| p155〜
黒崎先生の本を離れて、まず、表面的なことから述べます。
第二版書き換え問題、などと、問題視されることの多い改訂のことなのですが、
カント本人は 『本書で提示した命題と、その命題の証明の根拠について、さらに本書の計画の形式とその完全さについて、修正すべき点は発見できなかった。それは本書の刊行に先だって、わたしが長い時間をかけて吟味したからであり、あるいは問題となっている事柄の性質に(略)よるからでもある。』『純粋理性批判 1』中山元先生訳、p185.186、第二版 序文より抜粋引用 と述べてます。
つまり、カント本人は、書き換えたのは、 『記述の方法』(同本p187) のみ、と主張しているということです。
しかし、このカントの言説を鵜呑みにせず、
めっちゃ変えてるやん、しかもなかったことにするために必死に抹消しようとしてるみたいにみえるよ、
というようにみてる方や、また別意見の方達もいるようで、 かくして【第二版書き換え問題】議論が生じてるように私にはみえます。
天野貞祐先生の表現を引用すれば、 『そこで問題が起こる。 叙述におけるこの相違はカントの説そのものに関するやいなや、 もし関すれば、 両版のいずれが批判哲学の精神をより純粋に主張するものであるのかと。』 『純粋理性批判(一)』天野貞祐先生訳、天野先生の解説『『純粋理性批判』の成立事情および第一版第二版論』部分p28より引用
これから読んでいく黒崎先生の解説は、めっちゃ変えてるやん派の解説となる感じです。
そのカント解釈が、カントの主張を正確に受け取ってるものなのか、 それとも、カントが主張してないことが混ざってるカント解釈なのか、 『純粋理性批判』を通読さえできていないpipitには、わかりませんが、 まずは黒崎先生の文章の解読を目指して、読んでいってみます。
というわけで、p155〜
ここまでの考察から、黒崎先生は、カント哲学界では超有名と思われる、あの言葉を思い浮かべます。
『人間の認識には二つの幹、つまり悟性と感性があり、これらの幹はおそらくは、一つの共通な、しかし我々には未知の根から発している。(A15=B29、また『人間学』第三十一節参照)』 『カント『純粋理性批判』入門』p155より引用
pipitも、お??と惹かれた文章です。 意味深にみえますよね。 共通の根から、悟性の幹、と、感性の幹、が発している。
でも、黒崎先生も書いているように 『この「未知の根」とは「構想力」のことなのだろうか。この点について、カントは決してはっきりと語ったことはないのである。』同本p155より引用
と、カント自身では、はっきり〈一つの共通な根〉について説明してないみたいです。
カント先生も思わせぶりですね〜 こういうセリフもあって、余計、議論が賑やかになってしまってるように私にはみえます。
ハイデガーやヘーゲルは、この共通の根は、第一版でカントが想定していた構想力だ、と、考えてるのかな?と 今の段階では思っていますが、先を読んでいってみます。
次はp155の途中から。
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