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■23040 / inTopicNo.37)  Re[62]: 人類
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/03(Tue) 13:30:09)
    ■23039、
    >進化でも退化でもなく「適応」って見れば、どう?<
    なるほど〜。

    でもなんに適応してきてるのかしら。
    ん〜んふつうに考えると、”環境に”ってなるのかな。
    ってすると〜、人類(人間)の環境はどうなってるのか、も問題になるのかも。

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■23039 / inTopicNo.38)  Re[61]: 人類
□投稿者/ アートポット -(2022/05/03(Tue) 11:32:10)
    こんにちは、悪魔ちゃん

    No5401
    進化でも退化でもなく「適応」って見れば、どう?
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■23038 / inTopicNo.39)  Re[60]: 人類
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/03(Tue) 10:31:11)
    ところで、

    人類(人間)は”進化”したと言えるのかしら?

    それとも”停滞”?

    まさか”退化”だったりして〜?
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■22993 / inTopicNo.40)  Re[59]: 野生の思考
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/01(Sun) 19:38:48)
    ついでに、
    ■22992 の
    (262項)のところを書き写しておきます。
    本文
    【私にとって「野生の思考」とは、野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは原始人類(262-1)の思考でもない。効率をミめるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考である。‥‥‥それはちょうど、野生の動植物と、それを変形して栽培植物や家畜にしたものとが、(少なくとも理論上は)共存し交配されうるのと同じである。もっとも、栽培植物や家畜の存在は――それらの発達自体および発達に必要な一般条件そのものために――野生種を絶滅させるおそれがあるけれども。しかしながら、それを是とするか否かとするかは別として、野生の動植物と同じく、現在なお野生の思考が比較的よく保護されている領域がある。芸術の場合がそれであって、われわれの文明はそれに対し、国立公園なみの待遇を与えているが、このように人工的な方式には、当然それに伴う利益と不都合とがある。また、社会生活の中にも、まだ開拓が進んでいなくて、とりわけこれによくあてはまる領域がたくさんある。そこには、無関心のために、もしくは無力のために、また多くの場合はわれわれにわからぬ理由ゆえに、野生の思考が依然として繁茂している。】

    訳注(262-1)
    〔未開人類もしくは原始人類humanité primitive ou archaique――進化主義的ニュアンス(訳注1-3参照)をもつ形容詞primitifを避けて、一部の人たちはarchaiqueを使っている。こちらは、時には、歴史性(対象になる民族が歴史をもっていること)を否定するニュアンスが感じられる用語である。「未開性」についての考え方の違いはあるにせよ、どちらもいわゆる「未開人」を対象にしており、また日本語にそれぞれ対応する用語があるわけではないから、訳としては「未開人」一つでよいのであるが、レヴィ=ストロースはprimitifをarchaiqueに置きかえるだけでごまかしている人たちをも批判していると考えられるので、区別をして訳をつけてある。『野生の思考』の前半には、同じく近代的思考と原始思考を対比した、修正レヴィ=ストロース派ともいうべきズヌーヴの『原始心性』1961が出版されている。〕

