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■7115 / inTopicNo.49)  Re[38]: 独在的な〈私〉と第五図
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/26(Sat) 21:42:18)
    No7113に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 第五図について、永井さんは下記のように説明します。

    > 超自然的存在である独在的な〈私〉の存在が、この世界を初めて開いて、それに現実存在を与えます。つまり、それを初めて現実に存在させます。by 永井均

    > およそ仏教的とは言い難い世界認識だが、第五図の気づきが事後的な仮構ではなく、リアルタイムでの気づきであるなら、それは独在性だけが純粋に露出している状態のことではないか。山下良道さんの第五図の理解も本当はここで重なる。

    これどのあたりに載ってますか?
    読み直してみたいのでページ数を教えてもらえれば有難いです。
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■7113 / inTopicNo.50)  独在的な〈私〉と第五図
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/26(Sat) 21:17:36)
    第五図について、永井さんは下記のように説明します。

    超自然的存在である独在的な〈私〉の存在が、この世界を初めて開いて、それに現実存在を与えます。つまり、それを初めて現実に存在させます。by 永井均

    およそ仏教的とは言い難い世界認識だが、第五図の気づきが事後的な仮構ではなく、リアルタイムでの気づきであるなら、それは独在性だけが純粋に露出している状態のことではないか。山下良道さんの第五図の理解も本当はここで重なる。




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■7106 / inTopicNo.51)  第四図の永井=カント的な解釈
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/26(Sat) 19:31:28)
    永井さんの口癖の一つに、哲学の敵は宗教と科学というのがある。

    第四図は普通に眺めると、お金がすべての世界と宗教的な狂信を表現する図でもあるが、科学的な世界観も永井=カント的には第四図になる。もちろん数学も第四図でしかない。
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■7104 / inTopicNo.52)  Re[35]: 世界における(への)存在
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/26(Sat) 19:11:49)
    私は〈すでにある世界〉のうちに生まれてきた。
    これは疑いの余地のないこと。
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■7095 / inTopicNo.53)  第五図の気づき
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/26(Sat) 15:59:40)
    第五図の気づきとは、第四図の中身に気づいていることではない。それなら第四図があれは十分ともいえる。第五図の気づきとは、第四図の中身(精神と物質どちらも)がゼロになっていることを体験した後に、その体験の連続性の上に立って、第四図の中身に気づいていること。

    普通の禅僧には、第四図の中身が去来してもそれを手放して身体意識に戻るだけということを強調する人もいるが、そういうのと山下良道さんの第五図はかなり違うと思う。身体意識が行き着く最後なら、身体が終わればいのちも終わりという論に対抗できない。
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■7026 / inTopicNo.54)  現象と現象源
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/25(Fri) 17:21:44)
    古今東西の数多ある思想やスピリチャルは、現象と現象源の関係をどう捉えるかに対する解答といっていいと思う。現象源を称揚し、現象を低評価するものも多い。場合によっては現象を死滅を理想にしたり、現象の不存在を主張する。逆に現象だけの一元論を主張する立場も。プラトンは現象源を称揚して、現象を低評価する立場の一つ。カントは現象源である物自体を重視しながらも、現象も決して低評価しない立場でしょう。
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■6992 / inTopicNo.55)  一念義・多念義と第五図
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/24(Thu) 06:04:57)
    浄土系に、一念義VS多念義というテーマがあります。
    往生するには念仏一回でいいのか、生涯にわたって膨大な数唱えなければ往生できないとするか。

    第五図をお浄土そのものとする立場ならどう考えるか。第五図(=「死んでも死なないいのち」)が幻想や錯覚でなくリアリティそのものであることを覚知できれば十分。これが念仏を一回唱えることであって、単なる回数のカウントではない。そうなると思います。

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■6969 / inTopicNo.56)  Re[33]: 第五図と慈悲
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/22(Tue) 20:01:35)
    こんばんは、knowing itselfさん。
    レスありがとうございます。

    No6968に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 良道さんは明らかに、第五図の私をラマナマハルシの「本当の私」「I」と同じものにしています。ラマナマハルシの場合、真の「I」を覚知した人からは寂黙と慈愛の波動が放射されて、何もせずとも周囲の人に影響を与えるようです。ラマナマハルシ的な私からは、そこに慈悲発動の根拠を置くことはあまりにも当然でしょうね。
    > 神の愛についても、良道さんは仏教の慈悲とまったく同じと考えているようです。この本の最初の方でも、第五図は貪瞋痴のありえないところと主張しています。神の愛的なものが成立する場所として第五図を捉えていると思います。

