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■9381  非形而上学的主体
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/23(Mon) 11:49:42)
    2020/11/23(Mon) 12:14:44 編集(投稿者)

    『…前略…探究は、個別的なものから普遍的なものへ、感覚的なものから超越的なものへ、究極的な原因・原理へと遡源する。それはアリステレスがしばしば説いたように、「我々にとって先なるもの」から、「本性上先なるもの」へと遡ることである。ここで探究されている学が、感性界の事様にかかわる自然科学的諸巻の後に置かれたのは、このようなアリストテレスの精神に従ってのことである。究極的なものへの探究は、哲学の様々な分科的諸部門を超えて、「第一の哲学」を求める。アリストテレスによれば「すべての学は、ある特定の存在および類を抽き出して、その研究に専念しているが、存在を端的に、存在を存在として研究することがない」「存在としての存在」の原因・原理を研究する。それは最も普遍的な、最も究極的なもの、その故に、永遠のものであって最も尊いものである。…以下、略…(講談社現代新書『現代哲学事典 形而上学』より引用)』

    東洋哲学に対して西洋哲学の後進性は形而上学の定義や分類にある。
    それはユダヤ・キリスト教的なドグマ、つまり創造主による創造論や根本的存在が哲学に長い影を落とした結果と言える。自己探究に関して西洋哲学が疎かであった理由と同じ。
    もうそろそろ世界標準として、形而上学なんて分野は哲学から排除し、信仰や諸宗教に任せればよい。
    科学哲学のように宗教哲学として宗教や宗教的ドグマ(神や根本存在等々)を哲学する分野とすればよい。

    〈私〉に関して形而上学的主体とか、形而上学とする西洋哲学的感覚?には違和感がある。
    何故なら、これ以上の確たる形而下的存在がありえないからである。
    そもそも感覚ないし経験を超え出でた世界を人間は探究することができない。

    『われわれは認識のための、「真理」のための器官を、全く何ひとつ有(も)っていない。われわれは、人間群畜や種属のために有用だとされるちょうどそれだけを「知る」(あるいは信ずる・あるいは妄想する)のである。(ニーチェ著『悦ばしき知識 第354番』より)』

    『真理への意志とは、固定的なものをでっちあげること、真なる・持続的なものをでっちあげること、あの偽りの性格を度外視すること、このものを存在するものへと解釈し変えることである。それゆえ「真理」とは、現存する或るもの、見出され、発見されるべき或るものではなく、──つくりだされるべき或るもの、過程に代わる、それのみならず、それ自体では終わることのない征服の意志に代わる名称の役目をつとめる或るもののことである。すなわち、真理を置き入れるのは、無限過程、能動的に規定するはたらきとしてであって──それ自体で固定し確定しているかにみえる或るものの意識化としてではない。それは「権力への意志」の代名詞である。(『力への意志 第552番』より)』
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