    (訳注1-3)は、
    No.22989 のね。

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■22992 / inTopicNo.41)  Re[58]: 野生の思考
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/01(Sun) 19:12:52)
    la pensee sauvageの『野生の思考』という訳について、訳者あとがきに書いてあったからそこんとこ書き写して見ます。
    P362―
    〔‥‥レヴィ=ストロースのタイトルのつけ方が凝ったものであることはよく知られているが、中でも『野生の思考』は特別である。La Pensee sauvageが「野生のパンジー」にかけたものであることはよく知られているが、それではなぜ、一見だじゃれとも見えるようなかけことばを使うのだろうか。これは著名をいかに訳すかという問題である。本書のタイトルは。『野生のパンジー』は別にし、またpenseeを「思想」、「思惟」と訳したものを除いても、ここに採用した『野生の思考』以外に『野蛮な思考』『未開な思考』『野性の思考』という訳が行われている。
     レヴィ=ストロースは本中(262項)に、「野生の思考」la pensee sauvageは「野蛮人の思考」la pensee des sauvagesではなくて、「栽培思考」la pensee cultiveeと対比されるものであると説明している。つまり植物の野生種と栽培種との関係をブリコラージュ的に利用して、本書で論ずる「未開」思考と科学思考との関係を隠喩的に表現しているのである。しかしながら、表紙に野生のパンジーの絵がなく、本文中に何の説明もなかったとしたら、la pensee sauvageは、それ自体としては「野蛮な思考」すなわち「野蛮人の思考」と解することは完全に可能である。むしろその方が自然だとさえ言えるだろう。たまたまフランス語ではpenseeが「思考」でもあり「パンジー」でもあるということ、またsauvageという形容詞が人間については「野蛮な」で植物については「野生の」であってその区別がないことを利用して、「思考」という名詞を「野生の」という形容詞との結合が成立したのである。「パンジー」を介さなくとも、この形容詞の比喩的利用は可能ではないかという人もあるだろう。それはたしかに可能であろうが、具体的な「野生のパンジー」のある方がどれだけ効果的であることか。これは本書との主題とも関連する問題である。
     右の説明によって、「野生の思考」という訳が妥当だ、と納得するだけであれば、けっして十分な理解ではない。非常に大切な点がぬけているのである。それは、この両義的表現が、「野生の思考」を意味すると同時に、「野蛮な思考」から「野生の思考」への転換そのものをも表現しているということである。さもなければ、たとえば『神話的思考』とか、『科学的思考と呪術的思考』というようなタイトルをつけた方がわかりよいであろう。訳注にも記したように、sauvageは「文明人」civiliseとの区別を前面に出す、きわめて侮蔑的な用語であり、その点では進化主義的なprimitif「未開人」をはるかに上まわる。それゆえにこそ現在はおもて向きには用いられなくなっているのであるが、実はいまも西洋の人間の意識の中には厳然として腰を据えており、まさに西欧文化の偏見、自民族中心主義の凝集とも言える用語なのである。そのような見かたから「野蛮な思考」と考えられてきたものを「野生の思考」に転換させるという本書の直接の目的に、このタイトルはみごとに適合している。そして、その手法自体が本書に取り上げられているブリコラージュそのものなのである。
     それだけではない。今度は逆に、それにひっかけて、付録においてヨーロッパの民話に使われた「野生のパンジー」を取り上げ、ヨーロッパにおいてもトーテミズムと同じような、自然を利用した具体的思考、すなわち「野生の思考」がごくふつうに働いていることを示している。そしてこの巻末は、そのまま『神話論理』ヘの道に開く出口になっている。‥‥ 〕

    このなかに〔ブリコラージュ〕っていうのあるけど、本文中に書いてあるけど、これは気が向いたら書き写して見ます。

    わたし[sauvage]をネットで調べたら日本語で「野生」「野蛮」「未開」って訳されてた。
    [pensee]がフランス語では「思考」でもあり「パンジー」でもあるということにはおどろき。フランス人は「パンジーは思考する」とでも見てるのかしら?

    [pensee]は、「思想」、「思惟」ではなく「思考」としていること、そして、[sauvage]を「野蛮(未開)」から「野生」へと転換させること、こういう意味が「野生の思考」には含まれてるみたい。

引用返信/返信 削除キー/
■22989 / inTopicNo.42)  野生の思考
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/01(Sun) 18:06:11)
    『野生の思考』をもうちょっと見ていって見るよ。

    【 第一章 具体の科学

    p1動植物の種や変種(1-1)の名を詳細に書き出すために必要な単語はすべて揃っているにもかかわらず、「樹木」とか「動物」というような概念を表現する用語のことは、昔から好んで話の種にされてきた(p1-2)。ところが、「未開人」(1-3)の抽象語の豊富さはただ文明語のみの特徴でないことを証明する他の例がいろいろあることを無視してきた。たとえば北アメリカ北西部のチヌーク語は、人や物の特質や属性を示すために抽象語を多用する。「この方法は、わたしの知っている他のいかなる言語よりもチヌーク語に多い」とボアーズは述べている。「悪い男が哀れな子供を殺した」がチヌーク語では「男の悪さが子供の哀れさを殺した」となる。また、女の使っている籠が小さすぎることを述べるのに「女は、はまぐり籠の小ささの中にエゾツルキンバイ(1-4)の根を入れる」という。
    それに、どの言語においても、語彙の穴を埋めるのに必要な手段を文脈や統辞法が提供するものである。また次の例のように、逆の場合、すなわち極めて一般的な用語の方が種名にまさって用いられる場合が、おなじく野蛮人の知的貧困の証拠として利用されることを見れば、前節にあげたような言い方の偏向性は明白となる。 】

