| パニチェさん、こんばんは。 knowing itselfさんに先立っての横レスで、お二人に申し訳ないのですが・・・ 以前から、気になっていた部分にちょうどお話が差し掛かっているので、横レスさせていただきます。
>>カントの仏教バージョンを作るとしたら、定言命法的な行為準則にあたるのは、人間や生きものへの無条件の慈悲の行為かと考えていますが、これは主体として直接意識できると思います。(knowing itselfさんのご投稿)
> 一照さんが言うように〈私〉(第五図の主体)が「私」(第四図の「私」)に作用することで慈悲が芽生えるということならパニチェ的には理解できるのですが、第五図が慈悲の根拠となるというところは、もし第五図が〈私〉とイコールであるとするなら違和感があります。〈私〉は無色透明(無覆無記)、あるいは有覆無記だと現時点では思っていますので。。。。
〈私〉は無色透明とありますが、比類なき唯一無二であることと無色透明であることが結びつかないようにminoriには感じられてしまうのです。 〈私〉のどういう部分が無色透明なのだろう、というのがわからないんです。 例えばですが、〈私〉の「意識」そのもの、それ自体が無色透明だという話ですか? 〈私〉の考える思考、感じる感情というが無色透明と表現されるのは、なにか違和感があるのですが、「意識」であれば違和感がminori的にはないのですね。 このあたりいかがですか? |