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■7283 / inTopicNo.1)  Re[53]: 哲学は案外役に立っている
  
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/03(Sat) 08:48:47)
    パニチェさん おはようございます

    > ■No7267に返信(knowing itselfさんの記事)
    >
    >>全然詳しくはないですが、永井さんは〈私〉(第五図)が「私」(第四図)に影響を与える回路があることに懐疑的なような気がしますが、カントの場合は、自然の合目的性という考え方によって、第五図(物自体界)と第四図(自然)がつながっている、第五図が第四図に反映するという回路を想定していると思います。もちろん、カントの三批判の描く哲学がこんなちっぽけな要約に尽きるわけはありませんが、個人的な印象としてはそういうことじゃないかと思っています。
    >
    > 〈私〉と「私」の関係性は以前にknowing itselfさんからラマナ・マハルシ師のところで教えてもらった夢を見る主体や熟睡する主体として考えれば分かりやすいと思います。
    >
    > 夢であることを自覚できる明晰夢は除くとして、熟睡状態はもちろん夢を見ている最中(三昧)では「私」を意識することはありません、「ただ見ている」だけの状態です。
    >
    > 夢を見ていたとか、熟睡していた、というのが分かるのは目覚めてからの「私」です。他の誰でもなく「私」が夢を見ていた(熟睡していた)ことが分かるのは、〈私〉が「見ていた」、つまり「見ていた」主体(〈私〉)が存在するからであって、これは言語を習得する以前から存在する〈私〉と同じです。
    >
    > その夢や熟睡が事事無礙(自体の境界がなく自己が世界、この場合は他者や物と無二)であることを知れば、自ずと慈悲が立ち上がり、慈悲に溢れた世界であったと後付けで「私」が分かることによって価値観が変わる、あるいは〈私〉が「私」に影響を与えるということだと思います。

    そういうことだと思います。この点、永井さんは〈私〉が「私」に影響を与えうるかについて、ヴィトゲンシュタインが使ったチェスの喩えを持ち出していましたね。チェスの駒に冠(〈私〉の開闢点という意味)をつけたとしてもチェスのゲームそれ自体が影響を受けることはあるだろうかという問題提起でしょう

    完全熟睡状態と目ざめた現実の状態。前者が後者にどれだけ影響を与えることができるか。この問いは哲学的には非常に難しいと思いますね。
引用返信/返信 削除キー/
■7281 / inTopicNo.2)  Re[53]: 哲学は案外役に立っている
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/03(Sat) 08:37:07)
    2020/10/03(Sat) 09:13:34 編集(投稿者)

    横レス失礼します。

    No7280に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 永井さんはものごころつく頃から第五図でみていたと言われています。本人の第五図解釈によるとまさに第五図にいる。ただ、永井さんは仏教的な世界観には批判的で、仏教は哲学としてレベルが低すぎるみたいな悪口を言う人です。第五図を空とイコールにはみていないと思います。空にいることと第五図は関係ないと考えていると思います。山下さんと同じ意味では第五図にいないと思います。

    永井さんのように仏教的な世界観には批判的で、仏教は哲学としてレベルが低すぎるなんてことはパニチェは一切思ってないのですが。。。
    上記のknowing itselfさんの解釈には同意しますし、パニチェの直接経験からしてもそうです。

    > ここは永井さんの表現が間違っていたと思います。第五図に憎悪があるというより、憎悪のある第四図の絵を第五図から観れるということで、第五図の本体には憎悪はないはずです。第五図の本体に憎悪がありうると永井さんが本当に考えていたのであれば、まったく同意できませんね。

    No7278でも投稿しましたが同意しますし、永井さんは第五図の本体に憎悪がありうるとは考えていないと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■7280 / inTopicNo.3)  Re[52]: 哲学は案外役に立っている
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/03(Sat) 08:13:38)
    たーぼーさん おはようございます