    > 第五図性の確実な現前、自分も現に今そこにいることを主張するのが良道さんでしょう。第五図性に触れれば必ず慈悲もそこにある。もちろん第四図性が前面にでると第五図性は隠蔽されて気づきにくくなりますが。慈悲の回路も塞がれます。

    > 第五図の理解における、一照さんと良道さんの違いは歴然としていると思います。

    なるほど、納得しました。
    ありがとうございました。
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■6968 / inTopicNo.57)  Re[32]: 第五図と慈悲
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/22(Tue) 19:53:36)
    パニチェさんこんばんは レスありがとうございます


    No6965に返信(パニチェさんの記事)
    > 私は以下の一照さんの発言が一般的な悟りと慈悲の関係性だと思うのですが、knowing itselfさんはどのようにお考えでしょうか。
    >
    > 『藤田 でも、第五図の状態が開けることで、第五図の頭の中の人は、超越論的な次元からの働きを受け取れるようになってる。「私」の人に〈私〉の次元が拓けたとも言えます。そういういわば智慧に導かれて人と関われるようになる。だから慈悲というのは、第五図の頭の世界に属していないといけないと思うんですよ。それはブッダが樹下も打坐から立ち上がって街に帰っていったようなものです。もちろん根っこは第五図の坐禅の人なんですよ。でも第五図の坐禅の人が慈悲を持っていることにしてしまったら、それは超越的なものになってしまう。僕は超越論的であるために、超越論的な視野が開けることで、超越なしにこの世に足をおいて活動ができるからこそ、第五図の頭の中に変革が起こるという........。(同書P.172』
    >
    > 私は上記の一照さんに同意で、第五図に慈悲を取り込むということはラマナ・マハルシ師が言うところの神、誤解をおそれずに言えばキリスト教的な神の愛(アガペー)的な愛になるのではと考えています。

    良道さんは明らかに、第五図の私をラマナマハルシの「本当の私」「I」と同じものにしています。ラマナマハルシの場合、真の「I」を覚知した人からは寂黙と慈愛の波動が放射されて、何もせずとも周囲の人に影響を与えるようです。ラマナマハルシ的な私からは、そこに慈悲発動の根拠を置くことはあまりにも当然でしょうね。
    神の愛についても、良道さんは仏教の慈悲とまったく同じと考えているようです。この本の最初の方でも、第五図は貪瞋痴のありえないところと主張しています。神の愛的なものが成立する場所として第五図を捉えていると思います。

    第五図性の確実な現前、自分も現に今そこにいることを主張するのが良道さんでしょう。第五図性に触れれば必ず慈悲もそこにある。もちろん第四図性が前面にでると第五図性は隠蔽されて気づきにくくなりますが。慈悲の回路も塞がれます。

    第五図の理解における、一照さんと良道さんの違いは歴然としていると思います。


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■6965 / inTopicNo.58)  Re[31]: 第五図と慈悲
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/22(Tue) 17:14:59)
    こんにちはknowing itselfさん、大変興味あるお題なので横レス失礼します。

    No6962に返信(knowing itselfさんの記事)

    まず第五図が〈私〉であるかどうかは横へ置くとします。仮に第五図がパニチェの言うところの〈私〉であれば現時点でそこに慈悲というものは現実的にありえないのですが。。。

    > 本を読むと、第五図に慈悲その他の内容を入れることに永井さんは強く抵抗しているようにも見えます。第五図の中身は憎悪でもいんだと。
    > これはまったく同意できないです。第五図が無色透明で最高度に抱擁力のある状態で、人間によるいかなる定義・意味充填を超えたものだとする。ここまではいいです。第五図に慈悲を入れる立場は、この状態を人間の語彙で表現すれば慈悲が近いということであって、第五図が慈悲の基準になるということです。慈悲→第五図ではなく、第五図→慈悲。最初に人間の側の慈悲があるのではなく、最初にあるのは第五図。
    > 第五図的な状態に他の人も招きたい、第五図を他の人と共有したいという思いを慈悲といっているだけです。どうして、第五図に憎悪を入れる、第五図から憎悪が引き出される?
    > とくに、第五図を涅槃とみなす、仏教者からみれば、涅槃と親和性のある価値を結びつける方が自然であって、涅槃と憎悪は結びつけることが困難でしょう。憎悪こそが第四図にしか結びつかない情動だと思う。

