| ■No6870に返信(パニチェさんの記事) > ■No6855に返信(knowing itselfさんの記事) >>前にもいっていますがカント哲学の仏教バージョンも十分ありかなと思うのは、物自体が涅槃だとして、人間が涅槃に帰属していることの唯一の証しは、生きとし生けるものへの無条件の慈悲の念を発するときと置き換えることは?否定することが逆に困難?少なくとも、生きとし生けるものへの慈悲なしに涅槃に入ろうとすることは虫がよすぎるとはいえそう。 > > 良道さんは第五図の主体を超越的としているのに対して、一照さんは超越論的としています(バージョンUP170〜P171)。
この箇所ですが、良道さんは超越的の意味を誤解しているような気がします。カントが典型的な超越論的な哲学者であるという意味で超越論的の語を使うなら、良道さんも超越論的の枠内から外れないと思います。
> 上記のレスからするとknowing itselfさんも第五図の主体は超越的と解釈されているということでしょうか。
超越的か超越論的かというのは、場合によっては割り切れないと思っています。
カントは超越論的な哲学者ですが、道徳法則による場合は物自体に直通するとされています。道徳意識は事実であるともいっています。良道氏が慈悲の瞑想によって第五図へジャンプするという口癖はカントの道徳論とどこか響きあう印象もあります。
カントの仏教バージョンを作るとしたら、定言命法的な行為準則にあたるのは、人間や生きものへの無条件の慈悲の行為かと考えていますが、これは主体として直接意識できると思います。
> ちなみに第五図はともかく、パニチェにとって〈私〉は超越論的存在であることは確かです。
パニチェさんならそうお考えになるでしょうね。 |