    >>全然詳しくはないですが、永井さんは〈私〉(第五図)が「私」(第四図)に影響を与える回路があることに懐疑的なような気がしますが、カントの場合は、自然の合目的性という考え方によって、第五図(物自体界)と第四図(自然)がつながっている、第五図が第四図に反映するという回路を想定していると思います。もちろん、カントの三批判の描く哲学がこんなちっぽけな要約に尽きるわけはありませんが、個人的な印象としてはそういうことじゃないかと思っています。
    >
    >
    > 私はこの掲示板を見ている人が少しでも何かヒントを得る為にも建設的な議論をしたいんです。
    > 一個づつはっきりさせたいんですが、knowing itselfさんは永井さんが本当に第五図にいる方だと思いますか?

    永井さんはものごころつく頃から第五図でみていたと言われています。本人の第五図解釈によるとまさに第五図にいる。ただ、永井さんは仏教的な世界観には批判的で、仏教は哲学としてレベルが低すぎるみたいな悪口を言う人です。第五図を空とイコールにはみていないと思います。空にいることと第五図は関係ないと考えていると思います。山下さんと同じ意味では第五図にいないと思います。



    > 6962のknowing itselfさんの引用↓
    > 本を読むと、第五図に慈悲その他の内容を入れることに永井さんは強く抵抗しているようにも見えます。第五図の中身は憎悪でもいんだと。
    >
    > これはまったく同意できないです。第五図が無色透明で最高度に抱擁力のある状態で、人間によるいかなる定義・意味充填を超えたものだとする。ここまではいいです。第五図に慈悲を入れる立場は、この状態を人間の語彙で表現すれば慈悲が近いということであって、第五図が慈悲の基準になるということです。慈悲→第五図ではなく、第五図→慈悲。最初に人間の側の慈悲があるのではなく、最初にあるのは第五図。
    > 第五図的な状態に他の人も招きたい、第五図を他の人と共有したいという思いを慈悲といっているだけです。どうして、第五図に憎悪を入れる、第五図から憎悪が引き出される?
    >
    > 7054の私の文章の引用↓
    > 第五図自体が慈悲であるという山下さんの言葉も共感出来ます。
    > 第五図は慈悲と智慧の源泉だと思います。
    > 永井さんが第五図は憎悪でもいいとか言ってましたが、全くトンチンカンな発言だと思います。
    > こんな発言が出るということは永井さんは第五図に入ってないと思う。
    >
    >
    > 私とknowing itselfさんは見解が共通しますね。
    > それでもknowing itselfさんは永井さんが第五図に入っていると思っておられるのですか?
    > パニチェさんなどもあまり違和感がないようですが、憎悪でもいいというのは私は全く同意出来ないんですが、そのあたりはどうやって納得されているんでしょうか?

    ここは永井さんの表現が間違っていたと思います。第五図に憎悪があるというより、憎悪のある第四図の絵を第五図から観れるということで、第五図の本体には憎悪はないはずです。第五図の本体に憎悪がありうると永井さんが本当に考えていたのであれば、まったく同意できませんね。



    > これは仏教3.0での対談における山下さん、藤田さん、永井さんの構図と全く同じですね。
    > knowing itselfさん、たーぼー、パニチェさん。
    > 仏教3.0バージョン2の対談で藤田さんも山下さんと第五図の見解をめぐって長いページに渡ってやりとりをしてますが(これについても思うことがあるんですが難解になるので次回。一個づつ片付けたい)、第五図が慈悲を焦点とする部分は一致しています。
    > 山下さんだけではなく藤田さんも憎悪というのは全く認められないと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■7278 / inTopicNo.4)  Re[52]: 哲学は案外役に立っている
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/03(Sat) 08:08:52)
    2020/10/03(Sat) 09:17:24 編集(投稿者)

