| みなさまこんにちは。
出版社のサンガのホームページに永井均さんの記事があったので、 アドレスを投稿します。
https://samgha.co.jp/websamgha/nagai/自己ぎりの自己、とその蔓つる/
一部抜粋します。
抜粋引用開始 『どんなことが起こっているかに関係なく現在は端的に現在であり、どんな人であるかに関係なく私は端的に私である。諸々の時点のうちこの時点が現在であることにはいかなる根拠もなく、もろもろの人間のうちこの人が私であることにはいかなる根拠もない。出来事どうしの繋がりには多くの因果的連関があるが、ある出来事がなぜか現在であることはいかなる因果連関からも独立であり、ある人がある性質や状態にあること(自分を意識していたり、身長一八七センチであったり、鬱うつ状態にあったり、縮れ毛であったり、…)には因果的根拠があるが、ある人がなぜか(他人ではなく)私であることにはいかなる因果的根拠もない。伝統的な仏教用語を使って、因果的に条件づけられていることを有為と呼び、条件づけられていないことを無為と呼ぶなら、ある時点が現在であることも、ある人が私であることも、無為なのである。』 抜粋引用終了
pipitは永井均さん哲学のことを詳しくちゃんとわかってないんですけど、 〈私〉の独在性の根拠(因)が無いと捉えてるんだな、と思いました。 超越とかにも、ここらへんの捉え方が関係してくるのかなあ?わからないけど?と思いました。根拠を超越して働きが現出してる、、、もしくは、対象から超越した存在ということかなあ?とか。。。勝手に考えてみました。 記事の最後らへんで、他人のことを超越者と表現してる箇所もありました。 この場合は、自分〈私〉から超越した存在だからかなあ?と勝手に考えてみました。
抜粋引用開始 『私の思うところでは、これは、通常の言葉によるヤリトリとは逆に、先ほど述べた意味での無為なる存在が、他,の,無,為,な,る,存,在,に,呼びかける、いわば超越者に対する祈りの言葉なのである。』 抜粋引用終了
時とともに永井均さんの思想も変わってる可能性もありますね。 わかってないまま、この辺関連あるかな?との推測で投稿して、 推測がはずれてて、全然意味なかったらすみませんm(_ _)m
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