| たーぼーさん こんにちは
>>第五図=物自体といっているのはわたしだけかもしれません。現象では捉えきれないより基底にある存在様式といえば、物自体しかないので、第五図=物自体でいいと考えます。 >>物自体であれば、身体の部分がそれであることはありません。よって第五図=物自体であれば、身体と同一化できないなんらかの意識になると思います。
> 私はknowing itselfさんのおっしゃることわかりますよ。 > 物がまだ物体になる前の状態と仰りたいのでは? > それが空だけど、それは点ですよ。 > 点の部分。色即是空の空の一点の部分ですよ。 > そこで止まるとまずいです。 > そこから自己を忘れて=悟りを忘れたところが悟りです。 > 認識してる自分があったら(小さい方の自分があります) > 第五図っていうのは第五図のところでは認識出来ないんです。 > 一隻眼だから。
一点で止まるのがまずいのはおっしゃるとおりだと思います。
たーぼーさんの書き込みで仏教3・0や山下良道さんが言及されていましたが、その辺りの関連書、わたしも何冊か読んでいます。山下良道さんについていえば、彼ならではの最大の主張ポイントも一応理解したつもりです。それは第五図を第五図のところで認識できることだと思います。メチャクチャぶっ飛んだ発言なので、理解してくれる仏教関係者がほとんどいないそうです。
彼のいう第五図の認識というのは、主体が客体を認識するという通常の認識ではなく、主体も客体も消失した後、なお働いている意識のようなものだと思います。その意識を体験後に、あああのときはそういう意識だったと振り返って初めて自覚できるのではなく、体験の真っ最中に意識できている、そういう意識ですね。そういう意識が第四図の中身を認識できているのが、山下良道さんの第五図の認識だと思います。普通の人の意識は第四図を一歩も出ていない。
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