    おはようございます、たーぼーさん、knowing itselfさん。
    横レス失礼いたします。まずはじめに。。。。。

    No7270に返信(たーぼーさんの記事)
    > 私はこの掲示板を見ている人が少しでも何かヒントを得る為にも建設的な議論をしたいんです。

    ロムしている人がいるかどうかはともかく(ここはネット上の僻地ですので^^)上記のたーぼーさんの「建設的な議論をしたい」を歓迎し、パニチェは完全に同意します。^^

    No7273に返信(たーぼーさんの記事)

    > ここで次回にしようと思っていた話になるんですが、私は内山図の難しいのは第五図は単純に空とするべきだと思うんです。
    > knowing itselfさんのいう物自体でもいいです。
    > これが内山図では第五図は座禅した人間になってますよね。
    > 第五図を座禅した人間とするなら私は藤田さんの慈悲は第五図の人の頭の中という意見に賛成です。

    私の意見は上記と同じです。
    ただ内山図はいずれの絵も客体(自分や悟りを外から見た図)として描かれているので厳密に言うと第五図(多分第五図以降も同じ)の坐禅する人は描くことができません。
    第1図から5図まで客体として描けるのはあくまでも自己を除いた他者や物だと思います。

    そういう意味では内山老師は〈私〉に関してはあまり頓着していなかったように想像しますが、パニチェやきっと永井さんも哲学的な意味でもっとも拘る点はここにあり、独在論であるということです。


    No7270に返信(たーぼーさんの記事)

    > 一個づつはっきりさせたいんですが、knowing itselfさんは永井さんが本当に第五図にいる方だと思いますか?
    > 6962のknowing itselfさんの引用↓
    > 本を読むと、第五図に慈悲その他の内容を入れることに永井さんは強く抵抗しているようにも見えます。第五図の中身は憎悪でもいんだと。
    > これはまったく同意できないです。第五図が無色透明で最高度に抱擁力のある状態で、人間によるいかなる定義・意味充填を超えたものだとする。ここまではいいです。第五図に慈悲を入れる立場は、この状態を人間の語彙で表現すれば慈悲が近いということであって、第五図が慈悲の基準になるということです。慈悲→第五図ではなく、第五図→慈悲。最初に人間の側の慈悲があるのではなく、最初にあるのは第五図。
    > 第五図的な状態に他の人も招きたい、第五図を他の人と共有したいという思いを慈悲といっているだけです。どうして、第五図に憎悪を入れる、第五図から憎悪が引き出される?

    永井さんの第5図の解釈はあくまでも「ただ見ているだけ(UのP.171)」、「存在しているだけ(UのP.175)」、「〈私〉は存在だけしていて、開けですから見る力のようなものはありますが、動機になるような意味づけは何もないんですね。人生を意味づけできるようなものは、いかなる方向にもないですね。(UのP.175)」です。つまり第5図には慈悲や憎悪も含めた動機や意味づけできるような要素は全くないということです。

    憎悪でもいいというのは志向性(意識は常に何者かについての意識である)ということの比喩として述べており、例えば思考とともに立ち上がる「私」が(中を見ようと扉を開けた時に灯る)冷蔵庫の庫内灯であるとするなら、その庫内灯の色は白でも赤でも黄色でもいいというようなことを述べているんだと思います。

    第五図に慈悲を認めるなら、坐禅をした自己も含めた第五図全体(この絵のように)を客体として見ている超越的な主体が必要で、超越論的な範囲で考えれば志向性となり、その色は白でも黒でも赤でもいいというような話であると想像します。

    > 7054の私の文章の引用↓
    > 第五図自体が慈悲であるという山下さんの言葉も共感出来ます。
    > 第五図は慈悲と智慧の源泉だと思います。
    > 永井さんが第五図は憎悪でもいいとか言ってましたが、全くトンチンカンな発言だと思います。
    > こんな発言が出るということは永井さんは第五図に入ってないと思う。

