| パニチェさんへ
>><存在>と存在の差異ということでしょうか? > > パニチェはそのように考えています。独我論という名称は「私」と同じく万人にも当てはめることができる存在の独在論性が削げ落ちた用語であり、独在論とは〈私〉と同じく言葉に出したり表記することで必然的に陥る「(永井さんが言うところの)独在と頽落の終わることなき拮抗運動」以前のパニチェにしか当てはまらない存在様相も含んだ用語(私的言語)であると考えています。 > > この点については以下の永井さんの定義からしても同じような(厳密には同じでありえないのが本質ですが)用語であると判断しています。 > > 『そもそもの「私」とは誰なのか。誰もがそれでありうるのではないか。この反問を受け入れた瞬間、独我論の意味は変質するのである。世上「独我論」あるいは「独我論的」と呼び慣わされている「論」の多くは、実のところは、この本質的な困難の前で挫折しこの変質を受け入れたその残骸にすぎない。……中略……彼らは、自己と他者の非対称のうちにある根本的な問題を感じたはずなのだが、その問題感覚を複数の主体が並立する通常の世界像の中に強引に位置づけ、その中で通用する言葉で表現しようとしたとき、問題そのものの変質が起こったのである。残骸としての独我論の主張者たちがそれを問題にしようとして挫折した当のものを、独在性と呼ぶことにしよう(永井均著「〈私〉の存在の比類なさ」P66〜P67からの引用)』
「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」は永井哲学を要約するフレーズですね。言語ゲームと語り得なさについての関係をも表現していると思います。
>>直接経験がこのスクリーンだけであって、他には事実としてもスクリーンがありえないのであれば、まさに不二そのものだと思います。スクリーンの外には文字通り何も存在しえない、写っているすべてが一枚の不二ではないでしょうか。 > > 詭弁に聞こえるかもしれないのですが、パニチェが思うに不二には二種類あります。 > ひとつは独在的であるが故の不二、これは〈私〉しか存在しません(他者は存在様相が〈私〉とは異なり、他の物や現象と同類の世界内存在です)。 > もうひとつは〈私〉の独在性の底も抜けた不二、これは〈私〉も他者も物や現象もひとつの全体性として唯一無二となるもの。 > パニチェは前者から後者へ跳躍していませんし、ひょっとすれば後者が幻想(ある状態の脳が創出する世界)ではないか?という発想も排除していません。
ここはパニチェさんと永井さんは違うかもしれません。永井さんは〈私〉の他に、その底にさらに別の不二を持ちださないように思います。山下さんも二つに分けないのではないでしょうか。
幻想という話しですが、後者の不二は幻想である可能性もあるとのことですが、前者の不二にも言えなくはないですか。前者が幻想でないのなら後者も幻想ではないと思います。 |