| > レスありがとうございます。〈私〉に興味を持ってもらえて光栄です。^^
パニチェさん、おはようございます。 はい、興味を再度持たせていただいてるところです。
>>私秘性を持つ〈私〉の話した言葉や、した仕草(言語ではないコミュニケーション)が他者に伝わるということは、「他者でも認識可能な世界内の出来事になる」ということ。 >>しかし、伝わらなければ、知られることがなければ、無色透明で私秘性を持つ〈私〉のままなのだ、というような意味ですか? > > それはその通りです。 > あと他者を抜きにしても思考や感情が生じた時点で〈私〉から「私」へ移行すると思います。
なるほど。
> 思考や論理というのは言語であり、感情は正確な言語化ができないとしても他者もありえる状態です。
そうですね。
> 〈私〉は何も映っていないスクリーン、あるいは鏡面のようなものだと考えています。 > そこに何か映ればそれは「私」となります。
いや〜、もうびっくり、驚きです。 上記がパニチェさんがおっしゃる〈私〉であるなら、私がよく書いてる非二元の「気づき」ととても似通っています・・・。 私が自トピに、おとといだったか一人でつらつらと何投稿かしたのですが、その内容を読んでいただけたなら、理解していただけるかもしれません。
> 何故なら伝えなければ私秘性を保ったままであっても(厳密に言えば私秘性を保つという表現は不自然ではありますが)他者もその状態がありえるからです。 > > 一方、〈私〉は他者がその状態であることはありえない、パニチェにとってはその状態というか存在様相しかありえないものであるからです。 > 〈私〉を意識した時、冷蔵庫に灯る庫内灯のように、意識した時点(灯った時点)で少し元の〈私〉は変質してしまうような存在かもしれませんが、ここらは未だ探究中です。
このあたりは、パニチェさんの〈私〉と、私が言う「気づき」の違うところになるようです。
パニチェさんの〈私〉というのは、他者との差異が明確にあるものですよね? 他者の〈私〉は、〈〈私〉〉と表現して区別されています。
非二元での「気づき」というのは、スクリーン、鏡を比喩としていて、その役目的意味する内容は、パニチェさんの〈私〉とその部分においては同じように感じられます。 しかし、違うのは。 パニチェさんの〈私〉は、個人個人違うものであること。 非二元では、そもそも個人というのは存在しない(世界は分離していない)と考えるので、スクリーンは、「ただ一つ」のみ存在するということになります。
ここからはまったくの私見なのですが・・・。 第五図の、身体は坐禅していて、頭部分は、映像が映っているテレビみたいな例の絵ですね。 あれは。テレビそのものは、一つしかないんだけど(スクリーンは一つしかない)、そこに映される第四図の映像は一人一人違っていて、ゆえにその映像に対しての解釈も一人一人違っているので争いや愛憎が生まれるのだけれど、実は本体はテレビであって、ただ静かに静謐な意識なのだ、そしてそういうことに気づくと、世界を観る観方も変化し、慈悲もそういうところから生まれてくる、→第六図へ。 という絵であるように思えるのです。
山下さんは、もっと深い体験を求めてミャンマーでしたっけ、に修行に行き、普通の生活をしていては体験できないような体験をされ、それをもとに山下さんの3.0 を考えられたのだと思います。
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