    No7267に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 全然詳しくはないですが、永井さんは〈私〉(第五図)が「私」(第四図)に影響を与える回路があることに懐疑的なような気がしますが、カントの場合は、自然の合目的性という考え方によって、第五図(物自体界)と第四図(自然)がつながっている、第五図が第四図に反映するという回路を想定していると思います。もちろん、カントの三批判の描く哲学がこんなちっぽけな要約に尽きるわけはありませんが、個人的な印象としてはそういうことじゃないかと思っています。

    〈私〉と「私」の関係性は以前にknowing itselfさんからラマナ・マハルシ師のところで教えてもらった夢を見る主体や熟睡する主体として考えれば分かりやすいと思います。

    夢であることを自覚できる明晰夢は除くとして、熟睡状態はもちろん夢を見ている最中(三昧)では「私」を意識することはありません、「ただ見ている」だけの状態です。

    夢を見ていたとか、熟睡していた、というのが分かるのは目覚めてからの「私」です。他の誰でもなく「私」が夢を見ていた(熟睡していた)ことが分かるのは、〈私〉が「見ていた」、つまり「見ていた」主体(〈私〉)が存在するからであって、これは言語を習得する以前から存在する〈私〉と同じです。

    その夢や熟睡が事事無礙(自他の境界がなく自己が世界、この場合は他者や物と無二)であることを知れば、自ずと慈悲が立ち上がり、慈悲に溢れた世界であったと後付けで「私」が分かることによって価値観が変わる、あるいは〈私〉が「私」に影響を与えるということだと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■7276 / inTopicNo.5)  Re[54]: たーぼーさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/02(Fri) 23:41:36)
    No7273に返信(たーぼーさんの記事)

    たーぼーさん、レスありがとうございます。

    >>そのようにたーぼーさんご自身が思われる根拠というのは、どういうものになりますか?
    >>山下さんがそのように言っているからとかではなく、ご自身がそう思われる根拠があればそれをお聞きしたいのです。

    > これはもう自分の経験的にそう思うんです。

    経験的に、というのは、坐禅をしている際の経験からというような意味でしょうか?
    たーぼーさんが坐禅をされるというのは知っていましたので、そういうことかなと想像したのですが、それとはまた違う話でしょうか。

    > ここで次回にしようと思っていた話になるんですが、私は内山図の難しいのは第五図は単純に空とするべきだと思うんです。
    > knowing itselfさんのいう物自体でもいいです。
    > これが内山図では第五図は座禅した人間になってますよね。

    そうですね、頭がテレビみたいでそこに第四図のドラマが放送されてて、身体は坐禅してますね。
    私は、これ、そのままで分かると思うんですよ。 あくまで私は、と言ったほうがいいのかもしれませんが。

    第四図というのは、ドラマ、映画だけしかなくてそれがすべてだと思っている図。
    愛憎、紛争、快楽などの世界ですよね。
    第五図というのは、そうした第四図的世界の諸々は、意識に現れてくるものなのだ、というのを示している図だと思います。
    「個としての私」ではなく「静謐な空間」としての本質的なもの(意識ということになるでしょうけれど)に第四図的な物は現われてくるのだ、というのを表しているのだと思います。

    内山さん的には、坐禅のすすめ、みたいな思いもあったのではないかな、と、ここは想像ですけど思います。

引用返信/返信 削除キー/
■7273 / inTopicNo.6)  Re[53]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/02(Fri) 21:26:37)

    > そのようにたーぼーさんご自身が思われる根拠というのは、どういうものになりますか?
    > 山下さんがそのように言っているからとかではなく、ご自身がそう思われる根拠があればそれをお聞きしたいのです。

    Minoriさん、こんばんわ。
    これはもう自分の経験的にそう思うんです。
    ここで次回にしようと思っていた話になるんですが、私は内山図の難しいのは第五図は単純に空とするべきだと思うんです。
    knowing itselfさんのいう物自体でもいいです。
    これが内山図では第五図は座禅した人間になってますよね。
    第五図を座禅した人間とするなら私は藤田さんの慈悲は第五図の人の頭の中という意見に賛成です。