    訳注
    (1−1)〔本書に出てくる生物学上の分類単位を上位から順に並べると、目(ordre)、科(famille)、属(genre)、種(espece)、変種(variete)である。ただしこれらは、フランス語ではあらゆる分類に用いられる一般用語でもある。したがって現在行われる生物学の系統分類を一つの特殊ケースとする分類一般の基礎を問題にし具体例の多くが民俗分類である本書では、当然ながらこれらの用法は生物学用語としての使い方に必ずしも一致しない。なおgenreとespeceとは分類学のもっとも基礎的な単位であり、「属」、「種」と訳されている場合でも、単に分類体系の中間的二次段階ではなくて、論理学でなら類概念と種概念を示す基本的対立語(形容詞generique/specifique, general/special)であることに留意する必要がある。〕

    (1−2)〔たとえばレヴィ=ブリュル『未開社会の思惟』(山田吉彦訳、岩波文庫)上巻、第四章(とくに214項)参照。〕

    (1−3)〔人間について用いられたprimitifsを「未開人」、sauvagesを「野蛮人」と訳す。Sauvagesは文明人と対立的に使った古い用語であり、現在はほとんど誰も用いないので、本書にこの語が用いられておれば、とくに断ってなくても昔の誰かの言い方を引いているのである。それに対してprimitifsは社会進化説以来sauvagesにとって代わった用語で、現在もかなり広く用いられている。ところがレヴィ=ストロースは、進化説や自民族中心主義の臭いのあるところのprimitifsも自分の用語としては用いない。したがってコンテキストから彼自身の用語ではないことがわかる場合でなければ、括弧に入れるか、「いわゆる」をつけて用いる。なおレヴィ=ストロースがよく使っているindigenes(語原的には「その土地に生まれた人」を意味する)は、サルトル邦訳を含めてふつう「土人」、「土民」、「原住民」と訳されているが、著者の考え方を考慮して、人種的偏見とコロニアリズムの臭いのするこれらの訳語を避け、若干の無理を承知の上で一般的には「現地人」とし、「原住民」の方はオーストラリアのaborigenesやアメリカ・インディアンのように、自分の住んでいた土地を奪われてしまった人々のみに用いることにした。〕

    ここでの訳注を整理すると、
    *primitifs→「未開人」
    *sauvages→「野蛮人」
    *indigenes――「その土地に生まれた人」→「現地人」
           「自分の住んでいた土地を奪われてしまった人々」→「原住民」
    かな。
    「自分の住んでいた土地を奪われてしまった人々」で、ほかの語として「先住民」っていうのもあるかも。

    人類(人間)の呼び名に、いろんなのが出てきてる。
    「野蛮人」「未開人」「文明人」

    ネットで調べて見たら、
    「野蛮人」
    1 未開人。蛮人。
    2 粗野で教養がない人。不作法で粗暴な人。
    「文明人」
    文明社会に住む人。また、高い水準の文化を身につけている人。

    自称文明人から見て、野蛮人・未開人っていう呼び名になるのかな?

