| こんにちはknowing itselfさん、大変興味あるお題なので横レス失礼します。
■No6962に返信(knowing itselfさんの記事)
まず第五図が〈私〉であるかどうかは横へ置くとします。仮に第五図がパニチェの言うところの〈私〉であれば現時点でそこに慈悲というものは現実的にありえないのですが。。。
> 本を読むと、第五図に慈悲その他の内容を入れることに永井さんは強く抵抗しているようにも見えます。第五図の中身は憎悪でもいんだと。 > これはまったく同意できないです。第五図が無色透明で最高度に抱擁力のある状態で、人間によるいかなる定義・意味充填を超えたものだとする。ここまではいいです。第五図に慈悲を入れる立場は、この状態を人間の語彙で表現すれば慈悲が近いということであって、第五図が慈悲の基準になるということです。慈悲→第五図ではなく、第五図→慈悲。最初に人間の側の慈悲があるのではなく、最初にあるのは第五図。 > 第五図的な状態に他の人も招きたい、第五図を他の人と共有したいという思いを慈悲といっているだけです。どうして、第五図に憎悪を入れる、第五図から憎悪が引き出される? > とくに、第五図を涅槃とみなす、仏教者からみれば、涅槃と親和性のある価値を結びつける方が自然であって、涅槃と憎悪は結びつけることが困難でしょう。憎悪こそが第四図にしか結びつかない情動だと思う。
もともとは以下の発言からですよね。
***** 以下、「〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU」より引用 *****
山下 要するに、コギト・エルゴ・スム、「我思う、ゆえに我あり」の我がある。我はすぐに平板化したけれども、もっと強烈な発見だったのが、打ち合わせの時にあったでしょう。それと同じく、「考える私」ではなくて、「慈悲する私」があるんです。(P.238)
永井 それはそうですが、そのことを言ったほうがいいですか。その話は簡単で、デカルトの思惟と言っても、本当は思惟じゃなくてもいいんですよね。感覚でも感情でも知覚でも想像でも想起でも予測でも、なにか意識がありさえすればいい。だから慈悲でもいいし、その逆の憎悪のようなものでも、それがあると思えばそういうやつがもう存在してしまっている、というだけのことですから、思惟と言われているものの中身とは全く関係ない形式的な話です。それと、そのことを現実んい感じる人は一人しかいないけど、少なくとも今は一人はいて、なぜかこいつである、ということが重なっている。(P.241)
*************** 引用終わり ***************
上記で永井さんが指摘しているのはフッサールで言うところの志向性のことだと思います。 つまり意識とは常に何かについての意識であるということ。 私は以下の一照さんの発言が一般的な悟りと慈悲の関係性だと思うのですが、knowing itselfさんはどのようにお考えでしょうか。
『藤田 でも、第五図の状態が開けることで、第五図の頭の中の人は、超越論的な次元からの働きを受け取れるようになってる。「私」の人に〈私〉の次元が拓けたとも言えます。そういういわば智慧に導かれて人と関われるようになる。だから慈悲というのは、第五図の頭の世界に属していないといけないと思うんですよ。それはブッダが樹下も打坐から立ち上がって街に帰っていったようなものです。もちろん根っこは第五図の坐禅の人なんですよ。でも第五図の坐禅の人が慈悲を持っていることにしてしまったら、それは超越的なものになってしまう。僕は超越論的であるために、超越論的な視野が開けることで、超越なしにこの世に足をおいて活動ができるからこそ、第五図の頭の中に変革が起こるという........。(同書P.172』
私は上記の一照さんに同意で、第五図に慈悲を取り込むということはラマナ・マハルシ師が言うところの神、誤解をおそれずに言えばキリスト教的な神の愛(アガペー)的な愛になるのではと考えています。
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