引用返信/返信 削除キー/
■7272 / inTopicNo.7)  たーぼーさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/02(Fri) 21:14:14)
    たーぼーさん、横レス失礼します。

    >第五図自体が慈悲であるという山下さんの言葉も共感出来ます。
    >第五図は慈悲と智慧の源泉だと思います。

    そのようにたーぼーさんご自身が思われる根拠というのは、どういうものになりますか?
    山下さんがそのように言っているからとかではなく、ご自身がそう思われる根拠があればそれをお聞きしたいのです。
引用返信/返信 削除キー/
■7270 / inTopicNo.8)  Re[51]: 哲学は案外役に立っている
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/02(Fri) 21:00:30)
    No7267に返信(knowing itselfさんの記事)
    knowing itselfさん、 こんばんは
    返信ありがとうございます。

    > 全然詳しくはないですが、永井さんは〈私〉(第五図)が「私」(第四図)に影響を与える回路があることに懐疑的なような気がしますが、カントの場合は、自然の合目的性という考え方によって、第五図(物自体界)と第四図(自然)がつながっている、第五図が第四図に反映するという回路を想定していると思います。もちろん、カントの三批判の描く哲学がこんなちっぽけな要約に尽きるわけはありませんが、個人的な印象としてはそういうことじゃないかと思っています。


    私はこの掲示板を見ている人が少しでも何かヒントを得る為にも建設的な議論をしたいんです。
    一個づつはっきりさせたいんですが、knowing itselfさんは永井さんが本当に第五図にいる方だと思いますか?

    6962のknowing itselfさんの引用↓
    本を読むと、第五図に慈悲その他の内容を入れることに永井さんは強く抵抗しているようにも見えます。第五図の中身は憎悪でもいんだと。

    これはまったく同意できないです。第五図が無色透明で最高度に抱擁力のある状態で、人間によるいかなる定義・意味充填を超えたものだとする。ここまではいいです。第五図に慈悲を入れる立場は、この状態を人間の語彙で表現すれば慈悲が近いということであって、第五図が慈悲の基準になるということです。慈悲→第五図ではなく、第五図→慈悲。最初に人間の側の慈悲があるのではなく、最初にあるのは第五図。
    第五図的な状態に他の人も招きたい、第五図を他の人と共有したいという思いを慈悲といっているだけです。どうして、第五図に憎悪を入れる、第五図から憎悪が引き出される?

    7054の私の文章の引用↓
    第五図自体が慈悲であるという山下さんの言葉も共感出来ます。
    第五図は慈悲と智慧の源泉だと思います。
    永井さんが第五図は憎悪でもいいとか言ってましたが、全くトンチンカンな発言だと思います。
    こんな発言が出るということは永井さんは第五図に入ってないと思う。


    私とknowing itselfさんは見解が共通しますね。
    それでもknowing itselfさんは永井さんが第五図に入っていると思っておられるのですか?
    パニチェさんなどもあまり違和感がないようですが、憎悪でもいいというのは私は全く同意出来ないんですが、そのあたりはどうやって納得されているんでしょうか?
    これは仏教3.0での対談における山下さん、藤田さん、永井さんの構図と全く同じですね。
    knowing itselfさん、たーぼー、パニチェさん。
    仏教3.0バージョン2の対談で藤田さんも山下さんと第五図の見解をめぐって長いページに渡ってやりとりをしてますが(これについても思うことがあるんですが難解になるので次回。一個づつ片付けたい)、第五図が慈悲を焦点とする部分は一致しています。
    山下さんだけではなく藤田さんも憎悪というのは全く認められないと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■7268 / inTopicNo.9)  もっとシンプルにいうと
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/02(Fri) 20:18:29)
    第四図というのは、時間と空間がある世界。

    第五図というのは、時間と空間がない世界。

    カント的にいってもそうだ。
引用返信/返信 削除キー/
■7267 / inTopicNo.10)  Re[50]: 哲学は案外役に立っている
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/02(Fri) 19:57:12)
    たーぼーさん こんばんは

