で生きる」「盃を交わす」「口が悪い」など(訳注18−1参照)。ヤーコブソンは記号行動の基本二軸である「統合」syntagmeと「範例」paradigmeに換喩と隠喩を対応させ、各種の記号体系の説明にこの比喩の二つの型の対立を利用した(『一般言語学』21項−44項、バルト『零度のエクリチュール、付・記号学の原理』157項以下、マルチネ『言語学辞典』の「話し相手の選択、範例論」の項、およびデュクロ、トドロフ『言語理論小辞典』の「連辞と範例」の項参照)。ヤーコブソンのこの考え方はソシュールに溯る。ソシュールは、統合と範例(ソシュールの用語では「連合」)の二面を精神活動の二つの基本形式と考えた(『一般言語学講義』172項以下参照)。レヴィ=ストロースはヤーコブソンにならって、統合――顕在的(項の間の関係が言表の中に実際にあらわれる)−−隣接関係――換喩、範例――潜在的(項の間の関係は記憶の中にあり、言表には出ない)――類似・選択関係――隠喩、という二軸の対比を『今日のトーテミスム』以来いろいろな問題に適用し、それを「換喩/隠喩」で表現している。Mythologiquesの各巻で頻繁に使られる。〕

                 ********

    つづく

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■23207 / inTopicNo.17)  Re[81]:  国家と民族
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/12(Thu) 18:53:07)
    「国家」で、コトバクンのとウィキでおんなじところは、
    〔一定の領土と国民と排他的な統治組織とを供えた政治共同体のことを指す。〕
    〔一定の領土を基礎にして、固有の統治権によって統治される、継続的な公組織的共同社会。〕
    〔領土・人民・主権(統治権)の3要素からなるとされる。〕
    っていうところかな。
    ひとまず、そうしとく。なんかつまんないけど。

    「民族」をコトバンクで調べたのがあるので、その一部を写して見ます。

    〔あえて定義すれば、他の集団から区別されるなんらかの文化的共通項を指標として、互いに伝統的に結ばれていると自ら認める人々、もしくは他の人々によってそのように認められる人々、といえる。この場合、文化的指標とは土地、血縁、言語などの共有意識や、宗教、神話・世界観、社会組織、経済生活、その他の生活様式のあらゆる領域のなかから、当該の人々にとって意味のある指標として選択される多様な基準を意味する。学術上、人種は人間の身体的特徴を基準にした人間範疇(はんちゅう)設定の試みであるのに対し、民族は基本的に、文化的特徴を指標にした人間範疇であるとして区別されるが、民族観念も人種観念も、いずれも人間による人間自身の分類行為の一つであり、それ自体が文化の所産にほかならないということを忘れてはならない。〕

    〔「未開民族」といった、「民族」の用語法のうちでも極端な粗さを伴う大範疇は、「文明」に属すると意識する人々による、文明対未開という二項対立思考に基づく人間分類の端的な例である。とくに「地理上の発見」を契機とした西欧人たちに、この傾向が顕著にみられたのであり、また時代をさかのぼって古代ギリシア人が使ったバルバロイbarbaroiということばは、言語の通じない異民族への蔑視(べっし)の観念に基づいていたらしい。また、中国においては古代の南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)をはじめ、猺(ヤオ)、(リャオ)、(トウ)、(ロロ)、蛋民(たんみん)などのように、人間以下の存在である獣や虫の意を加えて、周辺の異民族の名称を表した文字が、何千年にもわたって用いられた。古代日本においても、辺境の異民族に対して蝦夷(えみし)、熊襲(くまそ)、隼人(はやと)などのように動物を表す字をあてて記されたし、室町時代以降の南蛮人などの表現にも、同様の発想が推測される。このような思考を自民族中心主義(エスノセントリズムethnocentrism)というが、これは古今東西にわたり、けっして珍しい現象ではなく、むしろあらゆる人類社会にほぼ普遍的にみられるものである。〕

    〔現代においては、人類は個々の国家という政治的枠組みによって、大分割されているともいえる。国民(ネイション nation)を、このような国家の成員と規定すれば、それはおのずから政治的ニュアンスの濃厚な社会範疇であるということになる。しかし、独立国家の枠組みの下に国民形成が進行し、国語や国民文化あるいは国民意識とかいえるものが創出されるようになると、国民が民族の様相を帯びるようになり、実際、同義的に認識されるような例は少なくない。もちろん、民族と国民とは、今日の世界の現実を把握するためには、原理上、峻別(しゅんべつ)しなければならない。なぜなら、さまざまな歴史的状況や社会体制とも絡んで、民族の境界と近代国家の境界とは一致しないことが普通であり、また、単一国家のなかに多数の民族が共存する事例は非常に多いからである。いわゆる複合民族国家においては、特定の民族集団(エスニック・グループ)と、普通は文化的に異質ながら、それを包摂する全体社会(国家)との関係や、あるいはまた、国家運営の主導権を握る多数民族などと他の諸集団との関係のあり方が、当該集団にとっても、当該国家にとっても、きわめて重要な意味をもつ。〕

