| 興味深かった、永井均先生の文章を引用します。 出版社のサンガが発行している『サンガジャパンVol 30』という雑誌の、永井先生と禅僧のネルケ無方さんの対談に載っていました。p372より引用
第五図の話題の中での発言です。 『永井 (略) 逆に言えば、こちら側からすべてがただあるがままに見えているということですね。こっちの観点からぜんぶ見えているというのが、いわゆるマインドフルネスということですね。 気づきとかサティとかヴィパッサナーとか、そういうこと。パノラマ的な世界です。 そこで体には体の補助的な役割はあると思います。 体の感覚をそれとして捉えることが世界そのものをそれとして捉えることの練習みたいな、あるいは模型みたいな形で役立つ。 体は大事だけど、物的な意味での体が大事なんじゃなくて、むしろ身体感覚というものの独在性が重要で、その独在性の側から世界、私秘的な世界も、この悪い繋がりの世界も、あるいは良き繋がりの世界も、ぜんぶここから見て、捉え直すことができる。 これは、ある意味では、いつも現にそうしていますから、そうと気づくだけで簡単にできるとも言えます。 しかし同時に効力があるんですね、そこに立ち戻るだけで。 内山老師はある時、ある点では、間違いなくそれを掴んで、世界像と効力の両方を、その繋がりを掴んだのだろうと思います。「一切分の一切」とか「見渡す限りの自己」とか。(略)』
■No6752に返信(knowing itselfさんの記事) > 第五図というのは、坐禅する身体の上に第四図がそのまま乗っかっています。第四図が単に反面教師的な貪りの人生の寓意ではなく、純粋理性批判における感性と悟性による共同作業を漫画化したと読めるなら、坐禅する身体も、認識を触発する究極の源泉としての物自体とみる方が面白いと思う。第五図の本体が坐禅する身体なら、第四図と結局は同じになる。<
永井先生も、knowing itselfさんと同じ捉え方なのかな? パノラマ的、という言葉を出されてましたね |