| パニチェさん、ありがとうございます。
> 内容なしどころか大ありですね。 > スクリーンと映画の比喩は自我だけではなく、時間論とかも含めていろいろなところで使われていますね。 > プラトニズムならフィルムも題材にされます。スクリーン映る映像は洞窟の比喩でいうところの影であって実体はフィルムであるとか。。。^^
プラトニズムというのは、プラトン哲学そのものではないんですね? 恥ずかしながら知らないんです。。。 プラトンそのものの洞窟の比喩についてはおぼろげながらわかるのですが。 プラトン時代にフィルムがあったわけはないので、後に再び復活したプラトン哲学がプラトニズム? と思ったのです。。 わ〜、なんか書いてて恥ずかしいです。。。
>>そして、minoriを例としていえば、その眼球から広がって見えている世界の様々と感覚器官を通じて交流したり経験して生活している、と考えています。 >>カントの認識論でいうと「現象」の世界ですね、時間・空間の枠を通して世界を認識しているし、また、カテゴリー分けされた世界を生きるの一員です。 >>(この部分について、パニチェさんも似通った認識をされているのか否かについては、今は不明です。) > > 同意します。
よかったです。^^
> そうなんですね。 > 仏教のよいところというか懐の深いとことは、多くの道が示されていることと、「筏の譬え」にもあるように道や乗り物に執着することも戒められていることです。
キサーゴータミーの芥子の実のお話は、最初知った時、衝撃でもありました。 ええ? それ酷いんじゃない? なんて若気の至り(若くもなかったけど)感じたんです。 でも、次第に理解できるようになっていきました。 もうずいぶん前の話ですが。 草薙龍瞬さんの「反応しない練習」は読んではないですけど、ネットで紹介されているのを拝見すると、わかりやすくて、原始仏教に馴染みのない人にも多く読まれているようですね。 「反応しない」っていうのは、突き刺さるぐらいその大切さが理解できますし、苦を広げないための良薬ですね。 という感じで、けして仏教が嫌いなのではないんです。
>>しかし。第四図という言葉をお借りすれば・・、その第四図として見えている世界(マッハ的光景、あるいはカントだと「現象」はそれに当たりますよね。それらが良い、悪い、高い、低い というような価値判断を離れて。)ではない世界の観方というのはどうなのだろう、という好奇心は捨てきれないものがあります。 >>生きる苦悩という意味においては、「究極においてはそれと共にある」しかないのだ(完全に無くすなんて無謀)とわかったので、どうにかしようとは思ってないのですが、知的好奇心は消えないです。。。 > > 私も同じです。 > 風車に挑む無謀かつ無意味なドンキホーテになってもいいので、言語と論理による見性悟道をやってるつもりです(自己満でも。。。)
追求するものがある、というのは楽しみでもありますよね。 私の場合は、確信が得られなくてもそれはそれで・・・という感じには思ってます。 第四図(という言葉をお借りして)でも、それなりに楽しいですし。
>>パニチェさんは、〈私〉についての探究は、ライフホビーとおっしゃっていましたが、それはやはり知的好奇心から発生するものですか? >>それとも、それ+抜苦というような意味合いもあるのですか? > > もともとは小学校の低学年の時に「なんで、自分は隣の〇○ちゃんではなく、自分なんやろう?」という単純な疑問からです。
その年齢で既に実存的な疑問を持つというのは、やはりすごいですよ。
> 後から振り返れば、この疑問には抜苦の要素も多少あったかもしれませんね。
そうだったのですね。
>>教えて頂いた後(パニチェさんの、このご投稿を拝見後)、少しネットで調べたのですが、ツァラトゥストラの最初の方に出てくる文章だそうですね。^^ >>高まる決意と情熱を表現しているのでしょうね。 > > その通りです。 > ご存知だとは思いますがツァラトゥストラは物語になっていて、聖書をもじって書かれているところもあり、神仏に依存しない実存主義的な人間にとっての福音書(金言集)のような書籍です。
いえいえ・・(〃▽〃)、聖書をもじって書かれているところもあり・・・というのは知りませんでした。 神仏に依存しないというのに、もじっているというのはどうして?と、ふと思いました。 変な疑問ですみません。。 |