| パニチェさんへ
> >>****** 以下、「世界の独在論的存在構造」より引用 ****** > > >>〈私〉の存在は、科学的であれ歴史的であれ、この世界の客観的事実を超えた超越的な存在なのである。と、このように語るとき、それは(私が語っているからと言って)永井均のことを語っているのでもなければ、またもちろん一般的な自己意識としての「私」のことを語っているのでもない。実を言えば、それについて通常の言語で語ることができないのである。だからじつは、ここでも語られていない。という意味では実在してもいない。 > >>そして、これが「真我」の真の意味であろう。バラモン教(やヒンドゥー教)の説くところによれば、それぞれの個我の世界である小宇宙は宇宙に遍在するその根本原理であるブラフマン(梵)と、通常は切り離されているのだが、アートマン(真我)という自分の真のあり方を自覚すれば、それと合一することができる。これは、世界にはたくさんの人間が並列的に存在し、それぞれに自我があるというような、通常の平板な世界解釈の内部だけで理解しようとすれば、何やら神秘的なお話のように見える。しかし、そのような平板な世界解釈を超えて、端的な事実をありのままに捉えれば、むしろ端的な事実をありのままに語っているだけだ、と見ることもできるだろう。たくさんの個我たちのなかになぜか〈私〉が存在しているとは、つまり一人だけ世界(宇宙)そのものと合一している不可思議なものが存在しているということであり、じつのところはそうとしか捉えようがない(通常の平板な世界解釈では捉えられない)からである。そう捉えれば、「梵我一如」はむしろ単純で自明な事実にすぎないのである。そのような捉え方によってしか、私はたくさんの人間のうちどれが私であるかを識別できないからである。 > > >>******************* 引用終わり ******************* > > >>パニチェは上記の「〈私〉の存在は、科学的であれ歴史的であれ、この世界の客観的事実を超えた超越的な存在なのである」&「ここでも語られていない。という意味では実在してもいない。そして、これが「真我」の真の意味であろう。」には違和感がありますが、knowing itselfさんはないですか? >>ここの説明は西洋神学や哲学の否定神学的な「神」に近いと思いますが、永井さんも「神」という語を使わずに同じようなことを考えているといえないこともないですね。「真我」もそれとの互換性が成り立つような意味で使っているのではないでしょうか。永井説ならこうなると思います。 > > 「〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU」で永井さんは第五図と〈私〉と慈悲の問題に関して良道さんが超越的であるのに対して永井さんや一照さんは超越論的なスタンスであったように思います。ところが「世界の独在論的存在構造」では「超越的な存在なのである」と述べており、少しブレでいる感があります。
「バージョンU」p153の最後の段落からp154にかけて、パニチェさんによる上記引用文の最初の5行を少し膨らませた記述になっていると思います。永井さんによると、超越は超越なんだけど、世界に属してはいないんだけど、だからといって離存していない、ある意味では超えているけれど、ある意味では密着している、こういう形における存在の仕方が「超越論的」の特徴になるようです。
それから、サンガ版の「哲学する仏教」では、世界を在らしめるという問題と超越論的世界構成の問題は違う源泉だけど、永井さんはこれを合体させようとしているので、わかりにくくなっていると発言されています。
一筋縄ではいかない感じですね。
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