    もともとは以下の発言からですよね。

    ***** 以下、「〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU」より引用 *****

    山下 要するに、コギト・エルゴ・スム、「我思う、ゆえに我あり」の我がある。我はすぐに平板化したけれども、もっと強烈な発見だったのが、打ち合わせの時にあったでしょう。それと同じく、「考える私」ではなくて、「慈悲する私」があるんです。(P.238)

    永井 それはそうですが、そのことを言ったほうがいいですか。その話は簡単で、デカルトの思惟と言っても、本当は思惟じゃなくてもいいんですよね。感覚でも感情でも知覚でも想像でも想起でも予測でも、なにか意識がありさえすればいい。だから慈悲でもいいし、その逆の憎悪のようなものでも、それがあると思えばそういうやつがもう存在してしまっている、というだけのことですから、思惟と言われているものの中身とは全く関係ない形式的な話です。それと、そのことを現実んい感じる人は一人しかいないけど、少なくとも今は一人はいて、なぜかこいつである、ということが重なっている。(P.241)

    *************** 引用終わり ***************

    上記で永井さんが指摘しているのはフッサールで言うところの志向性のことだと思います。
    つまり意識とは常に何かについての意識であるということ。
    私は以下の一照さんの発言が一般的な悟りと慈悲の関係性だと思うのですが、knowing itselfさんはどのようにお考えでしょうか。

    『藤田 でも、第五図の状態が開けることで、第五図の頭の中の人は、超越論的な次元からの働きを受け取れるようになってる。「私」の人に〈私〉の次元が拓けたとも言えます。そういういわば智慧に導かれて人と関われるようになる。だから慈悲というのは、第五図の頭の世界に属していないといけないと思うんですよ。それはブッダが樹下も打坐から立ち上がって街に帰っていったようなものです。もちろん根っこは第五図の坐禅の人なんですよ。でも第五図の坐禅の人が慈悲を持っていることにしてしまったら、それは超越的なものになってしまう。僕は超越論的であるために、超越論的な視野が開けることで、超越なしにこの世に足をおいて活動ができるからこそ、第五図の頭の中に変革が起こるという........。(同書P.172』

    私は上記の一照さんに同意で、第五図に慈悲を取り込むということはラマナ・マハルシ師が言うところの神、誤解をおそれずに言えばキリスト教的な神の愛(アガペー)的な愛になるのではと考えています。

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■6964 / inTopicNo.59)  Re[31]: 第五図と慈悲
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/22(Tue) 17:06:03)
    第四図・第五図にカント哲学の色濃い影響をみるのは、永井さんの指摘から。藤田さんも山下さんも、永井さんの発言に触れるまでは、あまり考えていなかったようだ。もちろんわたしも(笑)。今では、カント哲学との関連なしに第四図・第五図を考えてもあまり面白くないと思う。

    ただ、永井さんの読み込み過ぎという批判も当てはまる。内山興正は仏教を超える西洋哲学的なセンス、それもデカルトやヴィトゲンシュタインに匹敵する独創的な着眼をもっていたから凄いんだ。内山興正は仏教を超える。永井さんのこういった読みに同意する禅仏教者はほとんどいないと思う。内山興正本人の考えも、むしろ安泰寺の伝統に連なる普通の禅僧に近いのが真実である可能性もある。


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■6962 / inTopicNo.60)  第五図と慈悲
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/22(Tue) 15:33:32)
    本を読むと、第五図に慈悲その他の内容を入れることに永井さんは強く抵抗しているようにも見えます。第五図の中身は憎悪でもいんだと。

    これはまったく同意できないです。第五図が無色透明で最高度に抱擁力のある状態で、人間によるいかなる定義・意味充填を超えたものだとする。ここまではいいです。第五図に慈悲を入れる立場は、この状態を人間の語彙で表現すれば慈悲が近いということであって、第五図が慈悲の基準になるということです。慈悲→第五図ではなく、第五図→慈悲。最初に人間の側の慈悲があるのではなく、最初にあるのは第五図。
    第五図的な状態に他の人も招きたい、第五図を他の人と共有したいという思いを慈悲といっているだけです。どうして、第五図に憎悪を入れる、第五図から憎悪が引き出される?

    とくに、第五図を涅槃とみなす仏教者からみれば、涅槃と親和性のある価値を結びつける方が自然であって、涅槃と憎悪は結びつけることが困難でしょう。憎悪こそが第四図にしか結びつかない情動だと思う。
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