| ニーチェが客観について語っているアフォリズムは少ない。 むしろ誤謬や虚偽、虚構性や混沌を肯定的な意味で題材にしていることが多い。
『われわれが全知的世界を刺戟と感覚にまで還元してゆくならば、この貧弱極まる知覚は、およそ何らかの説明作用をもたらしてくれないであろう。認識者がなければ認識は存在しないとか、客観がなければ主観は存在しないとか、主観がなければ客観は存在しないとか、という命題は、全く真理ではあるが、この上なく陳腐なことである。
われわれは、物自体については何事も言表することができないのである。何故なら、そのときには認識者すなわち測定者の立場を、われわれは足下から取り去ってしまっているからである。性質というものは、われわれにとって、つまり、われわれに即して測られることによって、現に存在するのである。尺度を取り去るならば、そのときには何がなお性質であり得よう!事物が何であるかということは、しかしてただ、そのかたわらに捉えられた測定する主観によって、証明されるべきことである。事物の諸性質自体などということは、われわれには何の関係もないのである。ただし諸性質がわれわれに影響を及ぼす限りでは、関係がある。(ニーチェ初期遺稿、ちくま学芸文庫ニーチェ選集第3巻「哲学者の書 1872年秋および冬から 「最後の哲学者」「哲学者。芸術と認識との闘争に関する諸考察」」より)』
『しかしそもそも私には、「正しい知覚」という如きことは、──これはすなわち、客観が主観のうちで適正に表現されるということにほかならぬのであろうが、このようなことは──、矛盾に充ちた不可能なことに思われるのである。(ニーチェ初期遺稿、ちくま学芸文庫ニーチェ選集第3巻「哲学者の書 1873年夏から 道徳外の意味における真理と虚偽について」より)』
『この本(1886年)はすべての本質的な点において近代性の批判である。近代科学、近代芸術、いや近代政治さえも除外されていない。と同時にこの本は、可能なかぎり最も近代的ならざる一つの反対典型(タイプ)、高貴な、然り(ヤー)を言う典型を示唆しようとするものである。この後者の意味においてはこの本は一つの貴公子の学校である。ただし、この貴公子という概念を史上最高に精神的かつラディカルに解していただきたい。この概念に耐えるだけのためにも身によほどの勇気がいる。恐れるなどということを習い知ったらもうだめだ…時代が誇りとしているすべてのものが、この典型に対する矛盾と感じられ、無作法とさえ思われる。たとえばあの有名な「客観性」がそうだ。「すべての悩める者への同情」などというのもそうだし、他人の趣味への屈従、顛末事への平伏がつきものであるあの「歴史的感覚」とか、例の「科学性」などもそうだ。(「この人を見よ 自伝集 善悪の彼岸2」より)』
ニーチェにとって認識そのものが誤謬まみれで、ある種の錯誤でしかないため、客観性などというものはニーチェ哲学においては俎上にも載らないキワモノでしかない。逆説的に言えば誤謬をともなった認識こそが創造性の原動力でもあり、認識対象に如何様にも意味や価値を付与しうる創造者(人間)としての特権的能力であるということ。
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