引用返信/返信 削除キー/
■22988 / inTopicNo.43)  NO TITLE
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/01(Sun) 18:02:36)
    コロナは終わったみたい。
引用返信/返信 削除キー/
■22987 / inTopicNo.44)  Re[55]:
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/01(Sun) 17:54:45)
    ロシア人の殺人計画、
    何をもって達成されるのかしら?
引用返信/返信 削除キー/
■22967 / inTopicNo.45)  Re[54]: 人類学
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/04/30(Sat) 18:11:16)
    ここまでの、わたしなりに整理して見ると、

    *〈近代西洋の知のあり方、分類の仕方〉(x)っていうのがあって、
    *〈西洋から見て異質な諸社会〉(y)っていうのがあって、
    *「人類学」は(y)を研究してて、
    *それから〈人間とその活動をその総体において把握しようとする〉学問。

    『野生の思考』の本では、
    a.フィールドワークに基づく人間集団の個別的な観察記述ethenographieを「民族誌」
    b.その成果を比較研究し一般的モデルを適用するethnoligieを「民族学」
    c.普遍性全体性の研究であるanthropologieを「人類学」あるいは「人間学」
    と区別している。

    *[anthropologie]をネットで調べたら、
    フランス語でanthropologie、ドイツ語でAnthropologie、日本語で「アントロポロギー」で「人類学」。
    ってあった。

    *〔anthropologie(語原はanthropos「ヒト」の学)〕から、「人間学」とも「人類学」とも言える。

    *哲学では[anthropologie]を「人間学」という意味に使ってきたみたい。
    レヴィの「人類学」は、〔人間の普遍性全体性(現代社会の歴史的人間とに共通の人間性があるとする)の研究〕として見て、「人類学」も「人間学」なんだよ、って言ってるんだと思う。

    *レヴィの「人類学」は、哲学でいう「人間学」としてのanthropologie。

    「人間学」のanthropologieで、ちょっと想い出したんだけど、
    わたしが読んでる「カント」(小牧治著)の中に、

    (1)『純粋理性批判』――人間は何を知りうるのか
    (2)『実践理性批判』――人間は何をなすべきか
    (3)『判断力批判』――道徳と自然との調和
    (4)『恒久平和のために』――けっきょく、人間とは何であるのか――『実用的見地における人間学(アントロポロギー)』
    ってあった。

    (4)に、〔人間学(アントロポロギー)〕ってある! anthropologieのことよね。
    カント哲学も「人間とはなんであるのか」すなわち「人間学」だったのかも。
    もしそうだとしたら、“思考されたもの”は別として、カント哲学とレヴィ人類学とがつながった感じ。

    レヴィの人類学は「人間とは何であるのか」を人間の“原初的なところ”を探究しようとしてたのかも。
    こういうのって現象学的還元という方法と似てる気がしてる。

引用返信/返信 削除キー/
■22950 / inTopicNo.46)  Re[53]: 人類学
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/04/29(Fri) 18:38:07)
    No22942のつづき

    サルトルが。〔人類学はethnoligie(民族学)としてしか成り立たない〕、〔レヴィ=ストロースの考える意味でのanthropologie(人間学)としての人類学の成立つ可能性を否定〕したのに対して、レヴィの皮肉っぽい言、わたしこういうの好み。

    〔(本書300項注)〕

    【自我の明証性と称されるものの中にまず自らの位置を定める者は、もはやそこから出ることはない。人間の多様性についての認識は、むしろ自己のアイデンティティの罠にひっかかっている人の方にときにはより容易に見えるものである。しかしそれは、人間の普遍性の認識への扉を閉ざすことになる。文章化されようとされまいと、「懺悔」があらゆる民族誌的研究の根本である。ところがサルトルは、自分のコギト(300-1)の虜因となっている。デカルトのコギトは普遍性につながるものであったが、ただしそれは、コギトが心理学的、個人的な枠内にとどまるという条件の下においてであった。コギトを社会学的にすることによってサルトルはただ牢獄をかえるだけにすぎない。すなわち、そうなると、主体それぞれに属する集団と時代とは非時間的意識の代わりになる。それゆえ、世界や人間に対するサルトルのねらいは、伝統的な閉鎖的社会の特徴とされてきた狭さを示すのである。サルトルが安易な対比をたくさん重ねて未開人と文明人との間の区別を強調するのは、彼が自己を他者のあいだに設定する基本的対立を、ほとんどそのまま反映している。ところが、サルトルの著作におけるこの対立の表現法は、メラネシアの野蛮人のやり方と大差はなく、また実践的惰性態(300-2)の分析は、アニミズムの言語をそのまま復活させただけのものである*。】

