| 横レス失礼します。
青春ドラマじゃないですが本気で衝突しないと分かり合えないところはあると思います。
決して衝突は喧嘩だけってことではなくて議論も含めた価値観の衝突とかも含めて。。。
ことなかれ主義というか変な意味で自分に優しく他人に優しくが大手を振ってまかり通っている。
それは結局のところ傷つきたくないとか、自己愛の裏返しであったりする。
多少の傷は覚悟しないと、温室育ちでは生の醍醐味も味わえない。
異質なものと衝突して消化してこそ面白いのではないか?
『きみたちは、隣人のまわりに押しかけ、そのことを言い表すのに、美しい言葉の数々をもってするだが、わたしは、きみたちに言う、きみたちの隣人愛はきみたちの不十分な自己愛なのだ、と(ツァラトゥストラ)』
『ひとはなお隣人を愛し、隣人をわが身にこすりつける。というのは、暖かさが必要だからである。(同書)』
『「現代性」を栄養と消化にたとえて。──感受性の言いようのない敏感(──道徳主義的装いをこらせば、同情の増大──)、ばらばらの印象の以前にもましてはなはだしい充満、──食物、文学、新聞、様式、趣味、風景すらの世界市民主義。これらのものが流れこむテンポは快速調である。印象はたがいに消しあう。ひとは、何ものかを内に取りいれ、深刻に受けることを、何ものかを「消化する」ことを、本能的に警戒する。──消化力の弱化がこれから結果する。この累積した印象に対する一種の順応が入りこむ。人間は行動することを忘れ、外部からの刺戟にやっと反応するだけである。人間はおのれの力を、一部は同化で、一部は擁護で、一部は反抗で、使いはたす。自発性の深刻な弱化、すなわち──歴史家、批評家、分析家、解釈家、観察家、蒐集家、読書家、──すべては反作用の才能──すべてが科学であるとは!おのれの本性を〈鏡〉にするための人為的調性。関心はもちはするが、しかしいわばたんなる表皮的な関心。原則的な冷たさ、平衡、薄い表皮のすぐしたに保たれている不変の低い体温、その表皮のうえに、熱、動き、「あらし」、「波動」がある。動きやすい外面と、或る深いだるさや疲労との対立。(力への意志 第71番)』 |