| 訓練校に行ってる間に随分読書が捗りました。何度も読んだ本を開いたり、読みかけを読んだり。少し前に「この人を見よ」を始めて読了しました。感想というかなんとゆーか、思ったことをつらつらと書いていくつもりです。次があるかどうかわかりませんが。
ぼくが読んだのは2016年10月20日 丘沢静也氏訳です。古いものを選ばなかった理由は字が小さくて読みづらいと感じたからです。
“ツァラトゥストラはこう言った これはみんなのための本であり、誰のための本でもない”
手元の本では154ページ。
「この19世紀末に、力強い時代の詩人たちがどういうことをインスピレーションと呼んでいたのか、はっきりわかっている人はいるだろうか?もしも誰もいないなら、私が説明しよう。ーほんのわずかでも迷信の名残をもっている人なら、実際、自分が圧倒的な力の単なる化身、たんなる口、たんなるメディアにすぎないのだという考えを、ほとんど払いのけることができないだろう。啓示という概念は、突然言うに言えないほど確かで微妙に、なにかが見えるようになり、聞こえるようになるという意味だが、その何かは、人をもっとも深いところで揺さぶり、狼狽させる。その意味で啓示はたんに事実を述べているだけのことである。人は聞くのであって、探すのではない。人は受け取るのであって、誰がくれるかと質問はしない。稲妻のように思想はひらめく。必然的に、ためらいなどなく。ー私は選択などしたことがない。恍惚となるとなるだけだ。」
「人は聞くのであって、探すのではない。人は受け取るのであって、誰がくれるかと質問はしない。」 (探したり質問したりできるのは自分ではない。できるのは自分ではない何かの権利。)
「稲妻のように思想はひらめく。」 (自分がひらめくのではない、自分ではない何かがひらめく。)
「私は選択などしたことがない。」 (そもそも自分には選択権がない?)
「ほんのわずかでも迷信の名残をもっている人なら、実際、自分が圧倒的な力の単なる化身、たんなる口、たんなるメディアにすぎないのだという考えを、ほとんど払いのけることができないだろう。」 (自分は、自分という意識は世界、宇宙、起源、本物に対して絶対的に遅れているってことでおっけー?)
啓示という概念は、突然言うに言えないほど確かで微妙に、なにかが見えるようになり、聞こえるようになるという意味だが、その何かは、人をもっとも深いところで揺さぶり、狼狽させる。 (やっぱり自分で選べない感じ?)
おお、無意識ってやつか。主体とか客体とか意識とか無意識とかいうやつか。 自分が持ってる身体論「未来に向かって先行し続ける身体に対して常に遅れをとる自分」を全肯定されたみたいで嬉しかった、と言った方がしっくりくるかもしれません。 なんてゆーか「ニーチェ先輩、マジでガチでカッコいいっす。俺、パイセンに惚れそうっす」と考えました。
過去ログを全く見ていないので、内容の重複はあるかと思いますがご容赦ください。 |