    【*野生の思考のこれらの面はことごとくサルトルの哲学にも見出される。まさにそのゆえにこそ、この哲学には野生の思考を批判する資格がないと私は考える。等質であるということだけで、その可能性はなくなるのである。それに対し、民族学者にとっては、この哲学は(他のすべての哲学と同様に)第一級の民族誌的資料である。現代の神話を理解しようとすればその研究は不可欠であろう(300-3)。 】

    以上が本文に書かれてたところ。

    あ、ちょっと、ことわっとく。たとえば(300-1)の(300)っていうのはページ数のことね。実際には単に(1)としか書いてないんだけど、補足してあります。どうしてかっていうと、2ページにまたがるところに訳注があると、(1)が二つ出てしまうこともあってわかんなくなっちゃうから。

    で、ここの訳注が以下ね。

    訳注(300-2)
    〔コギトcogito――「意識のその機能の面からとらえて『コギト』という。もちろん、デカルトの『コギト・エルゴ・スム』にはじまる語。意識もしくは対自とまったく同義。」(松浪信三郎氏、『存在と無』第三分冊44項)「サルトルをマルクス主義から区別しているゆえんのものは、つねに彼のコギトの哲学である。」(メルロ=ポンティ『弁証法の冒険』218項、滝浦氏他訳)〕

    訳注(300-2)
    〔実践惰性態pratico-inerte−―サルトルの用語。「人間の実践に源をもつ物質性、あるいは物質化され惰性化された実践の意。」(竹内房郎氏、サルトル手帳28,3ページ)詳しくは『弁証法的理性批判』参照。〕

    訳注(300-3)
    〔「民族誌」は「人間学(人類学)」に対立させて使われており、特定の集団と時代(つまり現代の西欧)に限られたものであるという意味で、きびしい批判。したがって「第一級」というのも皮肉。訳者あとがき参照。「現代の神話」とは硬直したイデオロギーのドグマを指す。本文の「アニミズムの言語を復活させた」というのは、人間が生体としての自己の意識を投影して世界を解釈するという、アニミズムの原理、手続きと対比しているのであろう。〕

    (本書300項注)――わたしこう見てる、
    レヴィは、サルトルの哲学を“現代の神話”として見て、だから民族学者にとっては、サルトルの哲学は第一級の“民族誌”的資料になるね、って言ってるんだと思う。ん〜ん、たしかに、痛烈な批判〜

    で、
    No22942の訳者あとがきにあるように、
    〔レヴィ=ストロースは、本書において、最終章「歴史と弁証法」のサルトル批判にとどまらず、全編で、サルトルなどが「未開人」についてもっている偏見を打破し、「現代社会の歴史的人間とに共通の人間性」があることを明らかにして、人間学としての人類学の根拠を示そうとするのである。〕
    っていうのが『野生の思考』見たい。

引用返信/返信 削除キー/
■22942 / inTopicNo.47)  Re[52]: 人類学
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/04/29(Fri) 15:07:51)
    No22883の訳注のつづき

