| 中島義道さんによると、カントの「現象」はあくま「正しい現れ」のこと。 もしそうだとするなら、カントの「現象」で見てゆこうとするなら、まずこの前提をおさえておいて、って思うんだけどわたしのばあい。
現象学の「現象」はカントの「現象(正しい現れ)」だけを相手にしてないとわたし思ってるから、ちょっと書いてるのね。
pipitさま、ちょっとうかがっていい? わたしが読んだカントについての本のなかにこんなことが書かれてある。
〔自然科学的な知識の正しさ、真理性(真理であるゆえんのもの)は、どこにあるのであろうか。まずそれを反省・批判・検討してみよう。そしてそのうえで、あの、同じく疑うことのできない形而上的関心のありかたは、どこにあるのだろうか。それとも、それは、許されない、いわば迷妄のようなものなのだろうか。しかし、もし、それが許されるとするなら、この形而上的関心を、学として基礎づけることはできないのだろうか。もちろん、そのような形而上学が、かつてのような独断論的なものではないことは、もうすまでもない。新しい形而上学は、法廷の審判をうけたうえでの、合法的なものではならないであろう。そこで、まずわれわれは、自然科学での知識の正当性・真理性(正しいゆえん、真理であるゆえん)を批判・検討することにしよう。『純粋理性批判』は、こうして、自然科学的な真理の性格の検討からはじまる。〕
『純粋理性批判』の”始まり”はこのようなものでいい?
「自然科学の知識は正当・真理である」が前提となっていて、この前提からその性格の検討が始まり。っていうことで?
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