| ■No706に返信(悠さんの記事) > 訓練校に行ってる間に随分読書が捗りました。何度も読んだ本を開いたり、読みかけを読んだり。少し前に「この人を見よ」を始めて読了しました。感想というかなんとゆーか、思ったことをつらつらと書いていくつもりです。次があるかどうかわかりませんが。 > ぼくが読んだのは2016年10月20日 丘沢静也氏訳です。古いものを選ばなかった理由は字が小さくて読みづらいと感じたからです。
検索で調べました。光文社古典新訳文庫版ですね。
> “ツァラトゥストラはこう言った これはみんなのための本であり、誰のための本でもない” > 手元の本では154ページ。
もう少し詳しく、どこの章のどの部分か書いてもらえると助かります。 私もその箇所を読んでみたいので。
> 「この19世紀末に、力強い時代の詩人たちがどういうことをインスピレーションと呼んでいたのか、はっきりわかっている人はいるだろうか?もしも誰もいないなら、私が説明しよう。ーほんのわずかでも迷信の名残をもっている人なら、実際、自分が圧倒的な力の単なる化身、たんなる口、たんなるメディアにすぎないのだという考えを、ほとんど払いのけることができないだろう。啓示という概念は、突然言うに言えないほど確かで微妙に、なにかが見えるようになり、聞こえるようになるという意味だが、その何かは、人をもっとも深いところで揺さぶり、狼狽させる。その意味で啓示はたんに事実を述べているだけのことである。人は聞くのであって、探すのではない。人は受け取るのであって、誰がくれるかと質問はしない。稲妻のように思想はひらめく。必然的に、ためらいなどなく。ー私は選択などしたことがない。恍惚となるとなるだけだ。」 > 「人は聞くのであって、探すのではない。人は受け取るのであって、誰がくれるかと質問はしない。」 > (探したり質問したりできるのは自分ではない。できるのは自分ではない何かの権利。)
> 「稲妻のように思想はひらめく。」 > (自分がひらめくのではない、自分ではない何かがひらめく。)
> 「私は選択などしたことがない。」 > (そもそも自分には選択権がない?)
> 「ほんのわずかでも迷信の名残をもっている人なら、実際、自分が圧倒的な力の単なる化身、たんなる口、たんなるメディアにすぎないのだという考えを、ほとんど払いのけることができないだろう。」 > (自分は、自分という意識は世界、宇宙、起源、本物に対して絶対的に遅れているってことでおっけー?)
> 啓示という概念は、突然言うに言えないほど確かで微妙に、なにかが見えるようになり、聞こえるようになるという意味だが、その何かは、人をもっとも深いところで揺さぶり、狼狽させる。 > (やっぱり自分で選べない感じ?)
永劫回帰という思想は受胎するというような表現をしているところがあります。 道元禅師の以下の言葉とかぶります。
正法眼蔵 画餅「誠信書房刊 現代訳 正法眼蔵」より転記 【諸仏が真理を体験するとき、万物が真理を体験する。たしかに覚者と万物は、表面的に見れば同一のものではない。しかし、真理を体験するとき、おのおのの体験が、互いに妨げあうことなく実現するのである。これが仏道の明確な教えである。それを、諸仏と万物が同一であるか異なっているかという分別によって学んではならない。そのため「一つのことに通じれば、すべてのことに通じる」というのである。一つのことを体験するということは、一つのことが本来具えている姿を奪うことではない。一つのことを他のことと対立させることでも、対立をなくしてしまうことでもない。強いて対立をなくそうすることは、こだわることである。体験することにこだわらないとき、一つの体験は、すべての体験に通じる。このように、一つのことを体験するということは、そのものになりきることである。そのものになりきるということは、すべてのものになりきることである。】
> おお、無意識ってやつか。主体とか客体とか意識とか無意識とかいうやつか。 > 自分が持ってる身体論「未来に向かって先行し続ける身体に対して常に遅れをとる自分」を全肯定されたみたいで嬉しかった、と言った方がしっくりくるかもしれません。 > なんてゆーか「ニーチェ先輩、マジでガチでカッコいいっす。俺、パイセンに惚れそうっす」と考えました。 > 過去ログを全く見ていないので、内容の重複はあるかと思いますがご容赦ください。
ニーチェは身体性こそ大いなる理性であり、意識性は、有機体の最後の、最も遅れた発展であると述べてますね。 多分、真如は意識したり、言語化することで矮小化され、個というちっぽけで陳家な思想に墜ちてしまうのでしょうね。
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