    訳注(iv-1)
    〔「人間学」と「人類学」がどちらもanthropologieであることことに、本書ではとくに留意する必要がある。訳者あとがき参照。〕

    〔訳者あとがき参照〕ってあるから、そこんところ、書き写して見ます。

    (訳者あとがき)
    〔「人間学」と「人類学」がどちらもanthropologie(語原はanthropos「ヒト」の学)であることに、本書では特に留意する必要がある。この語はもともと一般には生物学的な人類学、すなわちanthropologie physique「自然人類学」のことを指し、哲学者は「人間学」という意味に使ってきたけれど、両者はほとんど重なり合うことはなかった。アングロ=サクソン系の国国では早くから「民族学」ethnoligieの代わりに、「文化人類学」anthropologie culturelleないし「社会人類学」anthropologie socialeを含めてこの語が用いられてきたが、フランスでanthropologieが社会科学人文科学に用いられるようになったのは、とくにレヴィ=ストロースによるところが大きい。近年では社会心理学、経済学、政治学、精神分析学などの関連領域を含めて、さらに幅広い人間研究に適用されている。しかしながらレヴィ=ストロース自身はとくに本書では、サルトルとの関係もあって、ethnos「民族」に焦点を合わせたethnoligie「民族学」と対比してanthropologieに人間の普遍性全体性の探究として厳密な意味を与えて用いている。それゆえに哲学的な「人間学」と重なり合い、「哲学対人類学」という問題に真正面からぶつかることになる。しかしanthropologieをめぐる議論をしかけたのもサルトルのほうである。『弁証法的理性批判』においてanthropologie structurale(1958)に対置されていることは明白である。(sturactureの形容詞としては、フランス語の造語法からはstracturelの方がより自然である。プラハ学派の用語として言語学でstracturelが用いられてきたために、レヴィ=ストロースはそれを使っているのである。なおサルトルのstracturelとstructuralとの違いについては『レ・タン・モデルヌ』1966年十一月号の構造主義特集――邦訳『構造主義とは何か』みすず書房−―のプロイオンの紹介文参照。)サルトルにとっては実存哲学こそanthropologieなのであって、人類学はethnoligieとしてしか成り立たないと考えている。これが単に多義語による混乱ないしは恰好のよい名前の取り合いではなくして、レヴィ=ストロースの考える意味でのanthropologieとしての人類学の成立つ可能性を否定するものであることは、たとえば次の文でも明らかである。「諸集団の多様性と、各社会の通時的な進化とが、一つの概念論的知の上に人間学(anthropologie)を打ちたてることを禁じている。たとえばミュリア族と現代社会の歴史的人間とに共通の〈人間性〉を発見することは不可能であろう。」(『方法の問題』平井啓之訳、179項)レヴィ=ストロースは、本書において、最終章「歴史と弁証法」のサルトル批判にとどまらず、全編で、サルトルなどが「未開人」についてもっている偏見を打破し、「現代社会の歴史的人間とに共通の人間性」があることを明らかにして、人間学としての人類学の根拠を示そうとするのである。Anthropologieとethnoligieをめぐるこのようなやりとりを考慮に入れないと、サルトルの哲学は民族学者にとって現代の神話の研究に不可欠な第一級の民族誌的資料である(本書300項注)というような文が賛辞ではなくて痛烈な批判であることが理解されない。
     本書では、フィールドワークに基づく人間集団の個別的な観察記述であるethenographieに「民族誌」、その成果を比較研究し一般的モデルを適用するethnoligieに「民族学」、前述のような普遍性全体性の研究であるanthropologieに「人類学」(ときには「人間学」)という訳語を採用した、これはあくまで、この区別が大切な本書の翻訳上の必要があったからであって、我国での用語に必ずしも対応するものでないことは言うまでもない。日本は、自ら人類学者と称する人の一部を含めて、「人類学」という語を人間に関することなら何にでも、きわめて安易に用いる唯一の国である。なお『弁証法的理性批判』の邦訳で「人種学」、「人種誌学」とされているのが本書の「民族学」、「民族誌」にあたる。18世紀末から19世紀始めにかけては、ethnoligieが人種の分類研究(現在の自然人類学の一部)、ethenographieが言語の違いによる人間集団の分類研究を指しており、わが国では明治初期に「人種学」、「人種誌学」の訳語があてられたのであるが、化石的用法を別にすれば、このような使い方は百年間で終わっている。レヴィ=ストロースによる「民族誌」「民族学」などの定義については『構造人類学』邦訳4-5項、311-2項、393-5項、Enciclopedia Italianaのantropologiaの項(Diogeneの90号に抜粋掲載)などに出ている。〕


    a.フィールドワークに基づく人間集団の個別的な観察記述であるethenographieを「民族誌」、
    b.その成果を比較研究し一般的モデルを適用するethnoligieを「民族学」
    c.人間の普遍性全体性の探究であるanthropologieを「人類学」あるいは「人間学」
    って区別しとく。