    No7247に返信(たーぼーさんの記事)
    > ■No7232に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>カントや仏教を話題にしても、ほとんどの相手は引くと思います。それはしょうがないし、深入りするのは、場合によっては賢明ではない。
    >>
    >>ただいえることは、日本国憲法を支える思想的潮流の中で最大の存在はおそらくカントだし、日本的資本主義のエートスの中心は大乗仏教。カントや仏教は日本人の日々の生活と無関係な抽象的な話題にとどまるどころではない。
    >
    > knowing itselfさん、こんばんわ。
    > 7230の返信ありがとうございます。
    > そうしたら私とknowing itselfさんは立ち位置は違えど、問題意識は同じなんですね。
    > それがknowing itselfさんの7210の書き込みに繋がってくるんではないんでしょうか?
    > 7210から引用↓
    >
    > カントでも永井さんでも、上記の二領域は架橋し難い矛盾を孕む。その矛盾を乗り越えるために、カントは判断力批判を書いた。永井哲学の〈私〉と「私」は、矛盾を克服することの困難性を反復しているか、それを安易に解決しようとはしない。
    >
    > 永井さんみたいに矛盾を克服することは困難だから安易に解決しようとしなくていいんでしょうか?
    > カントはその矛盾を乗り越える為に判断力批判を書いたとありますけど、それなんですか?
    > 私は実はカントなんて読んだことないんです。
    > knowing itselfさん詳しそうだから。

    全然詳しくはないですが、永井さんは〈私〉(第五図)が「私」(第四図)に影響を与える回路があることに懐疑的なような気がしますが、カントの場合は、自然の合目的性という考え方によって、第五図(物自体界)と第四図(自然)がつながっている、第五図が第四図に反映するという回路を想定していると思います。もちろん、カントの三批判の描く哲学がこんなちっぽけな要約に尽きるわけはありませんが、個人的な印象としてはそういうことじゃないかと思っています。
引用返信/返信 削除キー/
■7247 / inTopicNo.11)  Re[49]: 哲学は案外役に立っている
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/02(Fri) 00:29:03)
    No7232に返信(knowing itselfさんの記事)
    > カントや仏教を話題にしても、ほとんどの相手は引くと思います。それはしょうがないし、深入りするのは、場合によっては賢明ではない。
    >
    > ただいえることは、日本国憲法を支える思想的潮流の中で最大の存在はおそらくカントだし、日本的資本主義のエートスの中心は大乗仏教。カントや仏教は日本人の日々の生活と無関係な抽象的な話題にとどまるどころではない。

    knowing itselfさん、こんばんわ。
    7230の返信ありがとうございます。
    そうしたら私とknowing itselfさんは立ち位置は違えど、問題意識は同じなんですね。
    それがknowing itselfさんの7210の書き込みに繋がってくるんではないんでしょうか?
    7210から引用↓

    カントでも永井さんでも、上記の二領域は架橋し難い矛盾を孕む。その矛盾を乗り越えるために、カントは判断力批判を書いた。永井哲学の〈私〉と「私」は、矛盾を克服することの困難性を反復しているか、それを安易に解決しようとはしない。

    永井さんみたいに矛盾を克服することは困難だから安易に解決しようとしなくていいんでしょうか?
    カントはその矛盾を乗り越える為に判断力批判を書いたとありますけど、それなんですか?
    私は実はカントなんて読んだことないんです。
    knowing itselfさん詳しそうだから。
引用返信/返信 削除キー/
■7238 / inTopicNo.12)  Re[51]: 第五図
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/01(Thu) 21:21:01)
    日本国憲法というのは、文化的存在を超越する位置に人間の自由を置いているんだね。もちろん、アメリカやヨーロッパの先進国の憲法もそうなっている。はっきりいってカント的だ。
引用返信/返信 削除キー/

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