| パニチェさんへ
>>ここはパニチェさんと永井さんは違うかもしれません。永井さんは〈私〉の他に、その底にさらに別の不二を持ちださないように思います。山下さんも二つに分けないのではないでしょうか。 > > ここが重要な点なんですね。伝わるかどうか多少不安ですが。。。 > パニチェも永井さんと同じく、〈私〉の他に、その底にさらに別の不二は持ち出しません。 > にもかかわらず、何故、永井さんが良道さんの言うところの不二と同義になるのか、それが分かりません。 > > 良道さんも二つには分けませんが、あくまで後者、つまり〈私〉も他者も物や現象もひとつの全体性として唯一無二となるものだとパニチェは判断しています。 > この意味において不二には二種あるということをパニチェは先のレスで述べており、〈私〉も他者も物や現象もひとつの全体性として唯一無二となる不二にはパニチェは同意できないということです。
永井さんの場合、〈私〉と他者や物や現象がひとつの全体性として唯一無二の不二とするというよりは、〈私〉の中に他者や物や現象が開闢されていくと考えているのではないでしょうか。〈私〉の外に他者や物や現象があるわけではないという意味では、不二とみなすこともできるかもしれません。「世界の独在論的存在構造」p290ー291にも、「そう捉えれば、「梵我一如」は単純で自明な事実にすぎないことになる」といった旨の記述によって、この辺りに少し触れていますね。
良道さんの場合、第五図の私というときの私は、他者や物や現象とひとつの全体性に溶け込むというより、世界からの超越性に比重が置かれていると思います。ここは、普通の禅者と違うと個人的には理解しています。
> 何故なら〈私〉と〈私〉以外の世界や他者とは同列になりえず、世界や他者が〈私〉に統合され不二となるということです。 > 要するに〈私〉は無我や無自性となりません。
先にも述べましたが、〈私〉の中に含まれるという意味では、厳密にはイコールではありませんが、中に入っちゃっているという意味では「ひとつで同じ」ともいえると思います。無我や無自性は中味に当てはまる法理で、中味を包む〈私〉には当てはまらないといえるかもしれません。
>>幻想という話しですが、後者の不二は幻想である可能性もあるとのことですが、前者の不二にも言えなくはないですか。前者が幻想でないのなら後者も幻想ではないと思います。 > > 前者の不二が幻想であれば〈私〉も幻想というということになり、全ては泡の如く幻想ということになるでしょうね。
ここは非常に興味深いポイントだと思います。全ては泡の如く幻想になるとしても、その幻想を生み出す力はどこから来たのか?幻想を生み出す力だけはリアルじゃないのか?といった問いも生まれるのではないでしょうか。 |