| たーぼーさん おはようございます
>>全然詳しくはないですが、永井さんは〈私〉(第五図)が「私」(第四図)に影響を与える回路があることに懐疑的なような気がしますが、カントの場合は、自然の合目的性という考え方によって、第五図(物自体界)と第四図(自然)がつながっている、第五図が第四図に反映するという回路を想定していると思います。もちろん、カントの三批判の描く哲学がこんなちっぽけな要約に尽きるわけはありませんが、個人的な印象としてはそういうことじゃないかと思っています。 > > > 私はこの掲示板を見ている人が少しでも何かヒントを得る為にも建設的な議論をしたいんです。 > 一個づつはっきりさせたいんですが、knowing itselfさんは永井さんが本当に第五図にいる方だと思いますか?
永井さんはものごころつく頃から第五図でみていたと言われています。本人の第五図解釈によるとまさに第五図にいる。ただ、永井さんは仏教的な世界観には批判的で、仏教は哲学としてレベルが低すぎるみたいな悪口を言う人です。第五図を空とイコールにはみていないと思います。空にいることと第五図は関係ないと考えていると思います。山下さんと同じ意味では第五図にいないと思います。
> 6962のknowing itselfさんの引用↓ > 本を読むと、第五図に慈悲その他の内容を入れることに永井さんは強く抵抗しているようにも見えます。第五図の中身は憎悪でもいんだと。 > > これはまったく同意できないです。第五図が無色透明で最高度に抱擁力のある状態で、人間によるいかなる定義・意味充填を超えたものだとする。ここまではいいです。第五図に慈悲を入れる立場は、この状態を人間の語彙で表現すれば慈悲が近いということであって、第五図が慈悲の基準になるということです。慈悲→第五図ではなく、第五図→慈悲。最初に人間の側の慈悲があるのではなく、最初にあるのは第五図。 > 第五図的な状態に他の人も招きたい、第五図を他の人と共有したいという思いを慈悲といっているだけです。どうして、第五図に憎悪を入れる、第五図から憎悪が引き出される? > > 7054の私の文章の引用↓ > 第五図自体が慈悲であるという山下さんの言葉も共感出来ます。 > 第五図は慈悲と智慧の源泉だと思います。 > 永井さんが第五図は憎悪でもいいとか言ってましたが、全くトンチンカンな発言だと思います。 > こんな発言が出るということは永井さんは第五図に入ってないと思う。 > > > 私とknowing itselfさんは見解が共通しますね。 > それでもknowing itselfさんは永井さんが第五図に入っていると思っておられるのですか? > パニチェさんなどもあまり違和感がないようですが、憎悪でもいいというのは私は全く同意出来ないんですが、そのあたりはどうやって納得されているんでしょうか?
ここは永井さんの表現が間違っていたと思います。第五図に憎悪があるというより、憎悪のある第四図の絵を第五図から観れるということで、第五図の本体には憎悪はないはずです。第五図の本体に憎悪がありうると永井さんが本当に考えていたのであれば、まったく同意できませんね。
> これは仏教3.0での対談における山下さん、藤田さん、永井さんの構図と全く同じですね。 > knowing itselfさん、たーぼー、パニチェさん。 > 仏教3.0バージョン2の対談で藤田さんも山下さんと第五図の見解をめぐって長いページに渡ってやりとりをしてますが(これについても思うことがあるんですが難解になるので次回。一個づつ片付けたい)、第五図が慈悲を焦点とする部分は一致しています。 > 山下さんだけではなく藤田さんも憎悪というのは全く認められないと思います。
|