    サルトルは、
    〔「諸集団の多様性と、各社会の通時的な進化とが、一つの概念論的知の上に人間学(anthropologie)を打ちたてることを禁じている。たとえばミュリア族と現代社会の歴史的人間とに共通の〈人間性〉を発見することは不可能であろう。」〕と言い、〔人類学はethnoligieとしてしか成り立たない〕と考えていて、〔レヴィ=ストロースの考える意味でのanthropologieとしての人類学の成立つ可能性を否定〕してたみたい。

    サルトルの『方法の問題』『弁証法的理性批判』はともに1960年、レヴィの『野生の思考』は1962年。

    つぎに、〔(本書300項注)〕のところを書き写して見ます。

引用返信/返信 削除キー/
■22934 / inTopicNo.48)  Re[51]: 人類学
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/04/29(Fri) 09:40:01)
    この連休はレヴィので過ごそっかな。コロナ怖いし。

    No22883の訳注です。

    訳注(iii-1)
    〔メルロー=ポンティは1952年サルトルと袂を分かち、『レ・タン・モデルヌ』を去った。直接には政治的理由からとされているが、メルロー=ポンティは1955年に刊行された『弁証法の冒険』(滝浦他訳、みすず書房)においてサルトルを批判し、極端な主観主義によって弁証法を失ったウルトラ・ボルシュヴィズムに陥っていると断じて、決裂の思想的背景を明らかにした。この著作に対し、ボーヴワールから激しい反論が加えられた。サルトル自身はメルロー=ポンティの歿後『レ・タン・モデルヌ』の追悼特集号(1961年十月号)に掲載された「生けるメルロー=ポンティ」――『シチュアシオン4』(平井訳、人文書院)――に、自分の立場を述べている。「サルトルのある著作」とここに書かれている『弁証法的理性批判』(1960)に対する本書でのレヴィ=ストロースの批判は、表面的な主題の差を越えてメルロー=ポンティと軌を一にするところがあり、その理解には前記の考慮に入れざるを得ない。レヴィ=ストロースが「両者を対立させようとしたとは考えないでいただきたい」と書いてあるのは、前後の文を見ると、文字通りの意味とともに、自著の巧みな位置づけでもあると考えられる。〕

    訳注(iii-2)
    〔メルロー=ポンティはレヴィ=ストロースの人類学の哲学的意味をもっとも早く理解し、彼をコレ−ジュ・ド・フランスCollege de France(世界最高レベルの学者のみを集めて自由に講義研究を行わせる機関。16世紀にフランソワ一世が創設した。この学校の教授になることは学者にとって最高の名誉とされる。)の教授に任命するよう尽力した。また1960年刊行の『シーニュ』(竹内他訳、みすず書房)にすぐれたレヴィ=ストロース論「モースからレヴィ=ストロースへ」を書いている。しかしこのような表面に出た事実以上に、この二人の交した対話が互いに有効なものであったかはL’Arcの46号メルロー=ポンティ特集(1971)にレヴィ=ストロースが寄せた短文De quelques rencontresによって窺い知れる。またレヴィ=ストロースといかなる関係があったかはわからないが、「野生の思考」pensee sauvageという表言は、未完の遺稿『見えるものと見えないもの』(滝浦・木田訳、みすず書房近刊)の中でメルロー=ポンティが使っている。サルトルとの決別以後のメルロー=ポンティの著作とレヴィ=ストロースの本書とには、両者の知的交流のあとがとりわけよく読み取られる。なお次に出てくるボーヴワールを含む三人の出会いとなったことは、彼女の回想記にも記されている。正確には1931年のことらしい。〕

    メルポンのとレヴィのとサルトルのとの関係はこうだったみたい。

    サルトルの『弁証法的理性批判』、ネットで調べて見たんだけど、ここらへんは後で、分かったら。

    〔「野生の思考」pensee sauvageという表言は、未完の遺稿『見えるものと見えないもの』(滝浦・木田訳、みすず書房近刊)の中でメルロー=ポンティが使っている〕ってあったから、探して見たんだけど、これも後にする。

    いまは、レヴィ「人類学」っていうのをわたしに見えるようにしているところ。

    つづく

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