    ってあった。

    民族から国を見る、っていうのもありよね。
    あ、いいかえると、自称文明人(文明社会に住む人、また、高い水準の文化を身につけている人)から見た未開人(野蛮人)(粗野で教養がない人、不作法で粗暴な人)って呼ばれてる人から自称文明人を見たら、っていうの。

    これについてはひとまず後にまわしにしま〜す。

    レヴィの「人類学(人間学)」のが途中になっているから、そこに戻ろっと。

引用返信/返信 削除キー/
■23181 / inTopicNo.18)  Re[80]:  国家と民族
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/10(Tue) 19:18:31)
    ■23173、田秋さん、ありがとございます。

    「国家」についてはコトバンクのから始めてます。ウィッキのも見てみます。
    まだわたしのなかでは整理できてないんだけど、わたしの感性のをちょっと書いて見ま〜す。

    >上の説明に《風土》という言葉は1度も出てこないことに注意<
    うん、「国家」には「領土」っていうのは出てくるけど「風土」っていうのは出た来なかったかも。わたしの問題は「国家」っていうのが「風土」とは無関係に存在してる、っていうこと。

    >イスラエルはユダヤ人の国<
    ごめん、ユダヤ人のこと知らないくせに、勝手に言っちゃったみたい。
    ひとまず、国際法上はそうなってる、っていうことで、了解しときます。

    >民族というのは、言語、人種、文化、歴史的運命を共有し、同族意識によって結ばれた集団です。国であることは民族の必要要件ではありません<
    ん〜ん、なるほど〜。
    「国民」と「民族」は、人類(人-間)の”分類の仕方”が異なってるっていうことね。

    考える糸口になったかも。




引用返信/返信 削除キー/
■23175 / inTopicNo.19)  Re[79]:  国家と民族
□投稿者/ ギアッチョ -(2022/05/10(Tue) 04:06:05)
    風土だ風土。でなければ、人生損して死ぬだけだ。
引用返信/返信 削除キー/
■23173 / inTopicNo.20)  Re[78]:  国家と民族
□投稿者/ 田秋 -(2022/05/09(Mon) 21:22:06)
引用返信/返信 削除キー/
■23172 / inTopicNo.21)  Re[79]: つれずれなるまに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/09(Mon) 20:47:46)
    「キリスト教」も「仏教」も人間が作り出したものじゃないかしら?
    すなわち、「文化的存在」。
    「それ」と自然的存在とは区別した方がいいんじゃないかな〜。

    あ、哲学も文化的存在ね。
引用返信/返信 削除キー/
■23171 / inTopicNo.22)  Re[78]: つれずれなるまに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/09(Mon) 20:37:16)
    日本ってさ〜、
    「哲学」を「科に分けて学ぶ」の「他の科」と同列にして、一つの”科目”としてるんじゃなかしら?
    ほら、他の大学では「哲学”科”」って言ってない?
引用返信/返信 削除キー/
■23170 / inTopicNo.23)  Re[77]:  国家と民族
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/09(Mon) 20:13:51)
    つれづれなるままに、

    「国家」とか「国民」ってなあに?

    いまネットで調べてるんだけど、いまいちわかんない。

    あと、人類(人間)を、アザンデ族って言うように「○○族」って呼ぶのもあるよね。
    「ユダヤ人」っていう言い方もあるし、ユダヤ人の国っていうのどこにあるのかしら?
    ひとまず、こういうのを「民族」って呼ぶことにする。
    日本国では「アイヌ人」?「アイヌ民族」?っていうのがあるみたい。
    こういうの。

    「国家」と「民族」の違いはなにかしら?
    それとも同じ人類の分類の仕方としていいのかしら?

    「日本国民」とか「日本人」っていうのわたし聞きなれててるけど、それを「日本民族」って言ってもいいのかしら?っていうこと。

    いま「人類学(人間学)」を見ているわたしの、

    心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくって(心の中に浮かんでは消えていくとりとめもないことを、あてもなく書きつけて)おこうかなって。




引用返信/返信 削除キー/
■23156 / inTopicNo.24)  Re[76]:  主のみたま
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/08(Sun) 20:13:05)
    ネットで、「アニミズム」は、

    〔ラテン語の「気息」とか「霊魂」を意味するアニマanimaに由来する語で、さまざまな霊的存在spiritual beingsへの信仰をいう。霊的存在とは、神霊、精霊、霊魂、生霊、死霊、祖霊、妖精(ようせい)、妖怪などを意味する。〕

    ってあったんだけど、

    キリスト教の「主の御霊(みたま)」もこのなかに入るのかな?


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