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■9325  Re[10]: 二種の不二
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/22(Sun) 15:07:15)
    パニチェさんへ

    > 真我や梵我一如は仏教の文脈ではそこには悟り、つまり生に伴う苦の克服というか、執着や煩悩から脱した安らぎの境地の意味も含まれます。
    > ところがパニチェの〈私〉には先にも述べたように、そんな効能や効果はもちろん、意味や価値もありません。ただ存在するだけ。

    ふさわしい喩えかどうかわかりませんが、シェークスピア俳優と彼が演じるリア王の関係というのがあります。人間の生における苦を表すのがリア王ですが、自分は俳優本人でしかないことが真にわかれば苦は軽減されるか終焉しますね。俳優本人=〈私〉であれば、存在そのものに目覚めることと、執着や苦からの解放は別のことではないようにも思います。

    ただ、永井さんがもつ哲学の理想形は、安易な収束ではなく難問を生み出す生産性にあるらしいです。仏教者が苦の解放という実践ゴールだけで完結することの正反対をやりたいのかもしれません。本を書くたび、対話をするたびに解決困難なテーマが浮上することを歓迎しているようにも見受けられます。
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